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天空を流れ行く雲海の彼方に、神々の国である高天原(たかまがはら)は存在した。
神を初め、精霊や幽霊、はたまた悪霊や妖怪が住む霊界の中でも、最上級の場所である。
神々の中でも特に高貴な天津神(あまつかみ)が存在する神々の国だ。
天津神は高天原にいる、または高天原から天下った神のことである。それに対して、地上に現れた神々を国津神(くにつかみ)と言う。
高天原の中心部には荘厳な造りの宮殿があり、そこには高天原を統治する最高神のアマテラス大御神が君臨していた。
アマテラスは金色に輝く玉座に腰をかけて、目の前置いてある水晶を見つめていた。
「今日の世界は、特に大きな問題は起きていないようね」
白く細い指先で、水晶の表面を撫でた。
アマテラスが言う世界とは、この高天原を初めとした霊界はもちろんのこと、人間達が住まう地上世界までも含んでいる。彼女は高天原を統治する最高神であると同時に、天上界から人間界に至るまでをも明るく照らす太陽神なのだ。故に、日頃から特製の水晶を用いて、全ての世界の様子を見守っているのだ。とは言え、全てを隅から隅まで完璧に見通せる訳ではないが。
「今日もまた、熱心に水晶を覗いていらっしゃるのですね」
妙に艶めかしい女の声がした。振り向くと、その声に違わぬ艶やかな美女がいた。
「あら、アメノウズメじゃない。もう会合は終わったのかしら?」
アマテラスは微笑みながら呼びかける。
すると、アメノウズメはあからさまに表情を歪めて口を開く。
「ええ、まあ。相変わらずタカミムスヒの爺さんが小うるさいだけでしたけど」
「くす。例え本人が目の前に居なくても、目上の者に対してそのような口を利いてはいけませんよ?」
「だって、気に食わないものは気に食わないんですもの。もう、アマテラス様が政治を仕切って下さいよ」
ため息混じりに、すがるような目つきでアメノウズメが言った。
「私はあくまでも象徴として置かれているだけだから……」
どこか自嘲するように、アマテラスは苦笑した。
「もう、そんなこと言わないで下さいよ。あたしは優しく謙虚で慎ましいアマテラス様のことが好きですが、そんな風だからタカミムスヒの爺さんに政治の実権を握らせちゃうんですよ?」
「……そうね。私がもっとしっかりしていたら、十年前にあの子を……スサノオを死なせずに済んだかもしれない」
アマテラスは何か思いつめるように目を伏せた。
「やっぱり、まだそのことを引きずってるんですか?」
アメノウズメがそう問いかけると、アマテラスは苦笑を漏らして、遠くを見つめるように窓の外に視線をやった。
「あの子は……スサノオは傍若無人な振る舞いから他の神々に恐れ忌み嫌われていたわ。かくいう私自身も、初めはスサノオの凶暴さに怯え、嫌悪の念を抱いていたわ」
「そうですね。天岩屋戸(あめのいわやと)隠れの時は、この世も終わりかと思いましたもの」
天岩屋戸隠れとは、遠く昔に高天原で起きた事件のことである。
自らの統治すべき地上の海原へと向かわずに、高天原に居座ったスサノオは好き勝手に暴れ回り、やがて死者を出してしまう。それに恐れをなしたアマテラスが天石屋戸という洞窟に身を隠してしまった。すると、高天原から地上世界に至るまで、たちまち闇に包まれてしまった。太陽神であるアマテラスの光を失った世界は悪霊や怨霊で溢れ返り、混沌とした状況に陥っていた。そこで、高天原の有能な神々が集まり、各々の特技でもってアマテラスを天岩屋戸から引っ張り出し、世界に再び太陽に光が戻ったことで事件は幕を引いた。
「あの時は、あなたにも大分助けられたわね」
アマテラスが言うと、アメノウズメは妖艶な笑みを浮かべてみせる。
「別に大したことはしていませんよ。ただ、乳房を出して踊っただけです」
「ふふ、さすが芸能の神ね。近々行われる祭りでも、またそのようにして踊ると聞いたけど?」
「それがあたしの存在意義ですから」
アメノウズメはどこか誇らしげに言い放った。
「……話を戻すけど、天岩屋戸の時は私がスサノオに面と向かって話をしなかったのがいけなかったのよ。それをせずに身を隠してしまうなんて、私も子供だったわ」
「いえいえ、そんなことないですよ。みんなスサノオの方が子供だって思ってますから。あんな暴れん坊な子供がいたら、保護者的立ち位置の者は嫌になってしまいますよ」
「そうね……スサノオは子供だったのよ。父であるイザナキに命じられた海原の統治を放棄したのは、黄泉の国にいる母、イザナミの下へ行きたいという強い願望があったから。その後高天原で暴れ回ったのも、スサノオからしたらただいたずら気分でやっていたのよね。それが度を越していたのは事実だけれども、あの子は決して根が悪い子ではないわ。子供のように、純粋な心を持っていたわ」
ふいに、アマテラスは優しい微笑を浮かべた。全てを包み込むような、温かな笑みだった。
「へえ、そんなに弟のことを思っていたんですね」
少し茶化すようにアメノウズメが言った。
「そうね、大切に思っていたわ」
微笑みを湛えたままアマテラスは答えた。
「じゃあ、十年前の『霊能戦争』で、スサノオが死んでしまったことを、深く悲しまれたんじゃないですか?」
アメノウズメが言うと、アマテラスは静かに口を閉ざした。それから何かを噛み締めるように瞳も閉じてしばらく沈黙が生じた。
「……悲しんだわよ、とても」
その言葉は様々な感情が綯い交ぜになっているようで、複雑な響きを持っていた。
「それなら、タカミムスヒを恨んでいますか?」
眉をひそめながらアメノウズメが問いかける。
その問いかけに対して、再び幾分か間を置いて、アマテラスは口を開く。
「確かにスサノオに命がけの一騎打ちをやらせたのは彼だけども、その戦いにスサノオ自身も志願していたから……」
どこか遠くを見つめながらアマテラスは言った。
「じゃあ、スサノオを殺した飛鳥仁のことは恨んでいますか?」
「いいえ、そのようなことはないわ。彼は勇敢な戦士だもの。調子に乗って人間から過剰なまでの魂力徴収をしていた神々を止めてくれた。感謝こそすれど、憎むことなんて無いわ」
「はあ、さすがアマテラス様は徳がありますね。他の神々……とりわけタカミムスヒとその近辺の奴らは『霊能戦争』を契機に人間から徴収する魂税が下がったことに対して不満を漏らしていますよ。その内、また前みたいな魂税に戻すとか言いかねないですよ」
アメノウズメは長めの吐息を漏らす。
「そうね……でも、すぐに戻すことはしないと思うわ。以前のような魂税だと人間はみな衰弱して死んでしまう。そうなれば、魂力を得ることは不可能になる。今の日本国が私達の力が無いと生活を営めないのと同時に、私達自身も人間の魂力が無ければ暮らしていけないもの。今の状態を保つことが、天上界と人間界が共に発展するために必要なことなの。だから、以前のように過剰な魂税徴収はしないはずよ」
今から十五年前、日本国は度重なる天災と経済危機により崩壊寸前に追い込まれた。
アマテラスも例の水晶でその様子を観察していた。そして、かつてない程の危機的状況に際して、ついに神々が直接力を貸さねばならないと考えていた。天上界の神々にとっても、地上界の人間達が滅ぶことは由々しき事態なのだ。地上界は元々神々が作り上げたものであり、それが壊れることは良しとしない。それから、祭祀で人間達が神々に捧げる供物は娯楽として大切であるし、何よりやはり人間の魂である。神々にとって人間の魂は力の源であり、また快楽を得ることが出来るものなのだ。日本が崩壊の危機を迎える以前から、神々は人間が捧げる供物などから少量の魂を吸い取っていた。もちろん、命には全く問題が無い程度にだ。ちなみに、神々においては他者の魂を受け取ることができる。故に、神同士で互いの魂を奪い合う争いが起きることもあった。それも、人間が魂を定期的に奉納する仕組みが出来上がってから緩和された印象がある。だがその代わりに、人間から得た魂を自分達がより多く手に入れようと画策する者達がいると噂されている。己の力をぶつけ合う戦いとは違って表面化しないため、非情にタチが悪い。
「ていうか、人間の魂を得るために画策しているのって、絶対にタカミムスヒの爺さんだとあたしは思ってますけどね」
両手を腰に当てて、ため息混じりにアメノウズメは言った。
「――お主は随分と失礼な物言いをするのだな」
ふいに、アメノウズメを咎めるような声がした。
彼女が振り返ると、そこには 白髪に長白髭を垂らした老神がいた。
「げっ、タカミムスヒの爺さん!」
老神――タカミムスヒは眉をひそめてぎろりとアメノウズメを睨みつける。
「それが上の者に対する口の利き方か?」
「ぐ……タカミムスヒ……様。ノックもしないでアマテラス様のお部屋に入ってくるなんて、どちらか無作法なのかしら?」
アメノウズメはどこか勝ち気に言った。
「ほう、お主はきちんとノックをしてからアマテラス様のお部屋に入ったのか?」
「えっ? いや、それは……」
途端に、アメノウズメはそっぽを向く。
「ふん、どうやら他者のことを言えた口ではないようだな。私は、扉が開けっぱなしだったので、そのまま入ったのだ。扉を開けっぱなしにしたのはお主ではないか、アメノウズメよ?」
タカミムスヒの静かな視線が突き刺さると、アメノウズメは表情を歪ませ、
「うー……申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。
「……初めからそうしておれば良いのだ」
タカミムスヒは頭を垂れるアメノウズメを睥睨しながら言った。
「……ちっ、クソジジイが」
誰にも聞こえないような声量でアメノウズメは呟いた。
「それで、タカミムスヒ。私に何か用かしら?」
玉座の上から、アマテラスは尋ねる。
「はい人間の魂税徴収に関して報告がございます。人間界の方で、今月の地域レベルの霊能試合がほぼ完了したそうです。魂の奉納はいつも通り月末に行われる予定でございます」
先ほどとは打って変わって、丁寧な口調で喋るタカミムスヒ。
「そうですか、分かりました。報告ご苦労さまです」
アマテラスはしとやかに笑みを浮かべた。
「はっ。では、私はこれにて失礼いたします」
恭しく礼をして、タカミムスヒは部屋から立ち去ろうとする。
「あ、ちょっと待ってくださいよー」
そんなタカミムスヒの背中に向かって声が飛んだ。
それは間延びしたアメノウズメの声だった。
「何かね?」
眉をひそめながらタカミムスヒは振り返った。
「この際だから言っておきますけど。あんたが握っている政治の実権、アマテラス様に渡した方が良いんじゃないですか?」
「待ちなさい、アメノウズメ」
背後で制止するアマテラスを無視して、アメノウズメはタカミムスヒと向き合う。
「ほう、それはなぜかね?」
興味深い、といった様子でタカミムスヒは髭をさすった。
「あんたはこの高天原の政治の実権を握って、裏で好き勝手してんじゃないの? どうにも、あんたばかり甘い蜜を吸っている気がしてならないのよ」
「ふむ。確かに、政治の長を務めている故に、他の者よりも少しばかり余計に人間が奉納した魂をいただいているのは事実だが」
「そんなことは知っているし、別に大した問題じゃないわよ。ていうか、十年前にスサノオが死んだのだって、どうせあんたが裏で暗躍していたんでしょう?」
吐き捨てるように言ったアメノウズメに対して、タカミムスヒは眉ひとつ動かすことなく、冷静に口を開く。
「確かに、私は十年前の『霊能戦争』において、人間側の飛鳥仁とこちら側のスサノオが一騎打ちをすることを提案した。だが、それはスサノオの力を見込んでのことだった」
「仮にそうだとしても、何も命がけにする必要は無かったでしょ?」
「そうでもしなければあの戦争は終わらなかった。それに、スサノオ自身が望んだことでもあった」
「嘘おっしゃい! どうせ、あんたが何か吹きこんだんでしょう?」
拳を握り締めたアメノウズメはタカミムスヒに詰め寄った。
「――そこまでにしておきなさい、アメノウズメ」
静かな、それでいて威厳の漂う声がその場を制止させた。
それは玉座に佇むアマテラスの声だった。
「けれども、アマテラス様……」
「おい、お主。アマテラス様がやめろとおっしゃっているのだぞ? 自重したらどうだ?」
「ぐっ、この……!」
悔しさを表すようにアメノウズメは拳を握りしめた。
「……アマテラス様に免じて、今までの無礼な言葉遣いは許してやる」
タカミムスヒは顎をしゃくり上げながら言った。
「そうだ、ついでにもう一つ話をしておこうか。お主は先ほど、アマテラス様に政治の実権を渡せと言ったが……お主はアマテラス様の負担を考えたことがあるのか?」
「え……?」
思わぬ問いかけに、アメノウズメは目を丸くした。
「例えば、アマテラス様が毎日のように行っている世界の観察。ただ水晶を覗いているだけでそれほど負担はないように見えるが、その実はとても神経をすり減らす作業なのだ。さらに、世界を照らす太陽神としての責務も果たしておられるのだから、その負担はお主が……みなが思っている以上に大きいのだ」
タカミムスヒがちらりと目配せをすると、アメノウズメは唇を噛み締めていた。
「良いか、何事も継続させる上で大切なのは役割分担なのだ。頂点に立つ者に全てを押し付けては、例えその者に大いなる力があったとしても、いずれは崩壊してしまう危険がある。だから、私はアマテラス様の負担を減らすために政治の長を務めている。ついでに言うと、私は自分が政治に向いていると思っている。なぜなら、それは私が臆病者だからだ。政治は色々な根回しが重要になってくる。これから起こるであろう事にたいして危惧して、根回しをする。それはとても神経のいることでな。私も日々重圧を感じながら生活をしておるよ。つまりだ、政治の長まで務めることになれば、アマテラス様の負担は計り知れないものになる」
そこで、タカミムスヒは一歩前に出た。
「……ですが、もしアマテラス様がそのような負担などものともせず、政治の実権を寄こせとおっしゃるのであれば、私は今すぐにでもそれを譲渡する所存にございます」
玉座に座るアマテラスに向かって、タカミムスヒは深々と頭を下げた。
辺りがしんと静まり返った。しばらく、時の流れが止まったかのような錯覚に陥る。
「……タカミムスヒ。あなたの言ったことは正しい。今は、政治においてあなたの力が必要不可欠です。だから、これからも政治の長として活動して下さい」
アマテラスがそう言うと、アメノウズメが何か言いたそうに口を開きかけるが、結局何も言わずに押し黙った。
「はっ、お任せ下さい。このタカミムスヒ、天上界は元より、人間界の末永い繁栄のために尽くす所存にございます」
また深々と頭を下げながらタカミムスヒは言った。
「では、これにて失礼いたします」
タカミムスヒは踵を返して出口へと向かう。
「……ああ、そうだ。最後にもう一つだけ言っておきたいことがある」
頭だけで振り返りながらタカミムスヒは言った。
「アメノウズメよ。威勢が良いのは結構なことだが……あまり喚き散らすのは品のない猿のようであるぞ。そのような振る舞いをしていると、また猿女君(さるめのきみ)と呼ばれてしまうぞ?」
言われた瞬間、アメノウズメの顔がかっと真っ赤に染まり、
「そ、その名前で呼ばないでちょうだい!」
必死に叫び声を上げた。
猿女君という名は、天孫降臨の際に、アメノウズメが応対したサルタヒコの名前を取って付けたことに由来する。彼は天孫――アマテラスの孫であるニニギを初めとした一行が地上世界に向かう際に、その案内役を担ったのだ。その姿は天狗に近いものであった。
「どうしてだ? お主にぴったりの名前であろうに。……さては、サルタヒコと恋愛がらみのいざこざでもあったのか? 初めてサルタヒコと会った時に、お主はお得意の破廉恥な踊りをしてたぶらかしておったからのう」
「黙れ、セクハラジジイ! それに、あの長鼻(ながっぱな)野郎とは何も無かったわよ!」
「まあ、そういうことにしておこうか」
あくまでも余裕の笑みを浮かべながら、タカミムスヒは去って行った。
「……ちくしょう、あのクソジジイめ」
その場に残されたアメノウズメは、掠れるような声で呟いた。
「しょうがない子ね、あなたも」
それまで玉座に佇んでいたアマテラスがすっと立ち上がり、肩を落とすアメノウズメへと近寄った。そして、そのままアメノウズメの肩を抱き締めた。
「……アマテラス様?」
呆気にとられたように、アメノウズメは目を見開く。
「大丈夫、あなたは決して品のない女じゃないわよ」
乱れたアメノウズメの髪の毛を撫で梳かしながら、アマテラスは優しく囁いた。
「……ありがとうございます」
柔らかな温もりに包まれながら、アメノウズメは穏やかな表情を浮かべたのだった。
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