3
月が夜闇を照らしていた。
振りかざした霊剣の先端が、その光を受けて怪しく輝く。
そして、鋭い斬撃が放たれる――が、そこには誰もいない。
切り裂かれたのは夜風だった。
「……ふぅ」
振り下ろした霊剣を持ち上げて、建は静かに息を吐いた。
霊能省への報告、霊戦士の会合を終えると、いつの間にか夜を迎えていた。
建は霊能省の敷地内にある広場で鍛錬をしていた。小一時間ほど、一人で黙々と霊剣を振るっていた。
霊能省は三重県伊勢市にある。日本の祭祀の中心である伊勢神宮とほど近い場所だ。
本来は国のいち行政機関であるため東京都に置かれるはずであったが、日本の祭祀の中心は伊勢神宮であり、国レベルの霊能試合がそこで行われることもあり、三重県伊勢市に設置されることになったのだ。その主な業務は国・地域レベルの霊能試合の運営である。各神社で行われる祭祀に関しては、一応の視察はするが細かい口出しはしない。他には、神社本庁と陰陽本庁の管理をしている。そして、霊戦士の管理も霊能省の仕事であった。
霊戦士の起源は陰陽師のとある流派にあり、その名を「牙龍派(がりゅうは)」といった。
かつて陰陽師は平安貴族と同じように帯刀をしていた。それはあくまでも貴族としての衣装、いわゆるファッションであり、陰陽師の武器は当然のことながら呪術や式神であった。
しかし、そんな中で独自に剣術を磨いた者達がおり、彼らが集まって牙龍派を作り上げた。その後、剣術以外の弓術や槍術を磨く者も現れた。彼らは歴史の表舞台に出ることは無かったが、その系譜は水面下で着実に受け継がれていた。
そして、十年前の「霊能戦争」を経て、牙龍派は霊戦士と呼ばれるようになったのだ。
「……はっ!」
再び、建の霊剣が夜風を切り裂く。同時に嫌な思い出も一刀両断するかのように。
「……ふぅぅ」
先ほどよりも、幾分か長めの吐息を漏らし、建は気持ちを落ち着かせる。
「――こんなところで何しているの?」
いきなり背後から声をかけられた。しかし、その声には聞き覚えがあったので、建は特に振り返ることもせずに応じた。
「君の方こそ、こんな時間に何をやっているんだ――亜矢?」
「質問に対して質問で返すのはやめてくれない?」
亜矢の不機嫌そうな声を背中で受け止め、建は苦笑交じりにため息を漏らす。
「もしかして、今日出雲で待たせたことまだ怒ってるのか?」
出雲から霊能省へと向かう道中、車内では案の定不機嫌オーラを放ちまくる亜矢の隣で、建はひたすらに息が詰まるような思いをするはめになったのだ。
「なによ、まるであたしが恨み深くてしつこい女みたいな言い方ね?」
亜矢がぎろりと鋭い眼光を放った。
「いや別にそんなこと言ってないだろ」
「うるさいわね、口ごたえしないでくれる?」
彼女の口が悪いのはいつものことであるが、さすがに耐えかねて憎まれ口の一つでも叩いてやろうと口を開きかける――が、どこか不毛な気がしたのでやめて口をつぐんだ。
そんな建の様子を見て、亜矢は小さく吐息を漏らす。
「……ところで、あなた今度の悪霊退治に参加する?」
「いや、特に参加する予定はないけど……亜矢は参加するのか?」
「ええ、そのつもりよ」
「ていうか、それは陰陽師の領分だろ? 俺達が手を出すのはあまり良くないんじゃないか?」
ここで言う陰陽師とは、呪術や式神を扱う従来の陰陽師のことである。
陰陽師は平安時代に繁栄し、その後も国の政治において重要な役割を果たしていた。
しかし明治初期になると、近代科学の導入に際して妨げとなり、また占いなどで天皇に意見を述べるのは不敬であるなどの理由から、陰陽寮が廃止されて没落した。その後は天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)として復活するも、かつての繁栄を取り戻せずにいた。
十年前、魂税の過剰な徴収によって神々と争うことが決まった時、陰陽師はここぞとばかりに名乗りを上げた。もちろん戦いに勝利することでかつての繁栄を取り戻すためである。その当時、霊能者で霊的存在との戦闘手段を持つのは陰陽師だけとされており、彼らに期待が寄せられた。だがそこで問題が生じた。陰陽師の力は、呪術や式神を駆使して戦う悪霊退治のための力である。しかし、その時戦う相手は悪霊ではなく偉大な善神達であった。陰陽師の主な武器は前述の通り呪術と、そして何より式神の力が大きいのだが――そもそも式神は神であり、その中では末席――有体に言えば下っ端的存在である。故に偉大な善神達に対して力を発揮することが出来なかった。つまり、その当時の戦いに陰陽師の活躍する場は無かった。そして、その代わりに陰陽師の派生である牙龍派――後の霊戦士――に白羽の矢が立ったのだ。そして以後、神々との戦いは霊戦士に任されるようになった。
では活躍の場を奪われた陰陽師はどうなったのかというと、彼らは人間界にはびこる悪霊や神が零落した妖怪の退治を任されるようになったのだ。
「問題ないわよ。十数年前に神々との繋がりが強まってから国土や経済は安定したけど、その代わり霊的事件の発生も増加したのは知っているでしょ? けれども、陰陽師の数も私達と同じくらい不足がち……いや、むしろあたし達よりも少ないんじゃないかしら? その手伝いをするんだから咎められることはないわよ」
あくまでも強気な態度を見せる亜矢。
「まあ、確かにそうかもしれないけど。絶対に陰陽師の奴らは不満に思っているぞ?」
「陰陽本庁からの依頼だもの。下で働く陰陽師達が何と言おうと関係ないわ」
陰陽本庁とはその名の通り陰陽師を管理するための機関である。日本の神社を統治する神社本庁と並んで霊能省の管理下にあるが、位は神社本庁の方が高い。
「現場で人間関係のトラブルとか起こすなよ……ていうか、陰陽本庁から依頼がきても、強制じゃないだろ? 俺も何度か依頼されたことがあるけど、大体断っているし」
「そうね。霊戦士としての職務のほうが優先されるから、そちらに支障をきたす恐れがある場合は余裕で断れるわ」
「じゃあ断れば良いじゃないか?」
「悪霊退治をしたって、霊戦士の仕事に支障をきたすことはないわ。むしろ、自分の実力向上にも繋がるしね」
勝ち誇るように、亜矢が言った。
「……そうだとしても、やっぱり放っておけないな」
神妙な面持ちで建が言うと、亜矢は露骨に眉をひそめた。
「は? 何であなたにそこまで言われなきゃいけないのよ?」
建はすっと霊剣を腰に提げていた鞘に収める。そして、亜矢の前に立つ。
「そんなの決まっているだろ?」
「だから何よ?」
苛つきを露わに、亜矢は建を睨みつける。
直後、亜矢の両肩を建の手が掴んだ。
いきなりのことに驚いたのか、亜矢がびくりと線の細い身体を震わせて、目を見開いた。
「お前は、俺の大事なパートナーだからだよ!」
建の叫び声が、辺りの闇をかき消すが如く響き渡った。
「な、何言ってんのよいきなり……」
亜矢は伏し目がちになって言った。
そんな彼女に対して、建は構うことなく続ける。
「亜矢は気が強くて意地っ張りで、正直俺はちょっと苦手な面もあるけど……今まで一緒に戦ってきた大切なパートナーだ。確かに、君の力なら陰陽師の悪霊退治に加勢しても、霊戦士としての仕事に支障をきたすことはないのかもしれない……けど、それでもやっぱり心配すんのがパートナーの務めだろうが」
建はたじろぐ亜矢の目を真っすぐに見つめた。彼女の肩を握る手にも、自然と力が入ってしまう。
「……ちょ、離しなさいよ!」
亜矢はその身体をみじろぎさせ、建の両手を振り解き、すぐさま後退した。
「あ、すまない。つい力が入ってしまって……痛かったか?」
冷静になった建は自らの非を詫びた。
だが、亜矢は俯いたまま口を開こうとしない。
建は小さく肩をすくめた。
「……じゃあ、俺はそろそろ宿舎に戻るから。君も風邪を引かないうちに早く中に入れよ」
ひらひらと手を振って、建は踵を返して亜矢に背を向けた。
本当は奈良県桜井市にある自宅に帰るつもりであったが、思った以上に仕事が長引いたので今日は霊能省の宿舎に泊まることにしていた。枕が変わると寝られない、などと繊細なことを言うつもりはないが、やはり自宅の寝室に比べると他所の寝室は落ち着かない。今日はぐっすりと眠れるだろうか……そんなことをぼんやりと考えながら歩き始めた。
その時だった。突然、建の背中に何かがぶつかった。
驚いて振り返ると――亜矢が背中に抱き付いていた。
「えっ、亜矢……?」
驚愕のあまり建はしばし呆然と立ち尽くしてしまう。
状況が全く飲み込めなかった。なぜ、立ち去ろうとした自分の背中に亜矢があろうことか抱き付いて来たのか。何か言い忘れたことがあるなら呼び止めるか、もし触れるにしても手にすれば良いはずなのだが。
「おい、どうしたんだいきなり? 何か言いたいことでもあるのか?」
問いかけるも、当人の亜矢は黙りこくったままである。
背中を伝って亜矢の感触が伝わって来る。霊戦士として鍛え上げられた身体は一切たるみがない。その上で、女性特有の柔らかみも損なってないのだから不思議だ。
とうとう痺れを切らせた建は、首を捻って後ろを振り返った。
「おいってば……!」
振り返って、思わず口をつぐんだ。
いつも周りを威嚇するようにきつい表情を浮かべている亜矢が、どこかしおらしい顔つきになっていた。そして、その頬は紅く染まっていた。
「……ごめんなさい」
亜矢の口から漏れた弱々しい声に、建は目を見張った。
「何がだ……?」
「いきなりこんな風に抱き付いて……」
「えーと、あれだろ。何か言い忘れたことがあって俺を引き止めたんじゃないのか?」
そう言った建の声は上ずっていた。
「……うん、あるよ。建に言いたいことが」
あくまでも静かな声で、亜矢は言った。
「何だ? 今日は色々あって疲れているから、出来れば手短に頼むな」
「うん、分かった……」
普段の亜矢からは考えられないくらいに、素直な返事であった。
亜矢は一旦目を伏せて、小さく息を吐いた。
そして、何かを決意したように顔を上げた。
「――あたし、建のことが好きなの」
その瞬間、時が止まった。
夜風が凪ぎ、草木の揺れる音が止んだ。
息が詰まる。建は呼吸することを忘れていた。
ただ、背筋に広がる亜矢の温もりだけは確かに感じていた。
「……え?」
頭が真っ白になった状態で、ただぽつりと呟く。
「だから、あなたのことが好きだって言っているでしょ! 何度も言わせないでよ……」
頬を紅潮させた亜矢が、ぼふっと建の背中に顔をうずめた。
「いや、すまない。いきなりで驚いたからさ……」
気が付けば、建も自分の頬が赤くなるのを感じた。
「そんなに驚いたの……?」
「当たり前だろ。だって、普段のお前はホント当たりがきつくて、絶対に俺のこと嫌いなんだろうなって思ってたぞ」
「あたしはこんな性格だから誰に対しても当たりは強いわ」
「いーや、俺に対しては特にきつかったぞ」
苦笑しながら建は言った。
「それは……あなたが私にとって特別な人だから」
その直後、建の背中に伝わる熱量が増した。亜矢の身体が、より一層の熱を帯びたのだ。
建は未だに信じられなかった。あの亜矢が自分に対して好意を抱いている。普段の凛とした佇まいからは想像も出来ないくらいに、繊細な女の姿を晒している。一年間ペアを組んで一緒に戦ってきたので、彼女についてそれなりに熟知しているつもりであった。しかし今目の前にいる少女は、それまで建が知っていた小早川亜矢とは全く別人であった。
「……ずっと、この背中を見てきたの」
亜矢は建の背中をじっと見つめた。
「強大な霊威を持つ神々に対して、真っ向から立ち向かって行くあなたの背中を私はずっと見ていたんだよ」
「そ、そうか」
無性に照れくさくなって、建は目を伏せた。
「決して筋骨隆々のたくましい背中という訳じゃないけど、とても頼りがいがあって……この身を全て委ねても良いと思えるくらいよ」
指先で建の背筋を撫でる亜矢の表情は、本当に愛おしいものを見つめるそれであった。
「……なあ、君は本当に亜矢なのか? 熱でもあって調子がおかしいんじゃないか?」
普段とあまりにかけ離れた亜矢の姿を、建はにわかには受け入れ難かった。
「……うん、熱ならあるよ。好きな人の背中に抱き付いているんだもの」
頬を朱に染めて、恥じらいながら亜矢は言った。
建は混乱していた。普段はひたすらにきつい物言いをしてくる亜矢が、今はこんなにもしおらしい女子の姿を晒している。彼女にこのような一面があったことに内心驚愕の嵐であった。
正直に言うと、少し可愛いと思ってしまった。いや、かなり魅力的な女子だと感じてしまった。
「亜矢……」
一瞬、彼女の華奢な身体を抱きしめようという衝動が湧き起った。自分に対してこれほどまでに好意を抱いてくれていた彼女のことを、その気持ちを受け入れそうになった。
しかしその瞬間、建の脳裏に浮かんだのは、儚げに微笑む白百合の顔であった。
動きかけた身体が硬直する。寸でのところで踏みとどまった感覚を得た。
建は小さく吐息を漏らし、くるりと身体を回して亜矢に振り返った。
そして、彼女を見据えて、ゆっくりと口を開く。
「……すまない、君の気持ちを受け入れることはできない」
喉の奥から捻り出すように、建は言った。
それまで頬を赤らめていた亜矢の表情が、ふっと弾け飛び、大きく目を見開く。肩を小刻みに震わせながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「……やっぱり、建は白百合って子が好きなの?」
震える声で、亜矢は言った。
しばし間を置いて、建はゆっくりと頷いた。
「……ああ、そうだよ」
「あたしじゃだめなの? あたしってやっぱり魅力がないのかな?」
「いや、そんなことはないよ。君はとても魅力的な女性だと思う。さっきも、君の意外な一面を見てとても可愛らしいと思ってしまったほどだ」
「じゃあ、何で? その子のどこがそんなに良いの?」
亜矢の眼光が見慣れた鋭さを帯びる。だが、そこにはどこかすがりつくような脆さを感じた。
そんな彼女を見て、建は口をつぐんだ。
なぜ、亜矢ではく白百合を選ぶのか?
その理由をいきなり問われると、正直困惑してしまう。
もちろん、白百合に心惹かれる理由は多々あるが、上手く言葉にできない。
けれども、目の前で真剣な眼差しをぶつけてくる亜矢に対して、何かしらの返答をしなければならない。建はおもむろに口を開く。
「……白百合は、何か人には言えないような過酷な運命を背負わされている気がするんだ。もちろん、本人や周りからそんな話を聞いた訳じゃないけど……だからかな、彼女がとても儚い存在に思えて、自分の手で守りたい……そんな気持ちになるんだ」
少しもたつきながらも、何とか言葉にできた。
だが、依然として亜矢の鋭い眼差しが向けられている。
「つまり、あなたはか弱いお姫さまを守ってあげたいってことなの?」
罰が悪そうに、建は頬をかく。
「まあ、そうなるのかな……」
どこか曖昧な返事をする建を見ると、亜矢は眉をきつく寄せて小さく唸った。
そして、憤りを露わに踵を返して、建に背を向けた。
「あなたの気持ちはよく分かったわ」
そう言った亜矢に対して、建は小さく手を伸ばす。
「おい、亜矢……」
「付いて来ないで!」
亜矢の叫び声が夜闇に響き渡る。
「……同情ならいらないわ。今優しい言葉をかけられても、余計みじめに感じるだけよ」
建の目に映ったのは、震える亜矢の拳だった。
「亜矢……」
「じゃあ、おやすみなさい」
何か言いかけた建の言葉を切るようにして、亜矢は言った。
亜矢の姿が漆黒の夜闇に消え入るまで、建はその場で呆然と立ち尽くしていた。
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