第2話
そこからフェリスの頭の中は領主様のことでいっぱいだった。
「フェリス、いつまで同じところを掃除してるの!」
「ご、ごめんなさい!」
「もう何度目よ。最近何かあったの? 深刻そうな顔して」
同僚は心配そうな顔でフェリスを見つめる。
領主様の異変に気付かない彼女にフェリスは何も言えなかった。
「なによ黙っちゃって。領主様の心配より自分の心配した方がいいんじゃない?」
「そ、そうね……気を付けるわ。ごめんなさい」
「別にいいわよ。でも私もあなたが心配だわ。なにかあったなら言いなさいよ」
面倒見のいい同僚はそう言って持ち場に戻っていった。
フェリスは箒を握り直し、仕事に集中するためかぶりを振るって気を通りなおす。
心配する気持ちを押し殺してその日の仕事を終えた。
どうしたら領主様を吸血鬼の魔の手から救えるだろうか。
母を失った時、フェリスは何もできなかった。
治療院で病に蝕まれていく母を見舞うことしかできず、弱る母に何もしてやれなかった日々を思い出す。
今でも悔しくて悲しくて、歯を食いしばらないと堪えられない気持ちになってしまう。
また何もできずに見送るのは嫌だった。
フェリスは図書館に通い、魔族の資料を漁るがどういった魔族がいるのかは記載されていても、その倒し方や弱点はどの資料にも記載はない。
十年以上も前に和解し、今は隣人として過ごす相手のそんな情報を、こんな場所で手軽に平民に開示する筈がないのは当然だった。
ある日の仕事中、一冊の本が掃除している部屋に落ちていた。
棚から落ちたようで、ページがはらりと開かれている。
何気なくそのページに目を向けると、魔族との戦い方について記載されていた。
――のどから手がでるほど欲しい情報だった。
フェリスは箒を壁に立てかけ、周囲に誰もいないのを確認して本を手に取る。
聖水で清めた銀のナイフは吸血鬼の天敵で、一突きすればたちまち灰になって消えてしまうという内容だった。
真偽は分からない。それでも、フェリスはそれに縋るしかなかった。
フェリスは貯めていた給金で銀のナイフを買い、街の教会から聖水を買った。
そうして、彼が遅くまで執務室で仕事に励んでいる時を狙って忍ばせたナイフを振るったのだ。
そして時は冒頭に戻る。
綿密に準備したとっておきの一撃。
それをまるで意にも介さず受ける彼。
――失敗した
彼女の脳内には絶望だけが満ちていた。
静寂を彼が破る。
「俺はこの日を待ちわびていた」
愛しい恋人にかけるように熱烈に彼は言う。
「君は俺を領主に成り代わった悪鬼だと思っているだろう。だがそれは違う。俺はこの人間の召喚に応じてここにいる。不完全故に俺が彼の体を乗っ取ることになったがな」
「……そ、んな…」
領主様は領主様に変わりなかった。
自分の主人を手にかけてしまった事実がフェリスの絶望に拍車をかける。
この手に伝う血は紛れもなく領主様の血なのだと認識した途端手を引っ込めたくなった。
しかしそれは叶わない。
力強い手は揺らがずフェリスの手を押さえつけていた。
「感謝する。これでこの体から解放される」
彼がそういうとふ、と手にかかっていた強い力が抜けた。
その拍子にフェリスはナイフから手を離した。
そのまま彼はぱたりと倒れていく。
その横に、いつの間にか男が立っていた。
目はランランと光り、にいと笑うその口元には牙が光る。
真っ黒なマントを羽織った彼はこちらに丁寧に礼をした。
「時に
男の言葉が聞こえているかいないかも分からぬ様でフェリスは茫然と足元に倒れる領主を抱きかかえる。
自らの手で刺したその傷から止めどなく血が溢れていた。
領主様は意識がなく、苦しそうに呻いている。
「一つ提案があってね」
フェリスのからっぽの頭によく響く、大層機嫌のいい声だった。
「君が俺の下に来るのであれば彼を元に戻してやってもいいだろう」
ばっと勢い良くその目をフェリスは男に向ける。
悪魔のような笑みを浮かべた男が目に入った。
「……領主様が助かるの?」
「もちろんだとも。なんなら俺が彼に取りついていた時の記憶だってサービスしてやってもいい」
ずいぶん軽薄な笑みだった。
この怪しい男を信じる事などとうていできない。
されど、他に手が無いのも事実だった。
「本当に助かるの? 絶対に?」
「もちろんだとも」
なんとも甘美な囁きだった。
フェリスは取り返しのつかない事をしてしまった。
しかしそれを取り消してくれるとこの男は言う。
もうフェリスには何も考えられなくなっていた。
黙り込むフェリスを見て、いいことを思いついたと男は声を上げる。
「先にその男を治せば、信じてくれるかな?」
そういうとパチンと指を鳴らし、領主様の周りに一瞬もやがかかった。
瞬きの間にどくどくと流れていた血と銀のナイフは消え、彼の顔にたちまちに血色が戻る。
まるで眠っているかのように落ち着いた様子となった。
彼の腹を撫でるもなにも無かったかのように反応がない。
傷の感触もしなかった。
領主様はいたって健康そうに見える。
先ほどまでの絶望が消え、どっと気が抜けたフェリスはその場に座り込んだ。
「君の願いは叶えた。今度は俺の願いを叶えてもらおう」
それがその日フェリスが最後に聞いた言葉となった。
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