吸血鬼さまのお気に召すまま

ひらい

序章 吸血鬼さま、少女に出会う

第1話

「俺に逆らうか」


 斬り付けられた腹部を撫でながら彼は笑った。

 銀のナイフが見事に突き刺さり、刺した時に出た血がどくどくと垂れる。

 その様子を愛でるような仕草を見てフェリスは震え上がった。

 聖水で清めた銀のナイフ。フェリスの渾身の一撃は無力だった。

 刺された勢いで机に腰掛けるような姿勢になった彼はフェリスを引き寄せ耳元に口を寄せる。


「震えているのか?」


 極めて嗜虐的な笑みの滲む声だった。

 フェリスの両手はまだナイフにある。

 傷口を撫でた手がその手を掴んだ。

 どろりとした血の感触と、骨まで軋むほどの力が手に伝う。


「逃げさせはしない」


 痛くて泣いているのか、怖くて泣いているのかもうフェリスには分からなかった。

 雫が顎を伝って胸元を濡らす。

 その顔を覗き込んで彼は笑みを深めた。


「勇敢な割には泣き虫なんだな」


 フェリスを引き寄せ、手を頬に添えた彼は口づける前かのように上向かせた。







「領主様、最近ちょっと変じゃない?」

「そうかしら?」

「お変わりなさそうに見えるけど…」


 フェリスの疑問に使用人仲間はきょとんと答えた。

 今はお昼時。

 休憩が被った仲間たちにフェリスは最近よくこの質問をしていた。


「フェリスったらまたそんな質問してるの? 領主様大好きっ子なのは知ってるけどほんとに好きにでもなっちゃった?」


 そうからかうのはここで長く勤めているリリスだ。


「違うの、ほんとにご様子が変わったように見えるから聞いてるの!」

「そうね、あんたからしたら領主様が前髪をほーんのちょっと切っただけでもお変わりあるかもね」

「ちーがーうーのー!!」


 なぜ周囲の人間はあれだけ領主様がお変わりになっても誰も気づかないのだろう。

 そう思いながら、からかわれるのは何度目の事かも忘れてしまった。


 領主様は気さくで優しく慈悲に溢れたお方だ。

 気難しそうなお顔立ちのせいで少し奥様探しに時間がかかっているが、いつご結婚が決まっても可笑しくないお年頃。

 ご両親は現在ご病気で早めに隠居なさったので彼は若くして領主様となった。


「いっそフェリスが奥様になったら気楽かもね〜」


 使用人仲間の一人がこぼす。

 フェリスがぼうっとしてる内に話題は領主様の奥様の話になっていたらしい。


「恐れ多いこと言わないで! 領主様に勘違い女だと思われたら目も当てられないわ」


 フェリスがため息をつく。

 散々からかわれている内にあっという間に仕事の時間が来たため、その場は解散となった。


 フェリスが領主様大好きっ子と呼ばれるには理由がある。

 父のいないフェリス母娘をまとめて住み込みで受け入れてくれている領主様一家には頭が上がらない。

 母は美人で頭がよく回り、なんと平民ながら貴族しか通えない王立学園に特待生で入学し卒業したらしい。

 そんな特別な例は中々ないので真偽は不明だが、母が器量よし機転よしなのは事実だった。

 母に似ず不器用なフェリスが領主様のお屋敷で働けているのも母のおかげである。

 その母も、5年前に病で儚くなった。

 原因不明の病だった。

 治療院に隔離されてから幾月で危篤のため呼び出され、看取ることができたのは偏に時間をくれた領主様のおかげである。

 そうして親なき子になったフェリスの面倒を見てくれたのも領主様だった。

 元々フェリスは母とともに幼いながら働いていたが、小遣い程度の働きしかしていなかったものを正式に使用人として教育し、仕事量は増えたが生活に困らないだけの給金にまで増やしてくれた。

 部屋はこれまで通り母娘で使っていた部屋をフェリス一人に使わせてくれ、そうして今に至る。

 十八歳になった今でこそやっと半人前を卒業できたが、半人前を雇うには破格の対応だ。

 フェリスの人生を形作る存在こそが領主様といってもいい。

 フェリスは領主様を心から慕っていた。


 だからこそ思う。

 あれだけ顔色が悪いのになぜ誰も気が付かないのかと。


 領主様は決して家にこもりがちな方ではない。

 こむぎ色とまではいかないが肌の色は健康的で、今のように青白くなどなかった。

 外に出る時の外套の量もおかしい。

 もう春だと言うのに冬のように顔が見えなくなるまで着込んで馬車に乗るお姿に違和を覚えるのは当然だった。

 庭の散策をされたり暇さえあれば日に当たる場所にいた方なのに、今は全く日を避けるように生活なさるのもおかしい。

 お食事はよくお食べになる方なのに最近は随分と少食になった。

 何もかも、おかしい。


 けれど誰一人気づきもしない。

 それだっておかしい。


 フェリスは自分がおかしくなったような気分だった。

 ――おかしいのは皆なのに。


 それに気づいたフェリスは人ならざるものの影響で周囲の異変が起きているのではないかと考えた。

 今でこそ平和な世だが、一昔前は魔族と戦争を行っていた。

 魔族の領地と人間の国の境目に位置するこの国は、戦争から和解を経て最前線から魔族と人間が入り混じる境目の国へと変わった。

 その魔族が度々いたずらを起こす事があると、フェリスは母から教わった事がある。

 こんな異変は魔族の仕業に違いない。

 ――そうでもないと自分がおかしくなりそうだった。


 そこからのフェリスの行動は早かった。

 休日を迎えたフェリスは図書館に来ていた。


「魔族について書かれた書物はどれだろう……」


 司書に該当の本がある場所を聞きながら資料を漁る。

 代表的な魔族について書かれている図書に、フェリスは夜の眷属という項目を見つけた。

 過剰に日を避ける領主様はきっとこの内のどれかに違いない。

 そこで目に留まったのは吸血鬼の項目だった。

 夜の眷属の代表格で、ほかの眷属よりも格別に魔力が強いらしい。

 お屋敷に勤める数十人もの人間に影響を与える存在は魔力がきっと強いだろう。

 他にいる夜の眷属はサキュバスやインキュバス、その他は人型を成さない魔物などだった。

 その中でも日を避けるという特徴は吸血鬼にしか無かった事もフェリスに確信を与える理由の一つだ。


 そこまで調べ上げて、フェリスの胸に一抹の不安が押し寄せる。


(領主様はご存命なのかな)


 頭に過った瞬間、フェリスは自分の頬をはたきたくなった。

 なんて不謹慎な。

 しかしあのが人間であれ吸血鬼であれ、亡くなっている可能性はゼロではない。

 あれだけ似ているのだ、領主様をどこかに閉じ込めて成り代わっているに違いない。

 それとも……

 そこでフェリスは思考をやめた。

 大事な人がまた居なくなるなんて考えたくなかった。

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