20.やっぱりなんだかんだで、可愛いんだよな。

「痛ッ!」


 灯莉なりに結構本気で噛んだ成果は血こそ出なかったものの歯型がハッキリと残る程度だった。

 αと言う生き物は皮膚も丈夫なのか? と思うより先に痛さでハッキリと正気を取り戻したであろう透麻に反射神経だけでアッサリと押さえ込まれ至近距離で思い切り視線がぶつかる。


「え?」

「よう」


 ベッドに押し倒されている側が一応冷静に挨拶をして、押し倒している側が驚きで目を丸くしていると言う意味の分からない状況が起きているのだが透麻が困惑しているのも無理はない。

 だから灯莉は身体がじわじわと熱を帯びて来る初めての感覚を自覚しながらも取り敢えず最低限の話をしておこうと思ったのに、透麻は灯莉を押さえ込んでいた腕を離して自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと乱雑に乱した。


「――俺はついに死んだのか?」

「何言ってんだお前?」

「予想より遥かに美人だ。ここまでリアルでしかも良い夢過ぎるなんて逆に怖いな……そろそろ本気で一度検査入院した方が良いのかもしれない」


 身体を離してベッドから降りてドアに向かおうとする透麻のお洒落スウェットを思い切り握って引っ張ることで灯莉はその場に留める。

 そしてその衝撃を感じた透麻は一瞬びくっと身体を跳ねさせた後数秒間静止してからギギギと昔懐かしい古びた玩具のようなぎこちなさで振り向いた。

 振り向いたその顔はまるで幽霊でも見たかのように深い驚きで彩られている。


「……え?」

「会いに来たぞ。それよりお前、今精神状態どうなってんだよ」

「え? ――え?」

「俺が聞きたいのは驚いています、とかそんなんじゃないからな? お前……この十五年ずっとこんな体調だったのか? さっきの目付きどう見ても普通じゃなかっただろ。安定剤か? それともまさかΩが病んで落ちて行くみたいに沈んでってんのか?」


 ベッドの中で上半身だけ起こした灯莉の真面目な問いに透麻は混乱が一周回って逆に落ち着いたような上手く言語化しにくい表情で腕を伸ばせば簡単に触れられる距離に居る灯莉を見た。


「灯莉……さん?」

「そうだ」

「何で俺の……ベッドに?」

「お前が俺を引きずり込んだんだよ。実に慣れた手付きでな」


 先ほどは驚きで声も出せなかったが今思えばなんだか腹が立つ。

 ベッドサイドにいた人間を腕力だけでアッサリ持ち上げて良い感じの位置にストンと落としてスマートに覆い被さるなんて動作普通に生きていればそうそう経験しない筈だからだ。


 ――随分手馴れてらっしゃいますねぇ?


 その心が思う存分に乗った灯莉の冷たい視線を真正面で食らって透麻はバッと右掌を灯莉に見せる。

 かざされた手は嫌味なほどに綺麗な長い指を持つ骨張った大きい男性特有のものだ。


「誤解です! 待ってください、ちょっと一分で良いので色々整理させてください。何もかも分からなくて!」

「何もかも分かって無いのに何に対して『誤解です!』って単語が出て来るのかさーっぱり分からないけど、待てって言うなら待つよ」


 二人の間に漂うフェロモンは最初からすると多少濃くはなったが、まだ理性を失って獣の様に求め合う段階にまでは至っていない。

 それが良いのか悪いのか灯莉にはさっぱり分からなかったが透麻は灯莉の鋭い視線に対して何故か頬を染めぽーっとしたような表情を浮かべて、ぽつりと言う。


「ヤ……ヤキモチ、ですか?」

「ブフッ」


 期待するように瞳を輝かせて言われて、言葉を受け取った灯莉の方が吹き出した。

 自覚無く心のままに言葉を発していたが、確かにちょっと冷静になって自分の言ったことを思い返すと確かにそう聞こえないわけでもない。……と言うか、嫉妬しているとしか聞こえないと気付いたからだ。

 先ほどまで冷たい視線を投げつけていた灯莉がさり気無く視線を外すとベッドから降りようとしていた透麻が体の向きを変えて嬉しそうに少しだけ灯莉に近付く。


「嬉しいです! あの、俺ずっとEDだったんで本当に灯莉さんしか知らないんです!」

「…………は?」


 人生で一番の「は?」が出た。

 い……EDってアレだよな? 一昔前はインポって言われてたアレ……だよな? 敢えて漢字で表記するなら勃起障害ってやつだよな?

 え? 何コイツって実はすっごい可哀そうな人間なんじゃないか?

 この見た目で、αで……ED? しかも俺しか知らないってことは、要するに……。


「何お前、実質童貞なの? その見た目で? あんな派手な仕事してて? 童貞なの?」

「童貞じゃないです! 俺の童貞は灯莉さんに貰って貰ったんで!」

「馬鹿かお前は。アレをカウントしてんじゃないよ」


 灯莉は事故当時のことを覚えていないので普通に感想として述べただけだったのに透麻はそうは受け取らなかったらしく深刻そうに顔を歪めて口元を押さえて「すみません」と深く詫びた。


 ここの温度差……繊細だな。

 灯莉は一気にしょんぼりと小さくなった透麻を見て本気で思う。

『あの日』の件の謝罪は今までもう何度も受けているのに……しかしまあ今色々言葉を重ねても透麻は螺旋状に落ちて行きそうだったので灯莉は敢えて話題を変えた。


「まあ……でも、『だった』ってことは治ったんだろ? 良かったな」


 精いっぱい明るい声で言ったのに、また照れたように頬を染めた透麻から返って来た言葉は灯莉にとっては最悪だった。


「はい! 灯莉さんが……インナーシャツ、くれたから……」

「……」

「……灯莉さん?」


 ――分かっている。納得はしていないが分かっている。

 そうなるだろうなと知識として理解していても、状況に流されて自分で渡すことを決めたのは自分だ。

 だから分かっていても……普通に言われると、結構キツイ。


「なあ、そのシャツって「返しませんよ! 俺、死ぬとき棺桶に一緒に入れて貰うって決めてるんで!!!」」


 物凄い勢いと顔つきで言われて灯莉は思わず面食らった。


 ……。

 …………コイツがアホなのだろうか? それとも、αがアホなのだろうか。

 自分は結構覚悟を決めて今日ここに来たのに、一体この時間は何なんだろうか?


 灯莉は自分の身体が少しずつ熱を上げているのを自覚している。

 でも透麻は平気なのだろうか? そう思うと少し悲しくなったがふと視線を下げると透麻の下半身がなんとなく反応しているのに気付く。だって男同士だからそれくらいは分かる。

 すると灯莉の視線に気付いた透麻は恥ずかしそうに枕を取って自分の股間を隠しわざとらしく咳払いをした。


「色々理解は追い付いていなくても灯莉さんが目の前に居てくれて、フェロモンの匂いもすごく感じて……あの、反応しました……すみません」

「あ、うん……それは別に、良いけど普通こう言う時ってガーッとなるモンなんじゃないのか?」


 ――一応でも『番』なんだから。


 恥ずかしさから視線を外しながら言った灯莉の言葉に透麻は即答で「一応はいらないです」と返した後、ハァと少しだけ熱を帯びた吐息を吐いて続けた。


「正直俺はかなりキてます。……でも、今こうやって会話が出来る状態でいられる事には感謝しています」

「――感謝?」


 意味の分からない言葉をそのまま繰り返した灯莉の顔をしっかりと見つめて透麻は言った。


「不適当な言葉かも知れませんが、『やり直し』を許されているようで……嬉しいです」

「……そう、だな」


 灯莉は覚悟を決めはしたけれど、正直少しだけ不安な部分もあった。

 それは透麻本人と会っていざそういう雰囲気になった時すっぽりと記憶から抜け落ちた『事故の最中』の記憶が戻って来てパニックを起こしたらどうしようと考えていたからだ。


「それに海外の例の論文によると『再会後のフェロモンの濃度の上昇は段階的』だったそうですよ」

「そうなのか?」


 聞いたことの無い情報に素直に質問すると透麻は素直に頷いた。


「Ω側の論文には未記載でしたがα側の方に記載されていました。そのおかげでコミュニケーションが取れて上手くまとまったみたいです」

「……ごめんな、俺α側のことなんて何一つ考えて無かったんだ。『αは番を捨てられる』ってそればっかり思ってて、あの手紙だってお前があの一時を乗り切ればさっさと自分に釣り合った相手を見付けて終わりだって……それしか考えて無かったんだ」


 申し訳なさから素直に詫びた灯莉に透麻は優しい顔で首を振った後にすごく真剣な顔で続ける。


「やめてください、良いんです。俺が一方的に起こした事件で灯莉さんの人生を狂わせたことが全ての元凶なんです。だから灯莉さんが俺に詫びることなんて何一つ無いんです。灯莉さんが事件のことを考えたくないと思うのは当然で、まして罪悪感を抱く必要なんて何処にも、一ミリも無い。そこだけは絶対に忘れないでください」


 あっさりと言い切られた言葉に灯莉が止まる。

 それでも灯莉は心の中に残る罪悪感をゼロには出来ず、それは表情にも出ていた。当然透麻はそれを察してまた熱っぽい息を吐いてから口を開く。


「――でも会いに来てくれたってことは、俺を選んでくれたんですよね?」

「あ……うん」


 先ほどまで主導権を握っていたのは灯莉の方だと思っていたのに、このやり取りであっさりと透麻の方に主導権が移ってしまった気がする。

 でも灯莉はそれに対して嫌だとか不快だとか言う感情を一切抱かなかった。

 真剣な熱を帯びた瞳を見て肯定の言葉を返すと透麻はとても嬉しそうに笑った。その笑顔に先ほど見た悲しさは無い。


「返品は不可です。浮気も絶対駄目です。女性を抱くことも――今後の人生では二度と無いと諦めてください」


 ぎしっとベッドが鳴いて枕を放り投げた透麻が少しずつにじり寄って来る。それでもまだ理性が残っているのは表情から伝わって来た。

 何より「拒否するならこれが最後です」と強い瞳が雄弁に語っている。

 そして今更気付いたが、口調の穏やかさと瞳の熱量のバランスがおかしい。

 もしかしたら灯莉が知らなかっただけで今までの電話だけでのコミュニケーション中も透麻はこうだったのかもしれないな、と思いながらも灯莉も口を開いた。


「それはお前だろ。子供も産めないであろう年上Ω一人しか知らない人生に途中で飽きて余所見する確率が高いのは圧倒的にお前だからな」


 ごくごく当たり前の一般論を言っただけなのに、透麻の瞳に宿ったのは明確な苛立ちと怒りの色だった。

 しかし透麻は一つ深呼吸をして獰猛な感情を自分の中で必死に押さえ込むように言う。



「優しくしたいんです。そんな意地悪は言わないでください」



 ――いや意地悪とかじゃなくて、すごく真面目に大切な話を……。


 灯莉はそう続けたかったが、出来なかった。

 一瞬で距離を詰めた瞳が本当にすぐ傍にある。唇が触れ合っていないことが不思議なくらいの近さに……あの整った綺麗な顔がある。


「俺はもう、二度と間違えたくないんです。絶対に傷付けたくないんです。だから、だから――」


 灯莉のことなんてどうとでも出来るくらいの身体能力の差は確実にある。

 でも透麻は最後の一線を自分から越えることをやっぱり躊躇って、自覚があるのか無いのか分からないが灯莉がついつい甘やかしてやりたくなるような懇願を込めた言葉とそれと同じ色を瞳に乗せた。


 ――やっぱりなんだかんだで、可愛いんだよな。


 自分より遥かに優秀で色々な事をそつなくこなせるであろうαに対して抱く感情には不適当かもしれない。

 しかし灯莉は「まあこれが自分達らしいのかもな」と心の中で笑って目の前の薄い唇に自分から軽いキスをして、言う。



「一生俺だけのことを大事に出来るって誓えるなら、もっかいチャンスをやるよ。――今からちゃんと『番おう』。お前のスケジュールは分からないけれど、俺は休暇を取って来たよ」



 その言葉を聞いた透麻は一瞬で目を潤ませて「十五年前のあなたに酷いことをして、本当にごめんなさい。それなのにどうやっても諦められなくて……ごめんなさい」と一言一言を絞り出すようにどうにか言った。

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