19.アイツがこの十五年背負って来た物を私はずっと貴方に知って欲しいと願っていました。

 一瞬驚いたがモニターの向こうの男性が「失礼しました、どうぞ」とロックを開けてくれたので灯莉は中に入る。

 エレベーターは幸い迷うことも無く分かりやすい位置にあったので指示された階数を押して、到着した階には長めの廊下と一つのドアしかなかった。

 二十代でこの土地のこの物件のワンフロアぶち抜きの部屋にお住まいとはα様とは恐ろしいものだな、なんて思いつつインターフォンを鳴らすとまるで待ち構えていたようにドアが即開いた。……のは良いのだけれど灯莉は思わず困惑する。


「えーと?」


 ドアの中には頭に紙袋を被った男が居た。

 もう一度言おう。何故か、紙袋を被ったやたらとスタイルの良い男が居たのだ。

 その男は明らかに困惑する灯莉を丁寧にドアの内側に導いて紙袋を被ってさえいなければとても好印象な爽やかな角の無い挨拶をした後に控えめに言った。


透麻アイツより先に貴方の顔を拝見してしまうと恐らく、死ぬまで根に持たれることは確実なのでどうかお許しください」

「……」


 αの本能らしいが正直灯莉は呆れた。

「生まれながらのエリート」「支配者階級」「特権階級」と呼ばれているはずなのに、αってたまに――言葉を選ばず素直に言うと本当は馬鹿なのかな? と思う場面が多々あるのだ。

 しかしきっとこれはやっている相手の方が相当恥ずかしいと思うので深く触れないことにして灯莉は頷く。

 頷いて「ああ、これじゃ伝わらないな」と直ぐに思い直して言葉にも出した。


「分かりました。突然押し掛けて申し訳ありませんが、透麻は居ますか?」


 灯莉の問いについ先ほど深山 那岐ミヤマナギと丁寧に名乗った顔は分からない男が一瞬動きを止め、少しだけ何か逡巡した後に観念したように話し出す。


「『今』は体調を崩しやすい時期でして、薬を飲んで先ほどやっと眠った所です」

「……今?」


 αは身体能力が高い。そしてとても丈夫であることも有名だ。

 透麻本人も灯莉が聞いてもいないのに「持病はありません!」と元気に宣言していた記憶がある。深山と名乗った男性に詳細を聞こうとしたが彼は長い指を持つ綺麗な手を灯莉に静かに向けて低い、潜めたような声で切り出して来た。


「正式に透麻と『番う』ことを決めて、ここにいらしてくださったと受け止めて宜しいですか?」


 真摯で、微かな悲痛さすら帯びた声だった。

 紙袋を被っている異様な姿さえ打ち消してしまえる程のその切実な声に灯莉はまた頷きで返しそうになったが深山には見えていないことを思い出して「はい」と返す。

 ……ハッキリ言ってコミュニケーションが取りにくい。

 しかし「黙っているのでソレ取ってくれません?」とはなんとなく言いにくい深山の空気に灯莉は話を先に進めることにした。この男はきっと灯莉が知らない透麻の秘密を知っているはずだ。

 曖昧に質問しても意味が無いと感じた灯莉はハッキリとした口調で問う。


「透麻の体調不良って定期的に来ていませんか? いつも誤魔化されるんですけど、そんな気がするんです」

「――っ」


 灯莉よりさらに背の高い男が息を飲んだ。そしてまた少し考えて、説明にしては短い言葉を紡ぐ。


「貴方が本当に透麻と『正式に番う』ことを選んでくださったなら、ご自身の目でご確認ください」

「……」

「もし助けが必要な場合はとにかく大声で叫んだり、暴れて大きな物音を出してください。そうしてくだされば直ぐに部屋の中に入ります」


 そこまで言った深山の言葉に灯莉は無意識の内に「お気遣いなく」と返していた。

 そして「コートと荷物を預かります」と言った深山にコートと鞄を渡し、透麻が居るという部屋の場所を教わる。


「加害者擁護と取られて当然の意見だと思いますが、アイツがこの十五年背負って来た物を――私はずっと貴方に知って欲しいと願っていました」

「……分かりました」


 深山のその言葉だけで灯莉は透麻の体調不良が十五年前に自分との咬傷事故を起こしたことを起点に始まっている可能性に思い至った。

 しかし今ここでこれ以上深山と話すより透麻本人を見た方が良いだろうと思い「突き当りの一番奥です」と言われた部屋のドアを静かに開ける。

 ノックをしなかったのは先ほど「薬を飲んでやっと眠った」と言う一言があったからだ。


 暗い部屋の中には窓から差し込む満月の夜の月明かりがあったのだが、そのあまりにも殺風景すぎる冷たい部屋に灯莉は思わず足を止める。

 そこそこ広い部屋の真ん中にベッドが一つ。本当にたったそれだけの部屋だ。

 大き目の窓はあるがはめ殺しになっていてカーテンレールすらなく恐らくすりガラスが入れられているかすりガラス風のフィルムが貼られているだけのとても物悲しい部屋である。


 そしてベッドは人の形にシーツが浮かび上がっていた。

 しんとした空気の重い空間で微かに聞こえる呼吸は苦しそうで、魘されていると言っても良いかもしれない。

 それに気付いた灯莉は足音を立てないように静かにベッドに近寄って、ふわりと淡く香ったとても良い香りに吸い寄せられるように透麻の名前を呼んだ。


「――透麻?」


 一応初対面だけど寝込みを襲うような状況になっていて自分でもどうかと思ったので控えめにもう一度声を掛けるとベッドの中の男は僅かに顔をこちらに向けて、目を微かにだが開いた。


 その顔を見て灯莉は自分の心臓がドキッとひと際強く鳴ったことに自分でも驚く。

 普段画面越しに見ていても常々「独特な色気のある綺麗な男だ」とは思っていたが、実物はその比じゃなかった。仕事用に髪も服装も着飾っていなくともこの男はとんでもなく美しい。

 夢と現実の間で彷徨っているような虚ろな目をした透麻はベッドサイドに膝を着いて屈みこんでいる灯莉の腕を簡単に捕まえて、アッサリ軽々とベッドの中に引きずり込んだ。


「――っ」


 灯莉だって細身ではあるが身長だって体重だってそれなりにある成人男性だ。

 それなのにαの腕力に掛かると簡単に子供の様に腕の力だけで持ち上げられて、あっという間にベッドの上で押し倒されるような体勢に持ち込まれてしまう。

 その一連の動作があまりにも早過ぎて声も出せない灯莉と虚ろな瞳のまま視線を合わせた透麻は、心底愛しそうに灯莉の頬を包んだ。


「――今回の幻覚は良いな、すごく良い」

「と、透麻?」


 突然聞こえた幻覚、と言う物騒な単語に思わず名前を呼ぶと目の前の透麻はとても嬉しそうに顔全体で微笑んだ。

 微笑んだけど、月明かりが照らし出すその笑顔には隠しきれない悲しさがある。

 押し倒されて枕に頭を乗せている灯莉のすぐそばに自分の顔を寄せた透麻はまるで触れたら崩れ去ってしまう儚い何かを壊さないように懸命に配慮しながらも、それでも縋る行為を止められないかのように静かに静かに灯莉の首筋に顔を埋めた。


「――すごいな、声も同じだ。それに微かだけど匂いも感じる……もう二度と正気で目覚められなくなる前に神がくれた最後の慈悲かもしれない」

「……」


 誰かに言っている訳じゃない明らかな透麻の独り言をそこまで聞いて、灯莉は現在進行形で今までで一番強い自分の胸の痛みが目の前の透麻の苦しみとリンクしている可能性にようやく思い至った。

 そして深山の言っていた言葉が脳裏を過る。



 ――アイツがこの十五年背負って来た物を私はずっと貴方に知って欲しいと願っていました。



 そうか。

 ここまで来て灯莉は自分自身の愚かさと考えの浅はかさを思い知った。

 何故、何故『噛んでしまったα側』の論文を読まなかったのか。相手側がどんな経過を辿ったのかを調べようともしなかったのか。

 自分が今まで『βの男性』として生きられたことをラッキーだったの一言で片付けて、何故α側にも通常と違う反応が起きている可能性を想定出来なかったのか。

『αだから』無条件で大丈夫だと、何故何の根拠もなく思い込めていたのか。



「……透麻、ごめんな」



 小さな声で呟いた灯莉は押さえ込まれてはいなかった両腕を透麻の身体にまわして思い切り抱き締める。

 柔らかい髪が頬に落ちる感触と、初めて同然で触れた筈なのに異様なほどしっくりくる体温を感じて「何故今までこの存在と離れていられたのだろう」と心が納得するのは一瞬の事だった。


 そしてこんなに近くにいるのに、恐らくフェロモンであろうとても好ましい香りが淡くしか感じられないことが歯痒い。

 まさか、何かが足りないのだろうか?

 本当なら、会った瞬間最初の……そう、事故が起きたあの最初の時の様に爆発的なヒートが起きて一瞬で片付くと思っていたのに、一体何が足りないのだろう。


 ぎゅうっと抱き締めていた灯莉はふと、自分が今しがみ付いている透麻の首筋がとても気になった。

 気になって気になって――どうしても『それ』をしたくて堪らなくなる。

 だってつい先日、相手は事故で強制的に発情させられたαだったが……しかもコートの上から腕をだったけれど透麻を『噛んだ』人間が居るのだ。

 それが急に腹立たしくなった灯莉は、自分の右手を透麻の後頭部に移動させて少し頭の位置を動かし白い首筋にそっと口元を寄せる。




 ――お前はあの日俺のことを同意も無く噛んだんだから、俺だって噛んでも良いよな?




 自分の持つ傷跡と同じような位置を見付けて、αの犬歯には到底及ばない控えめな八重歯を思いっきり突き立てた瞬間――今まで淡く微かだったフェロモンの蓋が一瞬ではじけ飛んだのが分かった。

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