18.自分の嫌な予感が的中していたことを悟った。

 その時の通話は透麻が撮影現場に戻り事件のせいで押した分の撮影をこれから夜通しで行うという謝罪で終わった。

 上手く言葉を出せなくなっていた灯莉だったがどうにか「仕事頑張れ」とだけ言って、静かになった自宅のリビングで一人上手く言語化出来ない感情と向き合うことを決める。


「……――」


 A4サイズのノートをガラステーブルに広げて、灯莉は学生時代から思考を整理したい時に行っていたエクスプレッシブ・ライティングもどきを久し振りにすることにした。

 ネガティブな感情も、自分の素直な気持ちも取り敢えず全て文字に起こして客観的に、そして何より冷静に判断したい。

 ノートの左側半分に『透麻を受け入れる(Ωになる)』、右半分に『透麻と二度と関わらない(疑似βとして生きて行く)』と書いて真ん中にペンで線を引いて、自分の感情を書き出す。


『透麻を受け入れる(Ωになる)』

 ・仕事を諦めることになる。

 ・ヒートが来る。

 ・男に抱かれる側になる。

 ・透麻の心変わりで捨てられる可能性もある。


 無言でさらさらと書き出していく内容に今の所迷いはない。だってこれは透麻と連絡を直接取り合う前から懸念していたことだからだ。

 別にどちらかを出し切ってから次に移ると決める必要も無いので思いのままとにかく吐き出せばいい。

 そう思っていたのに、右側のページにペン先を移し最初の段階で灯莉の手は一行だけ書いて止まった。


『透麻と二度と関わらない(疑似βとして生きて行く)』

 ・今のままで生きていける。


「――『今のまま』って……なんだよ」


 ははっ、と笑って灯莉はペンを思わずころりとノートの上に転がした。

 色々書き出して明日の仕事に差し障りのない時間帯までは真剣に考えようと決めたばかりなのに、こんなに早くとても大事なことに気付いてしまっては笑えてすら来る。


『今のまま』の『今』に、透麻はもうとっくに溶け込んでしまっていたのだ。

 朝一のおはようから夜のおやすみまで忙しい合間を縫って送られてくるしょうもないメッセージには必ず気遣いがそっと添えられていた。

 はっきりとした言葉の時もあったし、見えてもいないくせに絶妙に灯莉の背後を読んだようなタイミングや切り上げ方など方法はその都度同じではなかったけれど確かにそこに優しさは常にあったのだ。


 それでもまた灯莉はペンを握って書き始めた。

 ・今のままで生きていける。と自身がつい先ほど書いた下に素直な感情を書き連ねていく。


 ・スマホを買い替えることになる。

 ・いつ何が映るか分からないからテレビを見られなくなる。

 ・透麻が以前のような体調不良になった時に見捨てることになる。


 そして、何より――。


 ・透麻を失う。


 そこまで書いて灯莉は無言のままノートを破り捨ててシュレッダーにかけた。


「あー……」


 何時間掛かるだろうと思って開始した思考整理は、正味十分も要らなかった。


 透麻は誰がどう見ても明らかな絵に描いたような優秀なαだ。

 αは一般的に頭脳明晰かつ眉目秀麗で身体能力も高いという生まれついての勝ち組とも言われる連中で、この世界を動かしていると言っても過言ではないヒエラルキーのトップに君臨する集団でもある。


 それだけ頭の良いαの一員なら灯莉を懐柔することなど本来とても簡単だったと思う。

 事実透麻は灯莉の性格を電話とメッセージだけのやり取りでも上手く把握して、コミュニケーションを円滑に取るために上手く活用していた節はある。――しかし、それだけだった。


 灯莉が自分から透麻に会いたいと言わせるように仕向けることだって出来た筈なのに、透麻はそれをしなかった。

 ただ毎日毎日女子大生のような他愛のない会話と、自分が今何処で何をしているのかをわざわざ写真付きで報告するような連絡だけで留めていた。

 電話だって多分灯莉のメッセージへの返信速度とか内容を加味して掛けるか掛けないか、掛けたとしてもどの程度話すと負担にならないかまでを考えて総合的に判断していたと思う。

 そこまでを冷静に受け止めればもう、自分が次に取るべき行動は分かっていた。


「取り敢えず……明日先生に話すか」


 仕事に穴を空けるような愚かな真似だけは絶対にしたくない。

 社会人としてそれだけは強く思っていた灯莉は明日上司でもあり雇用主でもある先生に自分が今後選ぶ道と、それに伴い掛ける可能性が出て来る迷惑について先に話を上げることにした。




 ***




「――そうか、分かったよ」

「すみません。ご迷惑をお掛けすることは確定している為必要であれば配置転換や退職なども視野に入れています」


 灯莉が昔咬傷事故に遭い中途半端な状態のΩであることは面接の段階で告げてある為話自体はとてもスムーズだった。

 しかし「配置転換」や「退職」と言った単語を出した時、五十代に差し掛かったばかりの先生は不思議そうな顔をしたが、それでもいつも通りの口調で言った。


「相手のαは君を監禁すると宣言しているのかい? もしそうなら、私もαの一人として大事な部下をそんな人間に簡単に預けるわけにはいかないな」

「え? いや、そうではなくて」


 意外過ぎる言葉に灯莉の方が戸惑う。

 すると先生は流石こちらもα様なのか、すぐに灯莉の脳内を見透かしたように一つ頷いた。


「ああ、そうか。君はΩでありながら実質βとして生きて行く事しか考えていなかったから、企業側がΩを雇用する時に負うべき義務と恩恵についての理解が薄いんだね」

「義務と――恩恵、ですか?」


 灯莉の問いに頷いて先生は穏やかな顔で続ける。


「企業はΩを雇用する際に『ヒート』を理由に個々の能力に見合わない役職に配置して冷遇することを固く禁じられている。ウチで言うと、貴重な若い一級建築士を窓際になんて当然置けるはずも無いし置く気も無い」

「先生……」

「そしてその代わりにウチはΩを正規雇用していることで国から税制面等でとても優遇されている。これはハッキリ言って私にとってはメリットでしか無いんだよ。君と言う優秀な人材を雇えた上に国からの恩恵も受け放題なんだからね」


 灯莉が負担に思わないように軽い口調で言った先生はパソコンを弄って何かを確認し、涼しい顔で続けた。


「君の場合は『特例』だから医師の診断書を労基に出してお咎め無しってことになっているけれど、Ωの社員が居るのに『ヒート休暇』を取得させていないと言うのは実はとっても外聞が悪いんだよね。だから、ちゃんと番う気になったなら不測の事態に備えて今までの分と合算しても良いから長めにとって、きちんと色々安定させてからちゃんと戻っておいで」

「……良いんですか?」


 Ωである事を受け入れた瞬間、今まで積み上げた全てを無条件で失うと信じて疑わなかった灯莉には先生の言葉が信じられなかった。

 しかし付き合いの長い上司は灯莉のそんな性格まで完全に見越して余裕で笑っている。


「以前メインは住宅建築にしたいって言っていたよね? 君は考えたことも無かったと思うけれど、君が『Ωの一級建築士』であることを公表すればきっと忙しくてどうしようもなくなると思うよ」


 先生の言っていることが理解出来ずに意図を尋ねると、先生はにこりと笑った。


「番を持ったαはね、番のΩしか本当に見えなくなるんだ。そして大事な番が少しでも過ごしやすい家と言う名の『拠点』を採算度外視で構わないからとにかく作りたくて堪らなくなる。――でも、いくら考えてもαはαでしかない。Ωの感情やΩが本当に必要としている物、欲している設備を本当の意味のΩ目線で想像する事は出来ない」

「……はい」

「そのくせ、自分以外のαと番が接近して話をすることが気に入らないんだよ。これは必要な事と理解していても本能が許せない。嫉妬で狂いそうになるんだよ。自分が番のことを一番理解していて番が求める物を提供してやりたいのに流石のαでも建築物になると限界があるからね」


 そこまで言った先生は「分かるかい?」と灯莉を見て静かに笑った。


「そこで君の登場だ。『番を持っているΩの一級建築士』、君以上の適任者はいない。そして君の顧客になるであろうメインの層を考えると『ヒート』に理解の無い人間は一人もいないだろう。つまり、仕事面に関して君が抱いていた心配は――全くもって必要の無い物になる」


 そこまでハッキリ言い切られて灯莉は面食らった。

 しかし上司はあくまでも「これは君が使って当然の権利に関する話だよ」と言って今まで一度も使った事の無かった『ヒート休暇』のオンラインでの申請方法を教えてくれたのだ。



 それから灯莉は少しの時間を掛けて今抱えている案件を調整し、最初なのでどうなるかは分からないが一応……と上司に確認した上で人生初の『ヒート休暇』を申請した。


 そうしている間も透麻からは今までと変わらずメッセージが来るが、灯莉は気付いていることがある。

 以前は曖昧だったが電話とメッセージだけのやり取りでも抱くことがあった違和感をさり気無くその都度聞くと透麻は決まって『その時』は「少し忙しくて風邪を引いた」とかなんとか言っていつも話をさらりと流していた。

 しかし回数を重ねると灯莉だってなんとなくでも理解する。

 灯莉がこの何とも言えないモヤモヤとした違和感を自覚する時……大抵透麻は『体調を崩している』のだ。

 だから、昨日から始まったいつもよりかなり強いモヤモヤを察知した時灯莉は覚悟を決めた。


 ――お前今、何処にいる?


 いつも通りの何気ないメッセージにいつも通りの速度で即返信が来た。

 なんでも今日はオフで自宅でゆっくり過ごしているらしい。それを見て灯莉は絶対に外れていないと強く断言出来るほどの強い確信を得た。



「――やっぱり、アイツなんか隠してるな」



 仕事を終えて事務所を出た灯莉は明日から取り敢えず週末と合わせて十日取得した『ヒート休暇』を引っ提げてタクシーを捕まえる。

 父の魔改造スマホに透麻自身が送って来た個人情報の住所を言って、到着したのは想像していた大層立派なタワマンではなく閑静な高級住宅街にある超高級低層マンションだった。


 タクシーを降りた灯莉は入り口のオートロックの前で部屋番号を押して応答を待つ。


「……――はい」


 応答した声は透麻の物では無かったが透麻には幼馴染の従兄弟でもあるマネージャーがついていると聞いていた為灯莉はカメラを真っすぐ見て、ハッキリと言い放った。




「はじめまして、伊岡 灯莉と申します。透麻――居ますよね?」




 ガアンッとモニターの向こうで何かを蹴り倒したような派手な音と慌てた声が聞こえて、灯莉は自分の嫌な予感が的中していたことを悟った。

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