第8話 カナコ①
◆カナコ
既に日が暮れていた。
俺は少女を探すことを諦め、帰路につくことにした。だが、この腕時計は返さないといけない。そう思った。
坂道を下っていくと、下から、人が上がってくるのが見えた。作業着を着た老人だ。坂の上には廃墟しかない。こんな時間にあそこに行くのか?
老人は訝しげに俺を見た。お互いに不審人物扱いだ。
老人はそのまま通り過ぎようとしたが、その時の俺は、何かに導かれるように老人を呼び止めた。
老人は廃墟を管理する人間だった。
老人から、詳しく話を聞き出すと、老人はヘルマン邸の栄華を語ってくれた。
その豪奢な生活ぶりの話の中、ヘルマン邸には、令嬢が一人いたと言った。
写真はないので確認のしようもないが、間違いなくあの少女がヘルマン邸のお嬢さまだと確信した。
老人は、少女のことを「カナコ」と言った。日本名だ。
だが、カナコという名の令嬢は、ヘルマン邸が崩壊する前に、亡くなっていた。
殺されたのだ。
老人は「ひどい事件だったらしい」と人伝えの話を語った。
何十年も前の・・俺が生まれる前の事件だ。
人々の記憶から消えても、地元の一部の人の記憶には残っているらしい。
事件は、真夏の夕刻、丁度このような時間、
少女は飼い犬を連れ、麓の公園まで散歩に出かけた。そこで男に性的な乱暴を受け、その口を封じるように絞殺された。犯人は分からず終いということだ。
その時の光景が目に浮かぶようだった。
少女は、久しぶりに飼い犬と過ごす時間を喜んでいた。少女は習い事が多く、犬の散歩の時間をとれなかったのだ。
「誰か、たすけて!」
夢の中で聞いた悲鳴はカナコの声だったのだろうか?
今となっては確かめようもないし、仮にそうだったとしてもどうしようもない。
俺は少女の悔しさに想像が及んだ。
少女は生きていたかっただろう。あれだけの容姿と知性を備えた彼女だ。素晴らしい女性になったに違いない。
いずれ少女は社交界に颯爽とデビューし、あのヘルマン邸の大きなホールでピアノの演奏をした。喝采を浴び、多くの人々を魅了し、男たちを虜にしたかもしれない。
思えば、少女は自分の夢や未来を語っていたのだ。俺に話を聞いて欲しかったのかもしれない。
だが、その夢は一瞬で閉ざされた。
俺は少女の大人になった姿を楽しみにしていたが、
少女には未来が無かったのだ。
そう思うと、涙が溢れ前が見えなくなった。
老人は、俺がなぜ泣いているのか分からないのか、怪訝な顔をしている。
その少女に会ったんだよ、とも言えず、老人に話の礼を述べると、再び帰路についた。
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