「俺には好きな女の子がいるんだよ!!」


「…へぇ?」


「だから、こんな結婚…!!」


次の瞬間、急に壱の腕から力が抜けて、尊は顔面から床に転落した。


鼻を強打し涙目で面を上げると、すぐ目の前に真っ赤に燃える煙草の先端があった。


ギョッとして飛び退き、そのまま逃げようとして、壁に阻まれる。


恐る恐る振り返ると、端整な顔立ちに底意地の悪い笑みを浮かべながら、こちらににじり寄る壱と目が合った。


「お前、好きな女がいるのか。」


「ふ、普通いるだろ。俺は『真っ当』な男だからな。…お前にはいないのかよ。その、恋人とか、好きな奴とか。」


しかし、壱は尊の質問をスルーした。


妙に真剣な眼差しで「どんな女だ、そいつは。」


「華奢で清楚で大人しくて色白で黒髪が似合う、お前とは正反対の女の子だよ。」


「ほう、大和撫子ってやつか。…お前はさっきから一言余計だな。」


壱はそう言うと、尊の怯えるような顔面に煙草の煙を吹きかけた。


突然高濃度のニコチンに襲われて、尊が激しく咳き込む。


「テ、テメェ~…!!」


低い声で唸りながら、煙を振り払い、その先に霞んで見えるニヤけ面を睨みつけた。


「何がおかしいんだよ、お前!」


「あ?」


「昨日からずっと馬鹿みたいにヘラヘラと笑いやがって。危ない薬でもやってんのかよ!」


すると、壱は尊を更におちょくるように、表情筋をますます弛緩させてみせた。


「笑ってるとな、いいことがあるんだよ。お前も笑ってみ。」


…なるほど。どうやらこの女、とことん真面目に会話をする気がないらしい。


尊は半ばヤケクソ気味に「あはははは!!これで満足かよ!!」と大口を開けて笑ってみせると、返ってきたのは予想外に甘い声だった。


「…可愛い。」


「は?」


壱が煙草を口からはずし、片手で握り潰す。


それから、尊に顔を近付け、その右頬にキスをした。


固まる尊に、壱が唇を離してしたり顔で言う。


「ほら、いいことがあったろ?」


「き、きゃああああああああ!!!!」


気が付いた時には、尊は壱の巨を図体の火事場の馬鹿力で突き飛ばし、玄関から飛び出していた。


脱兎の如く走り去ったその背中を、壱がポカンとした顔つきで見送る。


「…な、何だ、あいつ?」


舌をねじこんだわけじゃあるまいし、ホッペにチューくらいで大袈裟な奴だ。


昨夜、尊の父親が無神経に放った一言が、俄に現実味を帯びる。


「…まさかあいつ、マジで童貞なのか?」




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