セックスしないと出られない部屋

九三郎(ここのつさぶろう)

セックスしないと出られない部屋

 男は自分に自信が無かった。だから彼はいつもポケットに折り畳みナイフを入れていて、いつでも自分の首を切れるように準備をしていた。彼は絶対に自分を殺す方法を忘れる事は無かったし、それは彼が、例えハンカチを忘れた日ですらナイフだけは必ず利き手のポッケに突っ込んでいる事からもよく分かる事だった。

 そんな彼が、ふとしたきっかけでセックスしないと出られない部屋に閉じ込められたのだ。

 きっととんだ不運を心底嘆いているのだろう彼の胸中は、彼の苦々しい顔を見るに明らかだった。それは、きっと恐らく、そんな彼を見つめながらやはり苦々しいような、しかしどこか申し訳なさそうに狼狽えてもいるもう一人の彼女にもよく理解できていたのだろう。

 「あの、元はと言えば私のせいでもありますから。・・・その」

 「本当に申し訳ない。本当に、申し訳ない。」

 「だからあなたは悪くないんですって。」

 「いや、俺が悪いんだ。君のような女性と一緒にいて、こういう危険やハプニングの1つにでも警戒しなかった僕の落ち度なんだ。」

 「こんなの気付きようがないじゃないですか。」

 「僕はいつも詰めが甘いんだ。・・・これを。」

 「うん?・・・きゃあ!なんでナイフなんか持ってるの!?」

 「これは自分を殺す為のナイフなんだ。きっと今日みたいな日の為に僕はこのナイフを肌身離さず持ち歩いて、毎週欠かさず研ぎ上げたんだ。」

 その言葉の真偽は、彼に代わってナイフ本人が、女の手元でキラリと女の顔を写し返してやる事で証明して見せた。

 「本当によく研いである・・・。」

 「触らないでくれ。空中に浮く埃すら切ってしまうくらい刃先は薄いんだ。君の柔らかい指なんか羽みたいに切ってしまうよ。」

 「本当に自分を殺す為に持っているの?なんで?」

 「僕は僕の事が嫌いなんだ。」

 「普通、自分が嫌いでも自分を殺す為のナイフなんか持ち歩かないわ。」

 「それくらい嫌いなんだ。」

 「私、自殺した友達がいたの。でもナイフなんか持ち歩いてなかった。」

 「その友人はどうやって死んだんです?」

 「飛び降りたわ。」

 「痛かっただろうな・・・。」

 「ナイフで刺したって痛いわ。」

 「でも、俺はずっと前から心構えができてるんだ!」

 部屋は普通のマンションの一室のように見えた。玄関から入って3m程の廊下を潜って、ダブルサイズのベッドが置かれたリビングのような部屋があり、カウンター越しのキッチンスペースも繋がっている間取り。廊下の途中やこの部屋に面した扉は全てピッチリと閉じ切られていた。見知らぬ空間のもたらす息の詰まるような感覚の通り、うっかり張り上げた叫び声も大して反響せずにすぐ静寂が降って来た。

 「刺すなら自分で刺しなさいよ。」

 「見ず知らずの俺とセックスはできて、これから自分を犯そうとしている俺を刺す事はできないのか。」

 「私はできないわ。」

 「俺は君を恨まないぞ。」

 「じゃあ私は無理矢理刺させたあなたを恨むわ。」

 「なぜ恨むんだ。」

 「あなたを殺したくなんかないからよ。」

 「・・・じゃあナイフを返してくれ。」

 「いやよ。返さないわ。」

 「なぜだ!分からず屋!」

 「分かってないのはアナタの方よ。セックスしないと出られないのに、肝心の相手が死んじゃったら出る方法が無くなっちゃうじゃない。」

 「なら・・・俺を死姦すればいいじゃないか。」

 「私が今一番悲しいのは、寄りにも寄ってこんな死にたがりと一緒になってしまった事よ!」

 「・・・すまなかった。でも、僕もずっとずっとそう心に決めながら生きて来たんだ。別に死んでも死ななくても死んだような気分の時はまだいいかもしれないけど、本当に死にたくなった時は死ねるようにしてきたんだ。」

 「・・・うん。わかった。わかったわよ・・・。じゃあ、このナイフは返してあげるわ。」

 「ありがとう。」

 「ただし、私とセックスをした後でね。私が出れるようになったら、ちゃんと後腐れなく、自分で勝手に死んでちょうだい。」

 「・・・わかった。じゃあすぐ始めよう。それで、終わったら絶対にナイフを返してくれ。」

 「私がエスコートしてあげる。あなた、自分じゃ全然ノれなさそうだし。」

 「・・・ありがとう。」


 カーテンが締まり切りだった。彼女が部屋の明かりを消して、外から射し込む光がこの部屋で一番明るいものになっていた。人の家の布団を借りる度に敷布団の厚さが違って驚く。なぜこんな薄い毛布一枚で寝れるんだろうと不安になる。しかし今晩に限っては全く悩みの種にはならなかった。今、左の半身に絡みついて寝息を立てている彼女の身体を肉の布団に例える事を、彼女は嫌がるだろうか。

 たしか、彼女はベッド脇の机の上に置いていた。

 丸いが少し骨ばった細い身体を乗り越えて、伸ばした手に当たった馴染みのある木の艶をギュッと握り締めて胸の真ん中に押し付けた。恐らくまだ刃は畳まれている。

 「よし、死ぬぞ。」

 もう何度となく見つめてきた刃を真っ直ぐ展開して眼前に掲げると、写す光を見つけられなかった刃は部屋の闇を掴む事しかできず、ぼんやりとどす黒い雰囲気だけを空間に象った。

 この世を去る前の最後の間だ。何かやり残す事はあるだろうか。

 そうして一つだけ思い着いた。

 「最後に俺みたいな奴の相手をしてくれてありがとう。良い時間だったよ。」

 「あんなに死にたいって言ってた癖に。」

 「起きてたのか。別にいいじゃないか。」

 「まだしばらく生きてるんだったら、また相手をしてあげてもいいのよ。」

 彼女の恣意的な股と腿の擦れる感触に挟まれた、自分の物でもある濡れた熱は、彼女の言葉よりもよっぽど多くの事を訴えかけてくる。

 あの時間が無ければ、知らないまま死んでいた感覚だったのだろう。

 「たしか、君の友人も自殺したんだろ。どんな人だったんだ。」

 「どんな人だったかしらね。思い返してみると、やっぱり、何となく掴みどころのない人だった。優しいし、一緒にいて嫌な気持ちになる事はないし、口喧嘩をしたらいつも私が勝ってた。」

 「わかるよ。凄くわかる。」

 「でしょうね。彼も死にたがりだったわ。」

 「そのご友人が亡くなる前に出会えていたら、きっと友達になれていたんだろうなぁ。」

 「絶対になれるわ。だって、そっくりだもの。」

 「どうして飛び降りたんだろう。」

 「・・・どうして、かしらね・・・。」


 「・・・いや、俺ならわかるか。」

 「わかるの?」

 「うん。」

 「・・・ねぇ、聞きたい。教えて。」

 「うん。・・・きっと、何も考えなくていいのがいいんだよ。」

 「・・・そうね。落ちるだけだものね。」

 「うん。今までずーっと、頭の中を掻き毟ってきたのが、初めて何にも無くなるんだ。」

 「そうかも、しれないわね。」

 「きっと、痛みなんて大した事なくなってしまうよ。」


 「本当にそうかしら。」

 「え?」

 「本当にそうかしらって言ってるの。」

 「そうなんじゃないのか。」

 「本当に、今までなんでも考えてたような人間が、死を間際にして考える事を放棄できるかって言ってるの。」

 「できないのかな。」

 「その疑問、自分で試せるんじゃないの?」

 「は?」


 そして初めて、カーテンが靡いている事に気が付いた。ずっと締まりきりだったかカーテンは、僕達から空を隠していた。

 「確かに。」

 「セックスしたから開いたのかしら。」

 「わからない。」

 「まだ死にたい?」

 「わからない。」

 「・・・ナイフ、見せて。」

 「・・・はい。」

 暗闇に差し出したナイフをそっと受け取った左半身の揺れが一息飲み込んでから、まるで丁度喉を下っている唾に狙いを定めたみたいに、黒い刃が彼女の喉元を突き刺した。

 「あぁ!おい!何やってんだ!」

 「・・・ふふ。あははは!」

 「・・・は?」

 「あなた!嘘つき!あはは!」

 「なんで・・・刃が・・・。」


 ねぇ、この部屋、嘘だらけよ。

 何が嘘なんだ。

 あなたが本当は死にたくないって事。

 それは嘘だ。俺は死にたかったし、ずっとその為のナイフを研いで持っていたんだ。

 でも、そのナイフは嘘だった。

 嘘じゃないのに。

 じゃあ、ナイフはどこにあったのかしらね。

 ずっと肌身離さず持っていたんだ。


 それが嘘。

 何が嘘なんだ。


 「あなたは持っていたんじゃなくて、離せなかったのよ。ずっと身体に刺さっていたナイフが。ほら。」


 彼女の言葉が暗闇の中で確証に変わった。さっきから、いや最近、いや、ずっとずっと前から、気のせいだと思う事にしていた全身を刺すような鋭い痛みが、途端に実体を持った。


 「痛い!痛い!痛い!痛い!痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」

 「ほら、嘘つき。」

 「痛いぃ!!」

 「じゃあ次は、私の嘘。」

 「うぅ・・・。・・・。・・・。・・・。・・・君の嘘は何なんだ。」

 「私に自殺した友人なんかいない。」

 「・・・嘘つきぃ。」

 「まだあるわ。」

 「全部教えてくれ!早く!身体が痛いんだ!!」

 「この部屋、本当は私の部屋なの。」

 「なんで俺を誘い込んだんだ!」

 「それは・・・あなたとしたかったから。」

 「・・・嘘だろ。」

 「なんでそんな酷い事言うのっ・・・!」


 「それも嘘なんじゃないか。」


 「・・・あなたの為。」

 「俺の為?」

 「あなたをこの部屋から出す為。」

 「君の部屋なんだろう?」

 「そうよ。私の部屋で、あなたの部屋でもある。」

 「どういうこと?」

 「窓の外を見て。」

 ベッドから降りようとした身体がしがみ付いていた身体に止められる。

 「・・・何も見えない。」

 「本当に?」

 「あぁ。何も見えない。」


 「その何もない世界に落ちたら、底にぶつかったあなたはどうなっちゃうのかしらね。」

 「また死ねないかな。」

 「飛び降りたら死ぬんじゃないの。」

 「そんな痛み耐えられない。」

 「じゃあ、また死ねるかしらね。」

 「死んだら、楽になるかな。」

 「また飛び降りる前に戻ったら?」

 「また飛び降りるかも。」

 「ナイフは?」

 「だってもう無いだろ。」

 「・・・死ぬなって言ってるの!」

 「・・・ごめん。」


 「私の嘘はもう1つあるわ。」

 「教えてくれ。」

 「友達じゃなくて、友達になりたい人なの。」

 「仲良くなれるといいね。」

 「ありがとう。頑張るわ。だから、あなたも頑張りなさい。」

 「やれるだけやってみるよ。」

 「じゃあ、約束の、しよ。」

 「・・・小指?」

 「違うわよ!」


 「じゃあ私先に出てるから。」

 「あぁ、うん。なんか色々ありがとう。」

 「ふん。なんかちょっと拍子抜け。」

 「悪かったな。」

 「好きな物ってある?」

 「なんだよ急に。」

 「次会った時の為に。」

 「2回もごめんだよ。」

 「いいから早く!」

 「ビスケット。スーパーで売ってる安いビスケット。紅茶と合わせるのが好きなんだ。」

 「・・・ふふ。あなたらしい。安っぽい人間。」

 「そうだよ。悪かったか。」

 「じゃあ美味しいクッキー教えてあげる。楽しみにしててね。」

 「・・・次会う前に俺は死んでるかもしれないぞ。」

 「嘘よ。」

 「どうかな。」

 「嘘なんだから。」

 「・・・さようなら。」

 「・・・またね。」


 結局名前も聞かなかった女は部屋から出て行った。自分も服を着て、刃の無くなった折り畳みナイフをポケットの奥に押し込んだ。玄関扉の手前に並べられていた靴。紙をどかして履いた。

 ドアノブを見る。

 ドアノブを握る。

 ドアノブを捻る。

 扉を開ける。


 衝突する。




















 見知らぬ天井があった。

 困り顔を浮かべた医者からは車椅子を手放せるかは運だと言われた。

 それでも幸運だと言われた。

 ベッドは窓際をあてがわれた。

 病室に吹き込む風がまず自分のベッドの上を掠めるから寒かった。

 カーテンは翻ってちっとも役に立たなかった。


 電話が鳴った。受付からだった。

 見舞いが来たらしい。僕に友人はいなかった。

 知らない名前だと思ったら、記憶の隅に名簿があった。


 「死にきれなかったよ。」

 「詰めが甘いのよ。」

 「それで死んでたら?」

 「本気で言ってる?」




 「嘘だよ。」





































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