4. Omnia Vincit Amor

 ウァレリアの話を聞いていると、ルキウスは三十年前の記憶を久しぶりに思いだした。そういえば、アシア総督のもとへ赴いた時だった。衝撃の事実を知ることになったのは。


「ルキウス、何か思いだしたの?」


はっと昔の思い出から我に返る。そういえば、まだ食事の最中だった。


「何故だかどうにも昔のことをよく思いだしてしまうんです。歳のせいですかね」


ウァレリアは起き上がるとルキウスの膝の上へと座り、ルキウスの頬に手をあて、彼をもう一度よく見つめた。


「昔のことね……。私もたまに思いだすことはあるわ。でも、過去に捕らわれていては前へと進めなくなってしまう。忘れてしまいたい過去は心の中から消してしまいなさい。それが生きるのに一番楽な道よ」


「全て忘れたくない過去なんですよ、特にウァレリアさん、あなたとの思い出は」


ウァレリアは喜ぶ素振りは見せずただ彼の耳元でささやく。


「じゃあ、昔みたいに私の名前を呼んで、愛して見せてよ」


 いつからだっただろうか。ルキウスはウァレリアのことを商売のパートナーのように扱うようになっていた。その方が二人の外見を説明するのに違和感がなくなっていたからだ。


それでも、心だけは通じ合っていると思っていたのに、最近はそれもどうか怪しい。曖昧な関係なんて満足できないわ。愛してるなら証明して見せてよ。そうウァレリアが口に出すよりも前に、ルキウスは彼女をソファーベッドへと押し倒す。


 後にルキウスとウァレリアのもとに届いた書簡は、セレニウス・グラニアヌスの名で二人の商売を保護するというものだった。その書簡のもとで海と陸上を駆使して商売を始めてから一年が経過しようとしていた。


拠点として使用しているパルミラのドムスには、セレニウス・グラニアヌスがアシア総督としての任期を終えたこと、歴史の中にローマ人らしく消えていくことにしたこと、後任には引き続き商人として保護をしてもらえるように頼んであることが記された個人的な手紙のようなものが届いていた。


ルキウスにはこの手紙がウァレリアへの別れも含んでいることくらいは理解できていたが、そんなことは知らない、無垢な少年のふりをし続けることにした。


「とりあえず税も問題なく納められているし、一年目としては順調ね。あとはこのローマの平和があと何年もってくれるかってところだけど」


ウァレリアはアトリウムでフレスコ画を眺めながらそう呟く。ルキウスは次の客の為に仕入れをしなければと考えていたが、彼女の言葉に質問をしてみる。


「この平和はいつかなくなってしまうのですか?」


ルキウスも壁面に描かれた絵へと視線を向ける。そこには古代ギリシアにおける商売に関わる神だとウァレリアが語った、ルキウスが名前も聞いたことがないような神が描かれている。


かつてこの世界には神々が実在していたというが、ウァレリアは彼らと同じ時代から生きているのだろうか。


「ルキウス、聞いてるの?」


ウァレリアにそう言われ、ルキウスはふと我に返る。


「ごめんなさい、考えごとをしておりました」


ルキウスがおそるおそるウァレリアへ目を向けると、彼女は怒りの色などみじんも感じさせず微笑んでおり


「ここ一年大変だったものね。もう一度だけ話しましょう。この帝国もそうでしょうし、この世界に永遠に続く安寧など存在しないのよ。この国も部外者や内部の混乱で滅亡するわ」


 ルキウスは言葉を詰まらせる。記憶にあるうちから奴隷の身ではあったものの、ローマ帝国が繁栄し、属州があり、その外側にもローマほどではないが国がある。


それがルキウスにとっては普通であり、ローマ帝国がない世界など想像がつかないのだ。


「ウァレリアさんには想像出来るのでしょうか? ローマのない世界が」


愚問だったかもしれない。ロムルスとレムスに語られる、ローマ成立より古い時代から生きる少女のままの何かには。


「ええ、容易に出来るわ。でも具体的にどんな世界が成立するのかまでは、見当もつけられないけどね」


 ルキウスはその話に対して興味深いとだけ答えると、今後の商売の予定へと、話の軌道を戻した。だが、彼の脳裏からは消えなかった。ローマ帝国が滅亡する日がいつか来ること、この平和が失われる日が来ることが。


「そういえばルキウス、最近私のことをウァレリアさんと呼ぶのね」


パーンディヤとの交易を増やすか否かの話し合いの中、不意にウァレリアが話をふってきた。


「不自然かもしれないですけど、あなたの方が私よりも年上ですし、商売の腕もある。自然と尊敬したくなるもんですよ」


まあ、嬉しいわとウァレリアは答えると再びパーンディヤの話に戻った。


「私としてはあの辺りの装飾品とかも扱ってみたいと思っているの。娘に異国情緒を持たせたいって男は沢山いるはずだもの」


「きっと美しくなるのでしょうね。あなたがその異国情緒をまとったら」


ルキウスはそう言ってから顔を赤らめてしまう。いきなり何を言っているのだろうか、と。急に気まずさと恥ずかしさが襲い掛かり、全身が熱くなっていく。


「そういうのは好きな人に言う言葉よ。利害の一致で行動を共にしている女に言うもんじゃないわ」


ウァレリアは顔を赤らめるルキウスへ微笑む。この先、ルキウスに愛する人は出来るのだろうか。


そうしたらウァレリア自身はどうなるのだろうか。まあ、前のように誰かの妻として生きればいい。しかし、この先もルキウスの時間を奪ってしまうことには罪悪感を覚えた。私たちは他者に寄生でもしないと生きていけないのに。

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