3. Selenius Granianus Immortalis

 アシア属州のプロコンスル、セレニウス・グラニアヌスは突然現れた商人へと宴を開き、その出方を伺っていた。


海上貿易を行っていた商人、ウァレリウスの死亡に伴い、後を継ぐことになったルキウス・クラウディウスというまだ少年と呼ぶにふさわしい若い商人と、その妻で彼よりはいくらか年上に見えるウァレリア。


 よくある話かもしれないが、大商人の後継者をこのような子供が任されることはあるのだろうか。アシア総督との取引を狙う何者かの差し金だろうか。


それにしてはわざわざ少年を送り込むとは侮った真似をしてくれる。この少年は本当にウァレリウスに匹敵する才ある商人なのだろうか。


「この度はわざわざお越しいただきありがとうございます。商人ルキウス、その妻ウァレリア。どうぞこれからの宴をお楽しみください」


 手を洗い、神への祈りをすませ、まずは何が来るのか。そのくらいは若者でも商いをする者なら誰しも理解しているだろう。セレニウスは長いベッドのようなソファに横になると、隣のベッドで同じようにする少年を眺めた。


少年の反対側のベッドで同じように振舞う彼の妻は、こうした場にすっかり慣れきっているようだ。変わった女だ。度胸があるらしい。と、ある程度今回の客人の素性に察しがついたところで、奴隷が蜂蜜入りのワインを持ってきた。


セレニウスは奴隷から受け取ったとワインを喉へと流し込む。杯の中のワインにはセレニウスの顔を映した。異民族のような淡い茶色の髪に明るい青の眼。歳もプロコンスルになるような歳には見えないだろう。


せいぜい商人ルキウスと十歳離れているかいないかくらいだ。


「ルキウスさん、今日あなたにお会いできたのも神々のお導きでしょう。この時間をお楽しみいただけると嬉しいです」


 ルキウスが慣れない様子でワインの飲み口からワインを口内へと流し込むと、最後にケーナという名の宴の場には珍しい、彼の妻のウァレリアへとワインの入った袋が渡される。


「ウァレリアさんも、お越しいただき嬉しい限りです。私は知識人ならばどのような方のお話でもお聞きしたいと思っています。キリスト教徒などと呼ばれる、皇帝陛下すら信じないという異教の方々が相手でもね」


 そこで初めて、目を伏せていたウァレリアがセレニウスの方を向いた。テュロスの紫のような品性と高貴さを兼ね備えたその瞳には、彼女が見た目以上に過ごしてきた、長い時間が宿っていた。


五百年ほど前、ペロポネソス半島の強国スパルタを倒さんと、アテナイの一兵士としてファランクスの一部を担い戦っていた、セレニウスの生よりも長い時間が。


「この度は私のような者まで招いてくださったこと、心の底より感謝いたします。グラニアヌス様」


ウァレリアはワインを喉に流し込むと、セレニウスの青い眼を覗き込むように見つめ返した。恐らく正体は気付かれている。だがそれは互いに同じだと、この女も分かっているのだろう。


「ハドリアヌス帝の治世になってもう十年は経ちましたでしょうか。我が帝国はますます繁栄を続けており、その様子は皇帝陛下も知るところとなっています。


ではよその地域はどうでしょう? ぜひともあなたがたの見てきた帝国の外の国々についてもお聞かせ頂きたく思います」


ウァレリアは笑みを浮かべ、ルキウスが勿論です、と話し始める。


「まだウァレリウス様と共に商人をしていたころの話にございますが、パンディアンに赴きました。プロコンスル様はパーンディヤがどのような地であるかご存じでしょうか」


「私は皇帝陛下のような旅人ではなくてですね。実のところアシアより東の地へは赴いたことがありません。せいぜい、我々の神々でも、キリスト教徒のものでもない神々が信じられている地としか」


 前菜ともいえる茹でたカモの卵に魚の味が香るソースをつけ一口かじる。食事という行為に意味はない。単に人間であるために行っているだけだ。だがこの模倣が人の信用を得るのに大きな効果を持つ。


「流石はプロコンスル。それほどの知識をお持ちとは。感動しました」


この商人はどうやらウァレリアと名乗った不老不死人にしつけられているらしい。セレニウスはウァレリアの手法に素直に感心せざるを得なかった。


「ありがとうございます。それで、あなたの見たパーンディヤはどのような景色だったのか、お聞かせくださいな」


ルキウスはお任せくださいと言わんばかりに頷くと


「一言で言ってしまえばミステリアス。それでいて美しさを持った国です。あちらにも我らのローマと同じように、彼らの神々を祀った神殿が多く建てられています。


しかし、それらの神殿は私たちの知る神殿とは建築様式から丸ごと異なっているのです。神殿は円のような形をしており、そこに広がる街もまた、神殿を囲むように円形に広がっているのです。そうですね、例えるならばとぐろを巻いた蛇でしょう」


セレニウス・グラニアヌスは笑う。恐らくウァレリアは何か別の目的からこの少年を使ってアシア総督の彼自身へ接触してきている。


しかし、ルキウス少年がちゃんとした商人になれるように教育はしているらしい。セレニウスの妻を今はやっている、彼の五つ下にあたる女性に並ぶ頭脳の持ち主だ。感心せざるを得ない。


「素晴らしい話ですね。あなたがたの交易が同じであることも容易に想像がつきます」


セレニウスが好意的な反応を見せたからか、ルキウスは目を輝かせる。


セレニウスが仮にアテナイに暮らす若い青年にすぎなければ、この後寝室に呼び出し、夜をどう過ごすべきかを何夜もかけて教え、彼が大人になった時には良い友人でいられるようにしていたに違いない。


しかしここはローマ帝国属州。ローマではローマ人のやり方で、だ。今、セレニウスが少年に教えるべきことは夜の過ごし方ではなく、昼を駆け回る商人としての生き方だ。


 メインディッシュであるヒラメに簡単な味付けをし、焼いたものが運ばれてくる。海を感じさせる香りの中で、セレニウスは次にどう出るべきかを決める。


「ところで、あなた方の求めることは何でしょう? ただ単にアシア総督と交渉したいわけではなかろうに」


食べやすい大きさに切られたヒラメの身にかぶりつく。ウァレリアも慣れた様子でそうしているが、ルキウスはそうともいかないようだった。


それに、この質問への出方を戸惑っている。少年はそれくらいが丁度いい。そしてこの問いに答えたのは予想通りの人物だった。


「グラニアヌス様、そちらの件につきましては私の方から答えさせていただきます。パルミラは私たちにとって陸上での重要拠点の一つとなるでしょう。


それに、今後の商売の方向性によっては隊商となることも検討しております。そこで、どこか土地を購入させて頂けませんか? 


また、我々が主に取り扱う海産物や香辛料といったものを必要とする取引先が欲しいのです。どうか繋いでいただけませんでしょうか」


ウァレリアはそこまで言い切るとワインを飲み、セレニウスの眼を見つめる。最初はローマ人かと思ったが、全体的に血色に欠け、唇の薄いところを特徴としているあたり、ケルト人だろうか。


皇帝陛下が長城を築くとか築かないとか言う話を噂に聞いたほどの、遠い異国の地出身の女がよくここまで昇りつめてきた。セレニウスは生来の性質である、強者を好む己に抗えなかった。


「商売をするうえで、必要なものがいったい何なのか、心得ているようですね。ルキウスさんは勿論、あなたもまた優秀だ。それにここまで知性と教養に溢れた女性は滅多にいないでしょう。気に入りました。その件、アシアのプロコンスルの私、セレニウス・グラニアヌスがお受けいたしましょう」


ルキウスは歓喜に一層目を輝かせ、ウァレリアはほっとしたように息を吐きだす。何らかの理由で商人にならざるを得なかった二人にとって、今回の話は賭けに近かったのだろう。


であればアシア総督のセレニウスを選んだのは恐らく正解だった。ウァレリアとセレニウスの性質を考慮すれば。料理は二つ目のメインディッシュである豚の串焼きを皆が食べ終え、様々なソースで味付けされた手を綺麗にするところとなった。


「最後に、お二人のためにナツメヤシを用意しているのですが、その前にルキウスさん、あなたには数刻、退室していただきたく思います。ウァレリアさんと二人きりで話がしたいのです。大丈夫です、ここで彼女を奪おうなどとはしませんよ」


 ルキウスは戸惑った様子でウァレリアの方を見る。彼女は大丈夫だと答えると、ルキウスはソファーベッドから起き上がり、セレニウスの奴隷により別室へと案内されていった。こうして人間は食事の場から姿を消し、食事の必要などない人間もどきだけが部屋に残される。


「ウァレリアさん、要件は分かるだろう」


敢えて砕けた口調に変え、セレニウスは再び話を切りだす。


「同族に巡り合えたことを喜びたいのかしら。生憎私はそんな気分じゃないわ。でも好都合だとは思ってるの。人間社会に紛れ込んで生きることの大変さはあなたの方がよく知っているでしょう」


セレニウスは頷く。ウァレリアには分かっているらしい。この立場を手に入れたは良いものの、全てが楽になったわけではないセレニウスの心中を。


「この顔はプロコンスルという地位には似合わないからね。今の皇帝陛下が属州イスパニア出身であることなんかよりも、僕の姿は異質だ。この立場になるには数十年の歳月を要する。僕らにとってはたった数十年だが、人間はその短い時間の中で姿を大きく変える。


それのない僕は若くしてこの地位に立っているように見えるのだろう」

ウァレリアは笑みを浮かべる。この女は自身よりもずっと長く生きている、きっとこの地の少し南に位置するメソポタミアで、いくつもの都市国家が栄えたよりも前から。


「でもあなたの優秀さが損なわれるわけじゃないわ。何を言われても堂々と嘘をつき続けるのよ。そうすれば、あなたをおかしいと言う人がおかしい人になるから」


 このままではセレニウスが長年の悩みを打ち明けて終わりになってしまう。こんなところで同族に不必要な恩を売りたくはない。


「来年には僕はローマに戻り、セレニウス・グラニアヌスとして死ぬ準備に取り掛かる。僕がグラニアヌスでなくなるまでは、君とあの哀れな少年の手助けをしよう」


「ありがとう、セレニウス。あなたがアシア総督で良かった」


 案内された別室、恐らく女性が休息のために使用するような部屋の壁に耳をつけて、ルキウスはウァレリアがローマ人らしからぬ容姿のアシア総督とどのような言葉を交わすのかをしっかりと聞き届けていた。


自分より少し年上と思っていた、ウァレリウス様の妻としては若すぎるような気がしていた彼女の秘密を知ってしまった。


総督もウァレリアから聞いていた話よりも若い人物がそうであったのでルキウスは内心少しばかり戸惑っていたが、これでずっと気になっていたことが解決してしまう。これからはこの秘密を知らないふりをしながら生きていかなければ。


 真実を知れば大商人ウァレリウスの後を追うことになるのかもしれない。考えただけで血の気が引いてしまう。この日から、ルキウスは恩人ともいえるウァレリアに隠し事をして生きることを決めたのだ。

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