2. Vita Mercatori

 赤い夕陽が地平線の彼方へと消えていく。透き通った空を遮る山はなく、昼と夜の境目をはっきりと見せてくれるこの街を、薔薇の街と呼ぶ人もいるらしい。


「私たちは隊商を持つべきかもしれませんね」


道行く同業者たちを眺めながら、ルキウスはそう呟く。その言葉をウァレリアは聞き逃さず


「ラクダが必要な時は借りているじゃない。それで十分よ。それに目立つような財産を私は持つ気がないの」


何十年も前、この逃亡という名の旅を始めたころからウァレリアはこう語っていた。同じ顔をして、同じように髪を結い上げ。


「こうして二人きりで歩いている方が奇妙なもんと思いますよ。私たち、夫婦にしちゃあ歳も離れていますし」


ウァレリアはそうね、と珍しくルキウスの話を肯定する。


「確かに、私の夫にするにはあなた、若すぎるわ」


ルキウスはその返しに肩をくすめる。


「相変わらず分からん人ですね。一体私の主人だったあの方とどっちが年上なんですかね」


どうだったかしら、とウァレリアは笑って済ませる。しかし少年にしか見えなかったルキウスがウァレリアの身長を越してからかなりの時間が経過した。それは認めざるを得ない。三十年とは、そういうものなのだ。


 とりあえずで商人ウァレリウスの家を抜け出したウァレリアとルキウスは、港へと歩みを進めていた。


「ウァレリア様」


「その呼び方はやめてくれる? ルキウス。私はあなたの妻なのだから」


「じゃあ……ウァレリア」


「どうかしたの」


 港で船に乗り込み、そうしたら持ってきている香辛料をどこかで売って旅費にしよう。ウァレリアはそう考えていた。


「ウァレリウス様はどうなってしまうんですか?」


「体は土に埋められて、地下で腐っていくのよ」


そんな、とルキウスは嘆く。しかしウァレリアにとってはその方が都合の良い話だ。この世界に終わりを知らない人間ばかりになったら、人間関係のリセットが面倒そうだ。

「じゃあ、いつかはウァレリアもそうなるんでしょうか?」


面倒な子供だ。捨ててしまいたいが、女のウァレリアだけでの商売はリスクが大きい。

「私はならないの。特別な存在だから」


港へ到着すると、ウァレリアはウァレリウスの所有していた船の元へ行き、船員として雇っている奴隷に帆を上げるように指示を出した。


「ところであなた方は誰なのでしょうか。それと、ウァレリウス様は一体どちらへ」


船頭の質問に対しルキウスが答える。ウァレリアが作り出した架空の話を。


「ウァレリウスは急病にて亡くなられました。そこで彼の弟子であった私が彼の後を引き継ぐことになりました。それに伴い、拠点もアシアへ移すことになったのです。今後の契約については後日契約書を持ってまいります」


 船頭は特に疑っている様子もないようだった。ウァレリウスが死んだという話以外には。ウァレリアは正直上手くいくかも分からない作戦に不安を感じていたので、ほっと胸をなでおろした。


これで少なくともハドリアヌスの属州へ赴くことは出来そうだ。海は静かで、他の商船や軍船の姿は今のところない。ただただ世界の果てまで大海原が広がっている。かつてバビロニアで、ギリシアで、この世界は球体だなんて話が出ていたが、それもあながち間違いではないのかもしれない。


「ところでそちらの方はどちらで?」


船頭の質問がふと耳に入る。ルキウスはちゃんと説明できるだろうか。


「その者は私の妻であるウァレリアです。拠点の引っ越しに伴い、彼女にも着いてきてもらうことにしたんです」


ウァレリアは船頭とルキウスの方を向くと軽く会釈をしておく。それからは一言も話すことなく、ウァレリアは話が苦手な少女を演じることにして大海原へと視線を戻した。


 パルミラに到着すると、さっそく新しく拠点にする場所を決めなければならなかった。ウァレリウスはどこかパルミラにも拠点を持っていなかっただろうか。


「ウァレリア、ここからどうするのでしょうか? 流石に拠点もなしに商売は出来ないでしょうし、パルミラは隊商の拠点です。航海者の我々には不向きです」


ウァレリアは頷き、その事実を認める。


「だからこそなの。万が一私たちへ疑いが向いても、探すのには時間がかかるはず。プロコンスルにでも接触して、まずは住む場所を探しましょう」


 ウァレリアは商売の経験もなければ、今は夫殺しの殺人犯。そんな状況にも関わらず、何故だか冷静でいられる自分を今だけは幸福ととらえ、商業活動の保護を求めるためにプロコンスルの元に行くにはどうするべきかと考える。


まずはどこか泊めてくれる場所を探そう。だめならば船の上で夜を明かすこととしよう。ウァレリアの心には冒険心という今までに存在しなかった感情が芽生えていた。


 三十年前、様々な苦労の末にパルミラに建てられたドムスに到着すると、ウァレリアは横になれそうなソファに座り、隣に腰かけ食事をとるルキウスを横目で眺めた。


ドムスの管理を任せている奴隷たちへ後で礼として報酬を多く与えなければならないとウァレリアが考えていると、ルキウスも同じことを考えていたようで麦と豆の粥を食べきると、そういえばと話を切りだし


「ここで働く人々に追加の報酬を与えたいと思っています。どう思われますか?」


寝そべろうかと考えていたウァレリアにそう尋ねてきた。


「良い考えだと思うわ。私も同じことを考えていたから」


ウァレリアはルキウスの膝へ頭を乗せると、そのまま彼の顔を覗き込む。血色の良い肌に、太陽の光を受けて輝くのだろう短く切りそろえられたダークブラウンの髪。


しかしその瞳の色だけは異質に思えた。海の色というのだろうか、異民族の血がそこから鮮明に見えた。最近の文明人とは異なり、ひげを綺麗に剃り、老いを見せながらも前を向き続けるルキウスの顔を、ウァレリアはどこか気に入っていた。


「ルキウス、覚えているかしら。この地での拠点が欲しいってかけあったあのプロコンスルが、どんな顔をしていたのか」


ルキウスは急な質問にえ、と思わず言葉をこぼしてしまう。


「そう、それでいいのよ。人の顔なんて覚えていてもせいぜい数年しか役に立たないわ」


ルキウスはワインを喉へ流し込む。酸味が舌を刺激するが、失った記憶は戻ってこない。


「私はどうしてか覚えているの。ルキウス、どこかあなたに似ていたからかもしれないわ」

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