第18話 赤と濃霧
たった数秒のことが、永遠のように感じる。
船は、想像以上に近くにいたようだった。
霧のせいで見えていなかったのだろう。
……それにしても絶対におかしい。
ふつうの船の航路じゃありえないほど近い。
海賊、というワードがまた頭をよぎるけれど、冷静に否定する。
そうだ、この霧なのだから……向こうもこちらに気づいていないのかも知れない。
誰かに伝えないと。船員のみんなに……ルイスやラッセンさん、テトラに言わないと。
「誰か! 航路を変えてください!」
船内に向かう扉に向かって、誰もいない甲板を叫びながら走り抜く。
いつのまにか大雨が降りはじめ、あたり一帯にさっきよりも強い霧がたちこめていた。
あの船に乗っているのがもし海賊だとしたら────海賊たちがこの船に乗り込んでくるとしたら────そうすれば、私たちは応戦しなければならない。
いや、だから、あれは海賊なんかじゃなくて、私は事故で衝突するのを避けたいだけで……!
「シャーリーン、震えてる」
右肩から柔らかい声が聞こえてびくりとする。
いつのまに目が覚めたのか、トカゲになったドラゴンのレヴィン様がこちらを大きな目できょろりと見上げて来るのをみて、やっと自分が震えていることに気づいた。
「そうよ……そう。震えてるわ。怖い。私たち逃げなきゃいけないから! レヴィン様も早く、逃げて! お願いだから!」
叫んだ途端、船と船がぶつかる大きな音が鳴った。
同時にグラリと、大きく船が揺れる。
目を見開くと霧が一瞬晴れ、向こうの船に乗った男と目があった。
────なんで私は、さっきよりもっと、震えてるんだろう。人と目があっただけなのに。
下卑た笑みを浮かべる男の姿はすぐにまた霧に覆われる。
接舷されたというのに、実感が伴わない。
理解したくないのか、できないのか、頭も体も上手く働かない。
口も足も重くて、だけど大きく揺れる甲板に必死でしがみつきながら、船内へ向かおうと進む。
「シャーリーン!」
目の前から聞こえた声に向かって必死に腕を伸ばすと、それを掴んで抱き寄せてくれた手に、私は安心して思わず泣きそうになった。
「ルイス……これは事故じゃない。逃げなきゃ!」
「大丈夫だよ。船内へ隠れて。さあ。はやく!」
ルイスの怒ったような声を初めて聞く気がする。
だけど船内に隠れるって、私が?
こんな状況でルイスだけを甲板に置いていけるわけがない。
そう言い返そうとした途端、ひゅんという音とともに目の前にロープがとんできて、先端のグラップネルが船に食い込んだ。
……このロープを伝ってあの男たちがこの船に移って来るのだろうか?
そうはさせぬと鉤をはずそうとするのに、それはぎっちりと食い込んでいて外れなかった。
(
誰もそばにいないことを確認してから魔法で鉤の金属の部分だけを熱で溶かしきると、支えを失ったロープはシュルシュルと海の方に落ちる。
誰かの声も一緒に落ちていったような気もするけれど、すでに船のあちこちから霧にまぎれていろんな声が響いていたからよくわからない。
私はたった一本、渡綱を落としただけ……すでに移乗攻撃を仕掛けに来ている海賊は多くいるようだった。
「お嬢ちゃん、何してる! 船室に隠れてろ!」
ルイスに続き、応援に駆けつけたラッセンさん、テトラたちが魔法で応戦し始めたようで、霧を裂くようにときおり光線が走る。
そんな力強い光を見て自らを奮い立たせたらしい船員たちが、バタバタと武器をもって甲板にでてきたところに出くわした私は、小さな体を抱え上げられて船内へと投げるようにして押し戻された。
「大丈夫だ、わしらがなんとかする!」
そう言って去っていく乗組員たちは、たしかに一般人に比べると体つきもいいし、武器の扱い方も知っているようだ。
けれど、本当に戦い方を知っている?
この大陸には不戦協定があって、ラートッハ王国では自衛の範囲を超える戦力をもたないことを誓っている。
だから国軍や王室騎士団をはじめ、貴族や自治体の私兵団さえも存在しない。
そのためサルシム学院で学ぶ貴族でもなければ、まともに剣術や戦術を習う機会もない。
まともな教育がなくとも、叩き上げでたくましくなる人もいるだろう。
けれどそれは強く明確な目的や、耐え抜かねばならない環境、トラウマレベルの経験と必要性が生み出すものだ。
力による強奪や争いなどこれまで顕在化していなかった平和な大陸において、それがどれほど現実的でないかは容易に想像がつく。
────なんで私が、逃げられるというのだろう。
小さい女の子だけど、魔力が強いときっと恐ろしがられるだろうけど、人目のあるところで珍しい魔法を使ってしまったらどう言い逃れるかなんて思いつかないけど。
だけど、誰かを守る力があるのだ。
冷静な頭と心臓があるのだ。
戦わなければ、それらはなんのためだというのか。
「ぐわああああ!」
その時、さきほど甲板の先へ向かったはずの船員の一人が、白目を剥いて文字通り船内に飛んできた。
「おっと、思わぬ収穫だ。金になる貨物にもちょっと飽きてきてたとこなんでね」
少し先で扉のきしむ音が、恐ろしくはっきりと響く。
音の方へと目をやると、そこには最初に霧の向こうで目があった、下卑た笑みを浮かべる海賊がいた。
「そそる目の嬢ちゃんだなあ」
男がにたりと笑ってカットラスを宙で一回転させる。
そして、その刀身がふっと見えなくなった瞬間、私の体がぐらりと傾いだ。
混乱したまま地面に鼻をぶつけざま、私は床に留められた左足から赤い血が鮮やかに流れるのを目端に捉えてうめく。
「あああああぁ……っ」
たとえ防御魔法が発動できるとしても、戦ったこともない私が咄嗟に動けないのは至極自然なことだった。
────そもそも、私も、誰も、本当の戦闘を経験したことはない。
モノだろうが命だろうが、なにかを本気でとりにくる人間相手に、うまく立ち回れないのは仕方のないことだった。
なんて無様なんだろう。
用意のない者が、一方的に踏みにじられる。
理不尽で、……でも当然のこと。
「そういえば女をどう割るかなんて決めてなかったなあ……なあお嬢ちゃん、どうされたい?」
あつい。
身体中全部の血が足にあつまって、体から抜け出たいとせめぎあっているみたいだ。
────だけど血が少し抜けたからか、頭がさっきまでよりずっとスッキリしている。
「半分にしちまったら価値がなくなるもんなあ。いくら収穫物だってったって、女はわけなくてもいいよなあ」
(
這いつくばったまま脳内で沸いた言葉は風に乗って男の足元をすくい、瞬く間にかたい蔓花でできた檻が男を覆った。
男の手指まで蔦がぎちぎちとからみつき、指一本動かせないとはまさにこのことだ。
落ち着いて体制を立て直す時間を得た私は、やっとのことでカットラスを足から抜き、ちぎった服を巻いて止血してから、ゆっくりと腰を立たせた。
「くそが! ハッ、大層な魔法を使いやがって、穢らわしい魔女だったとはな!」
「……ねえ、人の命さえ平気で踏みにじれる理由って何なの?」
「わかったわかった。お嬢ちゃん……もう悪いことしないから、ここから出してくれよ。反省してるから……な?」
男を覆う檻の硬い枝でできた部分をつかんで片足でぐっと立ち、からまりあった植物の間からかろうじて見える男の顔を覗き込むと、男が勢いよく唾を吐いた。
「ねえ、誰と盗品を山分けするって?」
私が唾をぬぐいながら言うと、男がほんの一瞬ぴたりと固まり、すぐにへらりと笑った。
「はあ? 何言ってるんだよ……はやくここから出せって言ってんだろ!!」
形相を変えて叫んだ男に、私は魔法で男の体中のツタを伸ばしてきつく締め上げながら、負けじと声を張り上げて叫んだ。
「
◇◇◇
「ルイス……ルイスたちは……」
うわごとのように呟いて足を動かそうとしたけれど、支えなしでは歩くことすらできない。
傷が深すぎて、止血していても滲み出る血が多すぎる。
────光魔法は、王の意志のもとでしか使ってはならない。
それに、光魔法の使い手だと知られたら、王の元で管理されることを余儀なくされる。
その掟を聞いたせいで、自分の傷を自分で治すという選択にさえ戸惑いが生まれていた。
使ったってバレないよ……そう思う反面、もしバレたら自分の行先がどうなってしまうのかという不安と恐怖が、思考を覆う。
そして、ただただ凍えそうなほど寒かった。
ずるずると体を這わせてなんとか甲板へと戻ると、上はやけに静かだった。
雨は降り続いているものの、霧は少しおさまったようで先ほどより視界はよくなっている。
ルイスは、ラッセンさんは、テトラは、船員たちは?
刺された足があつくて焼け死にそうだ。
そのくせ、血がわき立つように踊って脳がよくまわる。
足元にごろごろと倒れている男たちが見えた。
これは私の仲間ではない……これもこれもこれも、これも……。
はたと目を止めた先に見知った服の船員を見つけ、呟いた。
「ねえ、生きてないの……?」
支えを離し、ふらふらと甲板に打ち捨てられたように倒れた船員の近くに跪く。
むせかえる鉄サビのような匂いに、私は思わずえずいた。
心臓が口から出そうで気持ち悪い。
まるで心臓を支える筋肉がなくなってしまったみたいだ。
「この人生きてないの?」
一人でつぶやいても、誰も何も答えてくれない。
ふと霧がはれて、少し離れたところに海賊船が漂うのが見えた。
やっと、離脱したんだ……。
くるりと見回すとようやく、ルイスたちの姿も確認できた。
ルイスたちはそれぞれ船員たちを背にし、守りながら戦っていたようだ。
それでも、あの霧の中守りきれなかった者もいたのがわかった。
船員は戦ったこともなく、武器をもったこともろくにないのだ。当然のことだ。
息も絶え絶えの様子ではあるが、ルイスとラッセンさんとテトラが生きているのがわかった。
船も無事だ。よかった。
それだけで……よかったじゃないの。
「シャーリーン? 足が! 血が!」
こちらを見つけて走り寄ってきたルイスを見た瞬間、安心したのか脳がはっきりと恐怖を認識し、私は急に恐ろしくなって笑い出した。
「どうして笑ってるの……? しっかりして、シャーリーン」
怯えた表情のルイスをみて、私は考えていた。
違う。よかった……わけがない。
こんなのおかしい。
なんでこの船が蹂躙されなきゃいけなかったんだろう。
なぜ力があるはずなのに守れなかったんだろう────自分のことさえも。
「まだ船内に一人……海賊がいるわ。ごめんなさい、トドメをさすのが怖くてできなかった……。だから放ってきてしまって」
言ってしまってからふと気づく。
あの海賊の様子をみたら、私が不思議な魔法を発動したこともわかるだろう。
足の痛みが猛烈に疼き始め、去りゆく海賊船を睨みつける。
するとそれが突然雷に打たれ、真っ二つになって海へと散っていった。
「……天罰だ」
どこかで誰かがつぶやく声と、私の肩を揺するルイスの声。
ばらばら崩れる海賊船の音と誰ともわからぬ悲鳴。
誰かのすすり泣き。
ぜんぶが遠くで聞こえた気がして、私はゆっくりと目を閉じた。
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