第12話
小さな街を麓に持つ山の頂上に寂れたこじんまりとした祠があった。小さな赤い鳥居と鈴が付いており、備え付けられたお賽銭箱の中にはとうの昔に錆びてしまった硬貨がまばらに入っていた。
一人の少女が祠の前で手を合わせていた。艶のある灰色の髪を背の真ん中あたりまで伸ばし、青色の澄んだ瞳が魅力的な少女だった。彼女の体躯は細い。大人びた雰囲気を纏ってはいるが、表情はまだ若い。十代の後半に見える。
灰色髪の少女は目を開けると、二回お辞儀をしてポケットから十円玉を一枚取り出すと、小さな賽銭箱の中にそっと落とした。
「遅い!!来るのが遅すぎじゃ!!死んだのかと思うたぞ!!」
祠の裏にある岩の上に、少女より一回り程小さい女の子が鎮座していた。彼女はまるで老婆のような口調で話す不思議な子で、白と赤で彩られた巫女のような服を着ていた。髪は輝かしい金色をしており、瞳は灰色髪の少女と同じような空色をしている。そして、彼女の頭から山吹色の狐耳が生えていた。
狐耳の少女の正体はこの寂れた祠に祭られている神様だった。しかし、ふもとの町の人々ですら知らない神様である彼女の力は弱い。小妖怪相手でも後れを取ってしまう程だった。
灰色髪の少女は、そんな神様の少女を見つめても表情を一つ変えなかった。それは彼女が姿を現すことを知っているからだった。
「文句を言わないで。私だって忙しんだから」
ぶっきらぼうな口調で言う彼女はどこか嬉し気な様子だった。口の端がほんの少し上がっており、微笑んでいる。
灰色髪の少女に、この世界で友と呼べる程に親しい者は手で数えられるぐらいしかいない。目の前にいる狐の神様もその数少ない友の中の一人だった。
彼女は久しぶりの友との会話に、隠そうとはしているが内心では喜んでいるのだった。
狐耳の神様は少女の気持ちの内など気が付いていないのだろう。忙しいから、という彼女の言い訳に憤慨したようで、足をジタバタさせながら抗議した。
「な~にが忙しいじゃ!!これでも儂は神様じゃ!!!!もっと敬う素振りを見せるのじゃ!!」
狐耳の神様はそう言い終わると、頬を膨らませて拗ねてしまった。だが、ここまではいつもの流れだった。灰色髪の少女以上に彼女は孤独だった。こうしてぶっきらぼうな態度を取られていたとしても、こうして訪れてくれるだけで彼女はとても嬉しかった。
灰色髪の少女はそんな神様の心の内などお見通しと言わんばかりに、くすりと笑みを零した。そして、手にさげていた袋から一本の日本酒を取り出した。それはスーパーに置いてあるような安物ではなく、老舗で伝統的な手法で手間暇掛けられて作られた高級な日本酒だ。
「今日はお土産を持ってきたから、これで勘弁してよ」
彼女はそう言うと、ビンの蓋を開けて持ってきたお猪口に酒を注いだ。すると良い香りが辺りに漂い始め、その香りは狐耳の神様を誘っているようだった。
狐耳の神様はまんまと酒の匂いに釣られて岩から飛び降りると、灰色髪の少女の隣にやってきて、彼女から酒をなみなみに注がれたお猪口を受け取った。
「こ、こんなもので神様への賄賂になるものか!!」
少しでも威厳を見してやろうと強がってみせるが、それを言った直後にお猪口を口に運んでいた。
「……!!!!」
狐耳の神様の目がかっと見開いた。酒の味はとても澄んでいて、よく吟味された清流の水を使って作られたことがよく分かる。舌の上の残る味はしつこくなく一気に飲むことでき、その後に遅れてやってくる酔いがたまらなく心地良かった。
「どう?美味しいでしょ」
灰色髪の少女は感激して言葉すらも発せない様子の狐耳の神様を見つめてニヤニヤと笑っていた。
彼女はこの老舗が作る日本酒が好きだった。澄んだ上品な味には一欠けらの癖もなく、アルコールの味が苦手な少女でも好んで飲むほどだ。唯一困るのは、美味しさのあまり飲みすぎて、後でべろんべろんに酔っぱらってしまうことだった。
「これで赦してくれるかな?」
少女は神様が持つお猪口にお酒を注ぎながら、悪戯っぽい口調で言った。
「ふんッ!!今日はたまたま機嫌が良いから赦してやるのじゃ」
そう言いながら、しっかりとお酒を注いでもらっている狐耳の神様はすっかりと賄賂に流されて威厳も何もあったものではなかった。
だけれでも、そういう生き方の方を彼女は愛していた。
「ところでお主。珍しく拝んでおったが何を祈っておったのじゃ?」
狐耳の神様は力が弱すぎて、拝む人の心の中を読む力すら失っている。
そんな力すらも持ってない神様に祈りを伝えても無駄だというのに、灰色髪の少女は何も疑問に思わず答えた。
「世界平和。世界から戦争がなくなりますようにって」
そう言うと彼女はお猪口のお酒を一気に飲み干して、晴天の空を見上げた。その姿はまるで美しい心を持った平和主義者のようだ。
しかし、狐耳の少女は彼女のことをゲラゲラと腹を抱えて笑った。
「ヒーっ!!ヒーっ!!笑わせおって、お主が世界平和?!」
耐えきれなくなったのだろう、狐耳の神様は大声で笑いながら地面を転げ回ってジタバタしていた。余程面白かったらしく、笑いすぎて目から涙が零れ落ちていた。
「殺し稼業のお主が世界平和を口にするなぞ滑稽じゃ!!腹が捩れるかと思ったわい」
ひとしきり落ち着きを取り戻した後、狐耳の神様は少女に向かってそう言ったのだった。
灰色髪の少女はというと少し罰の悪そうな顔をしていたが、あんまりに笑い転げる神様の姿を見ていて、彼女もまたつられて笑っていた。
「うるさいなぁ。別に世界平和ぐらい誰しもが望むことでしょ?」
灰色髪の少女はそうは言うものの、現実はその通りではなかった。狐耳の神様が言う通り少女は殺し稼業に就いていた。傭兵として世界各地の戦場を駆け巡り、金のために正規軍に代わって汚く危険の仕事をこなす。時には戦争に巻き込まれた何の罪もない市民を手に掛けたことだってあった。そんな彼女が世界平和を祈るのは、もはや現実的な力ではどうにもならないと諦めてしまっているからだった。これは彼女なりの一種の皮肉なのかもしれない。
狐耳の神様はそんな彼女の心の内を理解はしてはいなかったが、それ以上彼女を責めるような言動はしなかった。狐耳の神様は灰色髪の少女よりは遥かに長くは生きてはいるが、傭兵である彼女の方が戦争については考えが深いと思っている。それならば、知識だけで議論を進めようとするのは友の間柄とはいえあまりに無礼だろう。
「それもそうじゃな。だがお主死んでくれるなよ?友が減るのは堪えるからな」
狐耳の神様はそう言うと、何かを訴えるように少女の目を覗き込んだ。
灰色髪の少女は勘が良かった。特に狐耳の神様が何を思っているのか手に取るように理解できる。狐耳の神様が、もう戦わないでくれ、と本当は言いたかったこと等彼女の勘に掛かれば、聞くよりも明らかに見通されていた。
「死なないように頑張るよ。当たり前だけど」
少女はそう返すと立ち上がった。もう時間だった。これ以上は長居出来ない。
狐耳の神様は立ち上がる少女の後姿を悲しそうに見つめていた。別れるのが寂しいのではなかった。もう会えなくなるかもしれないというのが嫌だった。
少女の去り際、神様は彼女に言い残した。
「万一……万が一じゃ、お主の命が果てたとき。もし赦されたなら此処に戻ってこい。お主がどんな姿であろうと慰めてやる」
その言葉に少女は後ろを振り返ると、ほんの少し口角を上げて微笑むと狐耳の神様に背を向けて山を下っていた。
狐耳の神様は彼女の後姿を見えなくなるまで、見えなくなったら誰もいない山道をしばらく眺めていたのだった。
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