第11話

 竜の少女は困惑していた。

 深い森の中だった。突如として切り開かれた空間には小さな泉があって、旅人の少女はそこで水浴びをしていた。

 少女の体躯は細く、表情はまだ幼い。背まで伸びた灰色の髪と青く澄んだ瞳が魅力的な少女だった。

 彼女には秘密があった。それは人間の見た目をした竜だということだ。

 普段は人の姿をしているが、本来の姿を恐ろしい竜人の姿をしている。手足は亜白色の鱗で覆われており、見た目は鎧のようだ。手足の先からサファイヤのように深い藍色をした鋭い爪が伸びている。さらに背からは自分の背丈よりも大きな竜の翼が生えていた。

 そして、今の彼女は竜人の姿をしていた。人の街でそんな姿をさらせば、人々は彼女を忽ちに恐れて面倒ごとしか起きない。しかし、ここならば誰にも見られないと本来の姿に戻って息抜きをしていた。

 竜の少女はとても穏やかな気持ちだった。その証拠に彼女の背後に遅れて付いて回る小さな鱗で覆われた尾が伸びていた。竜にとって尻尾というのは恥部に近い扱いだ。姿を自由自在に変えることができる彼女はむやみやたりに尾を出すことは決してしない。

 しかし、この日ばかりは気が緩んでいた。何日も歩き詰めでお風呂にも入れてない。唯一体を清潔に保つ方法がタオルで拭くだけの生活が続いてストレスが溜まっていたのだ。

 少女は静かに水面に足を下した。足の先の爪が水面に触れて、円状に波が広がっていく。それに驚いた小魚が素早く動き回ったのが見える。

 彼女は思い切って足を下すと、心地よい冷たさが全身を駆け巡った。そして、も片方の足、腹まで、そして首とゆっくりと水の中に入ると、すいすいと泳ぎ始めた。

 水はとても澄んでいた。浅いと思っていた泉は意外と深く、一番深いところで五メートルもあった。

 彼女は地面の肺活量を活かして、水中をまるで魚のように自在に泳ぎ回る。翼が水に圧されて泳ぎにくそうにみえたが、力任せな泳ぎ方がそれすらも解決した。

 三十分ぐらいだろうか。彼女は長い間、水中を楽しんでいた。思いのままに泳いでみたり、水底から太陽の光を眺めてみたり、あるいは力を抜いて沈んでいく感覚を楽しんだりと、思いつく限りのことをして無邪気な子供のように遊んでいた。

 そして、思いつくことをやりきって飽きた彼女は水面から顔を出した。あんなに長くそのうえ激しく水中で動き回ったというのに、彼女は息切れの一つもしていなかった。さすがは竜人ということなのだろう。人間離れした力が垣間見ることができる。

 泉から出て体を拭こうと腕を地面に置いた時、少女の顔は硬直した。彼女が見つめる先には白髪の美女が立っていた。そして、少女が旅で大事に使っている黒色の槍をまるで人質のように握りしめ、彼女が水面から出てくるのを待っていたかのように手を差し伸べた。

 少女は困惑した。白髪の恩は彼女が人間では無いことに気が付いている筈なのに、それを恐れもせずに手を差し伸べてくることが奇妙で仕方がなかった。しばらく彼女が白髪の女の手を取らずにいると、彼女はニコリと笑みを浮かべて言った。

 「大丈夫。私も人間じゃないから」


 照り付ける太陽の光がうんざりとする日のことだった。森の中はまだ木々の葉に光が遮られて涼しかった。しかし、道らしき道なんてものはなく、獣道ですら歩きやすいと感じられる程に、人の手が一切入っていない自然豊かな森林だった。

 そんな森の中を地図も何も持たず身軽な女が一人、勘に任せて歩みを進めていた。彼女は服装はまるで旅を知らない舐め切ったもので、ふとももの殆どが露出した短いパンツに白いシャツ一枚を着ているだけだった。腰にはナイフ一振りがホルスターの中に収められてはいた。

 白髪の女は一応は旅人だ。しかし、彼女の頭の中に計画性なんていうものはなく。この世の全てはナイフ一本でどうにかなると本気で考えている狂人と呼ばれる種に属する人物だ。

 多くの人は彼女を笑い、優しさを兼ね備える者は彼女に再三の忠告をした。しかし、彼女は「大丈夫」と笑ってはぐらかすばかりで心には一切響いたことがなかった。

 そんな自由奔放な彼女が、奇妙な泉を見つけたのは太陽が真上に上ったあたりのことだった。

 泉の傍には綺麗にたたまれた衣服と旅道具そして靴が並べられていた。それを見た瞬間、白髪の女は全てを察した。

 よく聞く話だ。旅の者が慣れない森で迷い込み、なんとか脱出しようと試みるが、行けども行けども同じ景色にうんざりし、夜になれば闇から猛獣や魔物が飛び出してくるのではと怯える。そんなことが数日も続けば発狂して自らの命を絶とうとすることは必然だろう。迷い果てた先にこんな綺麗な泉を見つけてしまえばなおさら、飛び込みたくなる気持ちも溢れ出てくるかもしれない。

 白髪の女はしばらくの間、静かな泉に向かって黙祷をささげた。

 種族の関係から無宗教な彼女だが、死者を弔う姿勢はしっかりと備わっていた。だが、道徳はというと少し難があった。

 彼女は、残された物を物色し始めた。すると途端に彼女の口角は大きく上がった。

 出るわ出るわ宝の山が。ベージュ色のローブは魔法が施されており、汚れが付きにくい仕様になっている。旅の最中、洗濯が難しい旅人にとっては洗わなくていい衣服はとても便利なのだ。さらに見てみると、ポーチの中には数日分の携帯食料と薬そして何と煌びやかな宝石がいくつか入っていた。

 白髪の女は思わずガッツポーズを取ってしまった。だが、彼女は一瞬我に返ってわざとらしく咳ばらいをすると、さらに物色を続ける。中でも目に付いたのは柄も刃も漆黒色の輝きを放つ一振りの槍だった。手に取ってみると、ほんのり僅かに魔力を感じることが出来る。この槍の持ち主は相当使い込まれていたのだろう、槍の柄はほんのりと手の形に窪んでいた。

 その時だった。水面が大きく盛り上がって、そこから一人の少女が顔を出したのは。しかも人間では無い。手足が鱗に覆われて、背中からは翼が生えている。白髪の女は悟った。あ、私殺されるかも、とね

 だが、少女は何かに怯えているように見えた。だから、白髪の女は彼女に手を差し伸べてみた。だが、その手を彼女はなかなか取ろうとはしない。

 白髪の女は気が付いた。少女は困惑しているのだ。自分のことを人間だと勘違いしているのだろうと、だから安心させるためにこう言った。

「大丈夫。私も人間じゃないから」

加えて言った。

「私はサキュバスだ」

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