第4話 江戸前レーシングの始動
勝田が思っていたことは正しかった。菊池紗良は3年前のインターハイで優勝経験のある実力者で、当時の実力は同世代で上から数えるほどであった。なお、その時の大会記録はいまだに破られていない。紗良は高校3年生の夏で引退のはずだった。しかし、その後に出場したオープン式の大会で、落車に巻き込まれて大けがを負った。右足に10針の裂傷であった。
その年の秋、紗良はスポーツ推薦で草大体育学部に出願していた。草大自転車部の練習に何度も参加し、監督から直接アドバイスをもらっており、合格は確実だと信じ切っていた。しかし、結果は不合格。落車事故は推薦入試とは無関係のはずであった。あきらめきれない紗良は、一般入試に挑むがやはり不合格であった。
初めは出場しなくてもよいオープン大会に出場という余計なことをして、大学進学を不意にしてしまったと悔やんでいたが、スポーツ女子の気持ちの切り替えは早かった。
高校卒業後、紗良は予備校に通うようになる。しかし、そんな紗良に悲劇が襲う。通学し始めてできた彼氏を牛か豚みたいな女(紗良の主観)に奪われてしまったのだ。高校時代にスポーツに励み、恋愛経験がゼロだった紗良のメンタルに深いダメージを負う。
ウシ女(紗良の主観)は、さらに畳みかけるように言い残した。
「ごめんなさいね、この人、貧乳は好きじゃないみたいなの」
紗良は足の筋肉の量で圧倒していても、バストのサイズでは完敗していた。努力してもどうにもならない絶対的な壁が紗良に立ちはだかった。
「牛乳を飲むといいんじゃないかしら」
女の些細なアドバイスは紗良を徹底的に打ちのめした。その日以来、紗良は牛乳を一切、飲まなくなった。
紗良はその後、大学進学そのものをあきらめ、専門学校生になった。事故の恐怖心がようやく消えてきたところ、得意の自転車を生かした昼食配送や都市部のメール便などの職につくようになった。
不思議なもので、毎日、荒川沿いを自転車で通勤すると、自転車通勤仲間ができた。中でも「自転車おじさん」というのはよく挨拶をかわす。しかし、相手の勤め先どころか、名前すらわからない。
全盛期、月刊ロードレーサーの表紙にもなった菊池紗良であったが、業界からは完全に忘れ去れていていた。
江戸川スカイタクシーにより採用されたのはDOKAN、菊池紗良、山内、犬掛、扇谷の5名。いずれも、契約社員もしくはパート社員である。『江戸前レーシングチーム』の始動である。
DOKAN、山内、犬掛らパイロットチームは、ゲンジ(平田源二)の元で機体操作を学んでいた。ゲンジは博士卒を経て国立大学の研究員だった人物である。研究員時代にベンチャー企業を立ち上げた工房が秋葉原にあり、江戸前スカイタクシーの機体の設計開発を委託されていた。なお、ゲンジは江戸前スカイタクシーの15%出資者でもある。
紗良と扇谷のサポートチームは係長(飯塚直己)の元で雑用全般を担当していた。
繰り返しであるが、千代田区から提示された具体的な参入条件は以下の3つである。
・来年8月に行われるVTOLのレース大会に出場し、優勝すること。
・試作機は千代田区内で製造すること。
・パイロットは千代田区関係の者であること。
パイロットは、DOKANをはじめとして、千代田区出身の者を採用しており、条件を満たしている。試作機は、秋葉原で試作品製作を手掛ける平田工房に委託し、製造しているので、千代田区内での製造という条件はすでにクリアーしている。
あとは、レース優勝である。こればかりはやってみなければわからない。
当面の目標は、荒川河川敷のテストコースでのテスト飛行であった。
江戸前レーシングのメンバーは、基本的に兼業しており、共通の空き時間が持てる早朝にオンラインで打ち合わせをすることが多く見られた。
その日も朝からオンラインで打ち合わせを行っていたが、DOKANのカメラから映る映像に問題が生じていた。
DOKANが食事をしたり、着替えたりする姿が映し出されていのだ。
ゲンジがDOKANに声を掛けた。
「おい、DOKAN。バーチャル背景使ってくれないか」
「え、何スカ?」
「バーチャル背景だ」
「ああ、今日は『ばーちゃん』はいないです」
DOKANの家は祖母とも同居であった。
ゲンジは、もういいいやという感じの表情になり、DOKANへの指示を諦めた。
次に、係長が口を出した。
「DOKAN君。カメラをオフにしてください」
「ぼくっすか?」
しかし、係長は食い下がった。
「いま、私はDOKAN君って呼びかけたでしょ。カメラを切ってください」
DOKANのマイクがミュートとなった。むろん、カメラはオンのままであった。
映像ではいつまでたってもDOKANの朝食は続き、係長は声を失った。
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