第8話 出発

僕は何度も同じ場所を通るから眩暈のように記憶の中で圧縮される風景のなかで、自分の内側に目を向けるように見下ろしてもほんの先しか見えない鼻を見ようと目の意識を操作し、すると熱く苦い味がドクドクとそこに溜まっていることを感じ心臓からそれは一本の川のようだと思った。光が笑うようにとくとくいう川の音に似た響きが絶えず僕の耳のすぐ後ろにあり、今は少しその道が破れて鼻から血が漏れ出ているのだ、と思った。


 *


 その日は朝から雪がふっていたのだ。でもこの雪は軽いから積もらないよと言っても心配する母さんは予定の時間よりも早く僕を急き立て、車の助手席に乗せたのだった。凍結を心配していた道はほんの少し湿っているくらいで濡れているというほどでもなく、車の正面窓に落ちる雪は軽くて水滴さえも残さずに溶けてなくなってしまう。霧状に広がる雲は山並みを覆い隠すように低く、そこから気まぐれな神の手でちりばめられた粉のような雪がふり、それはまるで雲の上で戱れる天使たちの薄くて軽い羽のように清らかで、だからこの地上に落ちると簡単に消えてなくなってしまうのだ。


 *


ぼんやりと外の景色を見ていると、気づかないうちに鼻から血が滴り落ちて、それはシートベルトに触れると、雪同様にそれと染み込んで見えなくなった。僕はすぐにティッシュを鼻にあてがうと、もう目的だった学園祭の開かれる市の文化ホールのすぐ近くまでは来ていたのだけど、こんな状態でみんなのところに合流するわけにも行かなかないと、母さんに言って、血が止まるまでその建物の周囲をぐるぐると回ってもらうことにした。結局母さんの急かせた朝も無駄になり、僕がみんなのところに合流する頃には、とっくに約束の時間には遅れ過ぎていた。


 *


 車から降りるなり、僕は入り口で見張をしていた先生に捕まってしまった。先生は歩くにつれ僕の肩に薄く積もる雪を払いながら、早く中へ、と妙に僕を急かすのだった、僕はそのまま、舞台裏にまで連れて行かれた、そこではまさに今、前のクラスの劇が終わって次の僕たちのクラスの劇が開幕する準備をしているところだった。綾瀬が脚本を広げるのを囲ってみんなが口々に意見を言い、肝心の綾瀬はというと、それらに押しつぶされるように俯きながら、一定のリズムで許しを請うようにうなずくだけだった。先生に連れられた僕がやってくると、みんなは僕の方を見て、そして次に綾瀬の方へ、来たよ! と呼びかけるのだ、綾瀬は顔を上げて、僕の方へ一歩近寄ろうとし、それでも人垣が邪魔で立ち止まってしまう、そのとき先生が、僕に脚本を手渡したので、僕がそれを読もうとしたところ、蓮見が速足でやってきて、蓮見は、大変だよと僕を困らせることが嬉しいと言うように言ったのだ。僕は本から顔を上げて、


「どうしたの?」


「葉子君が来たから、これでこれまでの話はすべてなしだ、予定通りに始まる」


蓮見はクラスのみんなの方を向いて言った、綾瀬に、そうだろ? と問いかけるような視線をやると、綾瀬はこれまで僕の顔を見ようとしていたのが、うつむいてしまった。蓮見は振り返ると僕にしたり顔を向けた。


「どういうこと?」


「早く読みなよ」


蓮見が言うので、僕は読むのを再開した。それはとても簡単な筋書きで、ああ、みんながあんなに言い合うのも当然のものだった、それにはこれだけしか指示書きがされていなかったのだ。


「夜、バーのようなところで、数人が過ごしている、すると誰かがやって来る」


みんなはこの筋書きを面白がって、まさしく行方不明であるこの僕をその待たれる人の位置に置いたわけだが、直前になってこの劇の劇でなさに不安を覚え始めたというわけで……委員会の男がやってきて、そろそろ舞台の準備をと言ったところで、セットのひとつも用意されてはいないのだ。先生は、もしもどうにもならなかったときのために、合唱の練習もしていた、と言った。


「それじゃあそれでいいんじゃないですか? とにかくおれは朝起きたばっかりだし、ああここに来たのもおれの意志ではないし、誰がこれを企んだんですか?」


そのとき蓮見は、言うぞ、と口にするようにゆっくり口を動かした。


「ああ驚いた、お前がまだそれを言ってないなんてね、その情に絆されておれがなにをすると? それともおれはこの場合、あんたに脅されればいいのかなあ?」


とにかく、委員会の奴らがぞろぞろ出てきて、急き立てると、僕はもうなにがなんだか…


「ああ、それじゃあもう、みんなは劇をやるしかないんだね、よし、それじゃあ恥を、おれが出るからには最小限なものにしないと、いいや、恥なんていい、思いっきりかけるくらいのものを、綾瀬、ありがとう、恥をかけ、こんな悪夢が冷めちゃうほどのを、ねぇ綾瀬? ええっと、筋は、そうだったそうだった、よしそれじゃあ、セットは前のを使うのでいいんだね、用意していないんなら、それしかないよ、ちょっと覗かせてもらうよ、ふむふむ、ちょうど、バーのような場所、カウンターがひとつ、適当な酒棚、テーブルと席が幾つか、ピアノが一台、時間は、二十分ですね? それくらいならなんとかそれなりのものにも、よぉし、先ず、美見がピアノを、弾けたよね? 弾いてね、暗くても大丈夫なら、暗くして、五分ほど、経てば、照明をすべて明るく、そこにはすでに所定の位置に付いている君たちがいて、えぇっと、まず蓮見、お前は端の方でスマホゲームでもしてるといい、本当にしてていいんだよ? 行儀悪そうに座ってね、なんとなく周囲を馬鹿にしたような感じで、ああ、おれはお前のことなんて、ばかにしてやいないよ! そして、いいかな、たまぁにお前と美見とで、目を見合わせるんだよ、何か示し合わせるようにね、声はできるだけ発さないこと、二人は実は仲良しなんだよ! それからカウンターの内側はひよりが、お願いね、そこでひよりはぼーっと突っ立ってるだけでいいから、いかにも仮に店を与えられた一人娘と言った風に、飲み物はもうすでに提供されている、二十分で飲み干すバカはいないさ、ああ、あの置いてあるやつをそのまま使って、それからカウンターの一番奥には、大吾が行ける? 大吾が、そしてひよりと、ひそひそと話していればいい、話す振りだけでも、二人も仲良しだ、カウンターには他にも二人くらい、大吾から二つほど席を開けて、二人は隣り合って座っていてね、誰がやるの? さあそして、ホールの中心の席には久保と綾瀬、二人は話すんだよ、ちゃんと客に聞こえるような声で、なにを言えばいいかって? 二人とも自分で考えられるでしょ? なんせ二人は驚くべき読書家なんだ、それ以上に、作家先生だ! 自由に話すといいさ、書けばいい、でも出来るだけ、話すのは具体的でないほうがいいかな、よぉし、いい? 内容を与えちゃっても、合わせるね? 二人はこの夜を過ごすことを、まさにこの夜があり、それを過ごすということについて、話していればいい、徒然なるままにさ、よし、みんなはみんな、よそよそしく、十分間、お互いがお互いに、好きなことを話していればいい、丁度教室でそうやってるようにね、できる? よし、最後の最後に、おれが来るのを待っててね、美見は実際にピアノを、初めは発表会のつもりで、照明がついてからは控えめに、弾いていてね、これで大丈夫かなあ? みんな待っててね、実際に、今日おれを待っていたように、だけどおれなんかどうせこないさとでも思っていればいいんだ! 実際に、今日おれはやって来たんだからね、こんな風に、おれは突然にも現れるさ、よし、例え来なくともおれは来るのだ、待ってるといいや、それまで、久保、綾瀬? 大丈夫? 主役の君ら、まあみんなが助けてくれるよ、適当に話していてね、あんたらが傑作を書くのでも、おれは構わないんだよ? 書け、あんたらの作品さ! とにかく、でも、十分間だけだよ、すると最後の五分には、おれがやってくる、適当なストーリーを持ってきてやるから、期待してるといいよ、ああ、そのおれが、客席の側から登場するなんて演出はどうだろう、とにかく地味な劇だからちょっとでも客を驚かせてやらないとね、え? おれは逃げやしないよ、まあ信じて待ってなね、それよりもおれはみんなのリアリティの方が心配なんだよ、でも、まあいいや、それじゃあ始めよう、おれは客席にいるよ、みんなは配置について、舞台を暗くしてね、幕が開く、美見は、好きなときにピアノを始めたらいいよ、それが合図だ! 誰か、あと二、三人くらい、ホールの他の席を埋めといてくれ!……よし劇に、人生に賑やかしを!」


 *


 僕は舞台裏を出ると、ホールの後ろの方へ、ふらふらと歩いて行き、空いているところに腰掛けた。僕は本当に、時間が来たら登壇してやるつもりだったのだ、僕は、その時がくるのを待った、客のみんなと一緒に、どんな風に舞台は分裂してしまうだろうか、目的も定まらぬまま海に乗り出した船が、どんな風に彷徨うか? その時が来たら、僕は舞台に上がって、詩のひとつやふたつでも、読んでやるつもりだった、どんなものになるのかはわからなかったし考えてもいなかったけど、幕は上がり、よし舞台は確かに暗くて、目を凝らさなければなにも見えない、美見は、ゆっくりと鍵盤に、指を下ろそうとする。演奏が始まったそのとき、僕の携帯が鳴り出した。恵美からの電話だった、もしもし恵美? どうしたの? え? 今学校に着いただって? どうしようとにかくおれは今、そこじゃなくてそのすぐ近くの文化ホールにいるんだよ、道理で学校が静かすぎると思った? 今日は学園祭なんだよ、おれは今結構な劇に閉じ込められてしまっているから、できれば恵美、うん、すぐに行くよ、助けてよ、すぐに向かうよ、そして僕は、後ろの大掛かりなドアを体で押し上げて、エントランスへ、そこには誰もいなかった。ここでも美見のピアノの演奏は十分に聞くことができた。ふふ、やってるやってる、一応はまだ続いているようだな。劇はどんなになるだろう、まさかこのまま誰も来ないなんてことはあるまい、ああどうなるだろう、もしものときは、当初の予定通りに、合唱隊でも歌いだすかな? そのためのピアノだ、久保も綾瀬も、上手にやるさ、おれもやって来るはずだよ……ああおれが、一番恥をかくのでも、それはそれはよかっただろうけど、今頃みんなはなにしてるだろう、まだ僕を待っているのかな? みんなに見えただろうか、僕がドアを開けて出て行く、その瞬間が、外に出ると、あたりは真っ白だった。恵美の車はやってくると、入り口で止まった、かき分けられた雪が積もっていて、出し入れが十分にできないようだったので、僕は入り口まで歩いて行くと、助手席に乗り込んだ。車は出発する。


 *


 流れてく外の景色を見つめていると、ふと車の角や自転車のフレームや電線、柵なんかが光の衣に包まれるように、光りを走らせ、そのとき僕は、なにか忘れてしまっていたことを思い出せたような、やさしい気持ちになることができた。光からふつふつと湧き上がるように生まれるこの記憶のように、意識の中にだけ微かに届く光はときおり結晶化することで、まるでそれ自体が僕の神経線維であるように無意識にパッと沸き立ち、確かななにかをつかまえたと僕に思わせる。流れゆくもの、そして質的に貴重なあるものは、あるならこのようにあるのだろう。それらは神の高みではなく、ただ詩的な横流れの最中にあるのだろう。


「恵美、あんたはだから運転が性に合ってるんだろうねぇ」


「運転? 私が? そうかな」


「この車はどうしたの?」


「友達が届けてくれたの。今度一緒に個展をやる友達」


「家にいるの?」


「すぐに帰ったよ、お茶して、電車で」


「ふーん、その人とも会いたかったなあ」


「会えるよ、また、個展に来なよ、入場だけならただだよ」


「そりゃ行きたいけどさあ、恥ずかしいよ、おれの絵も置くつもりでしょ?」


「当たり前でしょ? 何点あると思ってるの?」


「そうだけどさあ、じゃあ、まあ、行くよ、行きたいですよ」


「理玖が」


「うん、理玖が?」


「留置所を出るのに、保釈金が百万だって」


「百万? そんなにあいつにかかるんだ、つい先日まで一緒にいたのにね」


「ほんとに」


「恵美は? 出せる?」


「理玖がさ、道夫にお願いしたって、ここを出ればすぐにあんたのところで働くので、とりあえず百万貸してくれないかって、信用できないとは言わさない、もしも信用できないなら、それはおれではなくおれの能力に対してだろ? でもあんたは、今後おれを奴隷にしたって構わないんだよ、だから監督責任はあんたのものさ、あんたは自分のことさえ信じられないというのか?」


「それで? どうなりそうなの?」


「道夫は出せるって、今朝家に来て、その話をしてふらぁっと出ていった」


「そりゃあよかった、それにしても道夫も、大変だろうねぇ、おれも、同じことを考えてたんだよ、もしも金が必要なときは、道夫だってね、さっきクラスの出し物の劇を観ていながら、ああおれは、もしもあのまま登壇することになっていたら、きっとこうしただろう、金のないことに途方のくれた僕は懐にナイフを忍ばせてカフェに現れる、顔馴染みであるバーテンダーの、道夫、その子はひよりって名前なんだよ、ひよりのところに、カウンターの内側までツカツカと歩み寄ると、ひよりはどこか引き攣ったような調子の笑みを浮かべている、僕はナイフを押し当てて金を出せと無慈悲にも宣告する、ねぇひより、お願いだから金を出して、だせ、金を出せ、いいから早く、しかしひよりは僕の事情などすべて知っていたから、ああひよりはそれを問題にしようなどとは思わなかった、誰も僕のことを糾弾しようとは、ひよりはさりげなく美見に合図を送る、すると美見の弾くピアノの音色が変わる、久保は目を覚ましたようになり、俯いて祈りを捧げているような綾瀬の指先に触れる、綾瀬ははっと気がつき、急いでトイレに立ち、電話をかける、その相手は警察ではなく、恵美、あんたでさ、恵美はやってくると、僕を引き連れて帰ってく、僕たちはそして、旅に出る、あはは、なんのことだかわからない? 本当はおれも順を追って説明してやりたいところなんだけど、恵美、さっきからその手に持っているのはなんなのさ」


「ああ、そうだ葉子、理玖が手紙を書いたって、これも今朝、道夫から受け取ってさ、理玖は、連絡は全部道夫を通すって。私はもう読んだからさ、読みなよ、酔わない?」


「んじゃあ、窓開けてもいい? それと、煙草を吸うのはいい? 足をちょっと投げ出すのも? 行儀が悪くてごめんね」


 *


僕にはただ、そう思える、あんたたちのは、ただ思うだけなんだ、貴族なんだ、そんなのは簡単だ、より大切なことは、思うように生きることだ、線を動として捉えることであり、動として捉えるというよりも言えばそれは、線を動することなんだ、こんなのは簡単な言葉をひねくり返しているだけ? しかし、大切なものなどが初めからこの世に産み落とされているなどと思わないことだ、気づきは得られるのではなく、歩まれるものだ、歩まれた途中途中に芽生えているというか、拾えるというか、そこだけ色が違っているというか、一段一段の奥行きの長い螺旋階段を上昇するようなことですらないのだ、言葉遊びは遊んでいるのではなく遊ばれるのだ、ダンスすると言えば簡単だけど、言葉は僕のための花嫁というだけではないのだ、僕の言うのはただこの、だけという中にある特別のニュアンスを果実のように収穫なさいということでもない、僕は否定の連続の中で彫刻的に現象を浮かび上がらせたいわけでもない、僕はただ、言ってしまえば、言ってしまうことにはいつも勇気がいるさ、なぜなら言葉にはいつも終わりも始まりのないのだから、始めるときの躊躇を忘れたまま言ってしまうときには、それに操作を加えることにもなるのだから、僕はただ言ってしまうなら僕はただ、だ、僕はただ言葉をいじくり回しているのではなく、君は、僕がそれを大切にとっておくあるいは持っていない、その言い訳づくりに励んでいるのだ、と思うかもしれないが、真実がもしも次の瞬間に生まれ落ちたら、君はだから面食らってしまうことだろう、僕はただ、本当にそれを隠すつもりもなければ、それを暴き立てるつもりももちろんなくただ、それに従う、というのとも違う、ただそれを見守るだけでもない、ただそれを育てるなんてことは有り得ない、それを、僕は、それをというのでは言えない、それが僕なのだ、それは僕だ、だから僕は僕するようにそれするのであり、それは自然の性向の赴くこととも違っている、それは、まあなんというか、絶対的にはっきりとした操作は受け付けないものなのだ、だから僕は言う、あるとき、聞き逃してはいけない、僕はただ、そうだ、それはもう言われていたことに気がつく、僕はただ操作を受け付けない純粋言語として漂うのだし、君は決して変化の瞬間を聞き逃してはいけない、その瞬間が君を笑わせるようでなくてはならない、木漏れ日や風や、他の連続的なものの途切れを感覚しないわけにはいかない、君は目を瞑ってはいけない、君は忘れることさえできない。


 *


僕はただこのことを言いたかっただけなのだ、僕はただ言語に変更を加えたかったのでもなく、言語をただ生成の現場に起きたかったというだけのことでもないのだ、そこに立ち会いたい僕がいるのでもない、それじゃあ僕はただ生きたかったというだけのことなのか? 僕はただ飯を食うようにや、煙草を吸うように、ある程度把握も取り替えも可能な時間・空間の中を遊戯的に泳ぎたかったというだけのことなのだろうか? それも悪くはない、僕はただ、泳ぐ、言葉はクジラの口に溜まったプランクトンのように自動回収的なものでありえる。


 *


僕はただ、忘れてた、あんたたちのそれが貴族的なんだということを、あんたの貴族が手慰みであってはいけない、こんなのは簡単な結論だ、いいや、どんな場合にもそれは与えられてはいない、この言葉の断定調がそう読めても、これ以上伸びない枝などありはしない、例えそれが静止であっても、静止しているということもやはり動いているのだ、だから言えたことになどなりはしない、意味は一般的にも連続的で、それが続かないなどということはない。


 *


ああ、疲れた、僕が言いたかったのはつまり、聞けよ葉子、恵美、あのね、おれはもうほんとは最初のときからずっと、おれひとりだけが疲れ果ててしまっていたのだ、ああ僕にとってだけ、これは旅でもなく、ただ、僕のは、ここが、故郷なんだ。僕はもう疲れたので、それでなくとも消灯時間があるので、今日はもう寝るよ、おやすみ、葉子、僕の知り合いに編集者がいるので、今度そいつを紹介してあげる、ろくな奴じゃないけど、貸し借りは今度はなしだ、ねぇおれは、昨夜、葉子の小説を読んだんだよ、夢の中で? なにも覚えてはいないけど、頭の中でだけ演奏できる曲みたく、今もそのイメージが鮮明にある、さっきの言葉も、葉子や恵美の翻訳に過ぎないわけだ、おれのは、おれは、思うんだけどね、おれは結局、こんな風に二人を巻き込んだというとえらそうだけど、なんというか、二人に手伝ってもらって、こんなことになっちゃったけど、ここも案外楽しい場所だよ! 葉子、人生は祭りだとは思わないなりに、人生は酒だ、まやかしだ、これがおれの標語だ! 冗談は置いといて、ここはここで興味深いところなんだよ、おれの友達といえば、覚醒剤と傷害と強盗という奴らに囲まれていて、あいつらの話を聞くのはとても愉快だよ! ふん、ニヒルな気持ちなんかじゃないさ、またおれがここを出たら一緒に話をしようね、おれはこっちで生きていくことにしたけど、あんたもたまにでもここにやってくるといいや、ここには道夫がいる、いぶきにも、近いうちに会えるだろうよ、ねぇ、おれにお前のを読ませてくれよ、ああ、おれは葉子の小説を読んだんだよ、初めお前の話を久保に聞いたときから、お前がどんな風に小説、ああ、書いたという以上に、記したか、このおれの頭の中に、ねぇ! あれがおれの生きる糧だ、あれがあるならおれは生きていけるさ、おれにはあれが太陽なのさ、あんたらがおれの夜を吹き飛ばすものだ、ああ、こんなに喜びを覚えることができるのは、二人に比べておれの特権だろうね、おれは書くよりも、読む方においては、まさに天才的だったわけだ! おれは信じられる、あんたらの祈りこそがこの地球を回させると、それらがただ太陽を燃えさせているのだと、ああ、あんたにもまったく新しい朝が訪れますように、お前のための白紙が! 常にその手に! 握手を! おれはそろそろ寝るよ!


 *


 ねぇ、僕は思うのだ、この生に傑作などはない、この生は冒険などではないのだからそこに解決というのもない、この生は始まったのでも、終わるのでもないし、僕たちには僕たちという住み家さえ与えられてはいないと。


 *


ああ、だから僕はただ続けるだけだ、僕は推敲されないひとつの発話だ、僕は旅だ、出発は、されるのではない、この旅こそが出発に描かれた絵画なのに違いない。僕は生きてさえいないだろう。



僕は旅する、旅されるのだ、生きてさえいない、ありさえしない、僕は声を聞く、ただ僕の声を、その声を、僕は入り口であっても出口であっても、それは僕を通り過ぎる。



僕は僕を通り過ぎてしまいもう僕ということさえできない、そのなかにどんな他のものを詰めようとも、もう僕という場さえ必要ではなくなるだろう、それは声を聞く、それは声を聞くように、それもまた震え、それもまた声になる、それはどんな風とでもきっと出会える、触れあえる、どんな風の中にでも、



いる



のではなくある



のではなくあった



のでさえない



それは



あった



ことなどなかった



それはある



あったということさえも



あったのではない



それはある



それはすべてのときを通り抜けてある

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出発 葉子 @yokofuruno

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