第5話 綾瀬と出会う
綾瀬、綾瀬、綾瀬? その子のことなんて僕はまったく知らなかったんだよ、先生は僕と同じクラスだって言ってたっけ? ふぅん、でも思い出せないや。だって、正直に言うと、僕は二年になってから学校もひどく休みがちになったし、クラスの子の顔と名前なんて半分も一致していないくらいだったんだからね、だけど綾瀬は、ああ、いつも本を読んでいるんだっけ? 久保が前に言ってたかなあ、それなら見たことがあるってような気もして来るんだよ、夢の中の人物の顔を思い出すようにだけど、あの子かな? あの、窓辺の席に座ってさ、カーテンの影みたいにひっそりと、俯きながら、本を読んでいるあの女の子、それも文庫本じゃなくて、分厚い単行本でさ、ちょっと癖のある長い髪を、下ろしている日もあればポニーテールにしてる日もある、眼鏡もかけていたり、かけてなかったり、ボソボソ喋るんだけど、喋るときは怯えながらでも相手の目を見て話すような真面目な子で、顔がちょっとふっくらしてて、目がまん丸な、かわいい子。そうそう、自分の世界に入っちゃってるなんてこと全然なくて、いつも何となく怯えてるというか、何を出されても笑顔でこたえようってその笑顔が表情の内側で準備しているって感じの、それでもその笑顔はあの子の兵隊というわけなのなら、それならそこにはやっぱり、よっぽど栄えた彼女の王国があるというわけ、なのかなあ? その子が今度、クラスの劇の担当をすることになったって? あはは、それは大変だろうなあ、なんせあのクラスから、どんな劇が生まれるとも思えない。いくら自然が最良の芸術家だとしても、人間は自然の破壊者なんだからね。でもそんなことどうでもいいや、作者は綾瀬だ、彼女の苦悩だ!
渡り廊下を渡って建物に入ってすぐの階段を上がると、左手が音楽室、右手側が図書館になっている、その手前にスリッパを貸し出してる棚があるんだけど、そのボロイ棚の隣にひっそりと、ぼろい木の扉があるんだね、図書館の目の前にあると言われなければあるなんて気が付けないようなそこが文芸部の部室で、現に僕は今までこれは、図書館のカウンターの奥の部屋に直接入るための扉なんだと思ってたくらい。さて、読者のあんたは知らないけど、僕はというこの部室の前にようやくたどり着いたので、さてそれじゃあ、どうして入ったものか、とね、なんせ綾瀬とは話したことがなかったし、綾瀬はあんまり人と話すのは得意じゃないだろうし、しばらく立ち尽くしていたんだけど、でも結局、入るのにどうやってもくそもないんだからと、僕はドアをノックしてやった、中からは案の定というか、まあ、返事はなかったのだけど、僕はノックして以来部屋のなかがやけに静かになったのを、なんとなく感じられのだ、だから綾瀬はきっとそこにいるんだね? 誰が何だろうと怯えてるんだろうなあ、僕はドアに口を当てて、慎重に、ゆっくりと、こう呼びかけた。
「ねぇ、開けてよ、入ってもいい? あんたのクラスメートだよ、劇のことで話があってさあ、ねぇ、もう入るね?」
ドアを開けると、そこはほんの狭い畳の部屋でさ、本棚とこたつとがある以外には花瓶やなんや邪魔な調度が隅々を占めているだけといった具合の。女の子は、こたつに足を入れながら、古いパソコンの上に手を添えた体勢で、なんとなく頼りなげな、にへらぁとした表情で僕を見つめてきながら、嵐が過ぎるのをただ待つしかないといった風に動かないというか、耐え忍ぶというか、とにかくそれは最後の一撃を待つような態度なんだよ、それを受け終えて早く今日も家に帰りたいと願ういじめられっ子みたいなさ。初めましてと言ったところで、余計に気まずくなるばかりなんだよ、だから僕はもう立っていてもらちがあかないからさ、
「ねぇ綾瀬さん? おれもこたつに入っていい? 劇のことで話を聞きに来たんだよ、聞くだけ聞いたら帰るから、身構えないでね」
それが小さなこたつなんだよ、足なんか触れちゃえばすぐに逃げ出しちゃうんじゃないかってくらい綾瀬は怖がっていたから、触れさせないだけでも一苦労で、体を器用にくねらせなきゃいけないって程度の、見たところでは綾瀬の方でも僕が入るためのスペースを作ろうと体を避けていたようだけど、なんというか綾瀬のそれは、単純に恐れとかそんなのではなくて、警戒心というのともちがう、ただ慣れてさなってわけでもないんだろうけど、もっと、ただぎこちないだけって感じのものだったのかな。それにしてもそのぎこちなさにせよ、結構すごいものだったんだよ、今日はいつから? とかそんな簡単な質問を僕が投げかけるとするでしょ? すると綾瀬はぎこちなく、ガラポンの外れの球を出すようににこっと笑ってさ、でも外れのくせにそれを出すのに集中してるもんだから、それで肝心の質問の方は聞き逃してるというわけ、え、え、とか言いながら、とにかく困ったときはニコニコしてろって外国人相手に実践してるって感じにさ。それでじゃあもうそんなときには、話すだけじゃ話すのにもならないんだから、手に手をとって一緒に踊る、くらいの方がよっぽどスムーズだっただろうけど、なんせ狭い部屋でさ、なにするにも変な雰囲気を出さずにはってことが難しいくらいだった。だから僕も綾瀬も、いくつかの海に乗り出した舟がすぐに難破してしまったのを見届け、陰鬱な気分の雲の立ち込めてたところだったということもあってね、しばらくその海に石ころを投げ入れるような、とぼとぼと濡れて歩くような怠い感じで、高窓から差し込んだ光を、見るともなく見ていた。そしてそんな風にお互いが目と目を見合うのをやめてからは、僕がぽーんと言葉を部屋に置きさえすれば、綾瀬は時間をかけてそれに答えた。
「あれはどこからの光なのかなあ? 外に面してるの? この部屋」
「さあ。でも、多分」
「部活はひとり? それとも活発なの? 文芸部 あんまり聞かないけど、活動してるとかさ」
「さあ。私も、あんまり来ないから、部は、同人をやってるはず、だよ」
「今日はじゃあ、劇のためにここに来てたんだ」
「そう。一応」
僕はいい加減窓を見つめるのにも飽きてしまってさ、そろそろ綾瀬は僕になれたのだろうかとその顔を見ると、綾瀬はとっさに顔を伏せてしまって、僕がそれでもずっと見ているのがわかるからなのか、伏せたまま、にこにこと、笑うのだった。それから綾瀬はあのね、と決意を固めたような声で言って、
「あのね、私は、葉子君が書くと思ってた」
「それは先生がそう言ってたってことじゃなくて?」
「違うよ」
「でも綾瀬、それじゃあどうして綾瀬にはそんなとこがわかるの?」
「私は、葉子君のを読んだことがあるから」
「ある? へぇそう、久保から?」
「ううん、先生から。劇を、結局私が書くってなったときに、先生が見せてくれたの、葉子君の、小説? のようなものを」
「ああ、それは多分、いつか面談のときにあの人が書かせた夢のスケッチだよ、そう、そんなものを読んだんだ」
「うん」
「それで、なんだっけ?」
「私は、葉子君が書くのが……」
「でもおれは、なにも綾瀬から仕事を奪いに来たんじゃないんだよ、おれには劇は書けないし、書くつもりもないしさ、ね、どんなのを書いてるの? 見せてよ」
「え、えぇー……」
「なにその言い方、あはは、嫌なの? いいの?」
綾瀬が煮え切らない態度を取るので、僕は挑発するようにパソコンに指をかけて、それをこっちに少しずつ開いて行くんだけど、綾瀬は結局はなにもされないとわかっているからなのか、手足を動かそうともしないで、じっと僕の目を、でも信じてるからと言った風に見つめるだけなのだ。
「でも、おれはほんとに見るよ、綾瀬は止めなくてもいいの?」
綾瀬はふるふると首を横に振るんだけど、
「でもそんなんじゃわからないよ、それは止めなくてもいいってことだね?」
綾瀬はすると、首を振るのもやめて、またあの許してほしいって言うようなへらあっとした笑顔に戻ってしまったの。はん、と思わず僕は喉を鳴らして笑ってしまい、それでなんというか、急にやる気がなくなってしまった。
「そんなに嫌なんだったらいいよ」
僕は、畳の上に寝転ぶと、次の遊びを探すようにそこから部屋中を見回した。手を伸ばすと本棚に触れた。
「ねぇ綾瀬、どの本が好き? この本棚は、一見したところ、色んな趣味が混じってるみたいだけどさ、ああおれはこれなんかのことは、とっても好きだよ、ふーん、ここにあるということは、この学校の誰かがこれを読んだってわけ? 文芸部の誰か? もしかしてそれはあなたなんじゃないの?」
すると綾瀬はやっぱりあの頼りない笑みを崩しはしないんだけど、その笑みの中で、なんとなく頷くように、コロっと光を転がすように、その眼の表情を一瞬だけ変えて、それで僕はほんとにそうだったんだということを知ったのだ。
「へぇ、これだけの本を? 全部読んだの? すごいねぇ、ずっと読んでたわけだ、並大抵のことじゃないよ」
「でも、時間だけはあったから」
「ふーん、すごいねぇ、綾瀬なら、もしかして、図書館の本だって全部読んだことがあるんじゃないの?」
「葉子君が興味持ちそうなのは、多分」
「多分? 読んだことがあるって? おれの興味! どういうこと? それも先生に聞いた?」
「ううん。それは久保君が」
「話してたの? なんて?」
「葉子は、真面目だし、おれよりも読んでるって、書くのだってよっぽど上手だって」
「ああ、そう、久保のくせに、意外だなあ、謙遜なんかしちゃってさ、あんたはそれを信じたの」
「私は、わからないけど」
「わからない、わからない、それはさぞ賢いことで……そういえばさ、綾瀬は、書く方はどうなの? そっちも得意ってわけ? あのね、前におれが久保から聞いたのは、確か綾瀬っていう文芸部のすごい小説書く人がいるって話だったと思うんだけど」
「久保君が?」
「そうだよ、久保さんが」
「どうだろう」
「いつから書いてるの」
「それは、一応だけど、三歳?」
「あはは、すごいや、ねぇ見せてよ、ますます気になる」
「ダメ」
と言って綾瀬は、今度こそパソコンを守るように腕でぐるりと囲いを作るんだよ。すぐにさっと自分の方に引き寄せて、テーブルの上からも下ろしてしまう。
「なにがそんなに嫌なの? いいでしょ? 別にそんな作品ひとつでおれはなんのことも判断しないんだから、見せてよ」
「でも、全然書けてないから」
「上手に? それともまだ白紙だってこと?」
「白紙」
「あはは! それじゃあおれたち気が合うのかもねぇ、おれだって、あんなクラスで劇をやれと言われたところで、なんにも思い浮かばなかったに違いない」
「そんなことないよ」
「なにが?」
「みんなが、悪いなんて」
「そう? じゃあなにが悪いっていうの? まさかあんたの筆が?」
「私が、多分、思いつかないから」
「ふーん、そう、あんたが悪いとはねぇ。そんなに言うなら、それじゃあそのクラスのみんなにでも期待して、あんたは考えるなんてことはしないで、ただ書いてみればいいんじゃないの? 始まりなんてなく、ほら、今日も、明日も、あのクラスはやってるわけでしょ? あいつらがもしもなんらかの劇なんだって言うんなら、あんたはそれを置いてやりさえすればいいんだよ、いいや、おれは意地の悪いことを言ってるんじゃなくてね、もちろん適当を言ってるわけではあるんだけどさ、あいつらを、舞台において、待ってみるといいや、それが劇ならなにかが始まるだろう、始まらなくても現在の水準じゃ、十分すぎるくらい演劇なんだ、くだるかくだらないかは別として、ほら、こんな風に、チャイムも鳴るでしょ? 帰宅の合図なんじゃないの? これで終幕だよ」
*
綾瀬はそんな何個も荷物があるわけじゃないのに、鞄に詰めて整理するのがやたら遅いんだね、それで遠慮して先に帰っててというんだけど、ここまで来て一人で先にってのもなんだか変でしょ、だから結局、十分くらい待ったのかな、荷物をまとめると綾瀬は、にへらあ、とまだその顔が出来たんだね、と久しぶりにそれを見せるんだけど、見せながらね、できたよって、それで僕らは学校を出た、綾瀬は靴を履き替えるのだってとっても遅いんだけど、まあいいや、外へ出て、帰るのはこっちだと適当な方を指差したら、綾瀬もそっちだと言うので、僕が本当はこっちだと言うと、綾瀬は着いていこうかなと言った。
「いいよ。自転車の後ろに乗りなよ」
「初めてだ」
「おれは久しぶりだよ」
綾瀬は僕の肩に両手を置くんだけど、やっぱり控えめに、掴むというよりは、ただ触れてるよって、触れなきゃいけないもんだから渋々というよりは、絶対に許されてる範囲だけ触れるとかそんな感じなんだよ。
「大丈夫? 落としたりするのは嫌だよ」
「大丈夫、持ってる」
「ああそう」
僕は自転車を走らせた。正門には先生が立ってるだろうから、駐車場からそのままなだらかな坂道を下って、グラウンドとテニスコートの間の道を抜けて公道に出てやろう、と思った。見渡しても、もう誰もグラウンドには残っていない。
「あんたくらいだねぇ、こんな時間までがんばってたのは」
「私、別にがんばってるわけじゃないよ」
「そう? でもまじめでしょう? そうでなくても誠実だ、それでさえなくても、あんたは根っこの根っこの部分ではもう泣けてくるくらいに素直なんだよ」
綾瀬は返事をしなかった。僕らはしばらく無言で自転車を漕いでいた。風のようにいつまでもただ漕いでいられたら、それがどんなによかっただろう、もしもこの足で、時間のことは忘れて、それをただ旅だと呼べるくらいになにもかも忘れてしまえればそれがどれほど、でもね、僕は思わず笑っちゃうくらいなんだけど、この気持ちのいい風の声を聞くためには、この時ばかりは、僕のポケットの中で鳴る小銭たちの音がうるさくて仕方がなかった。
「ねぇ綾瀬ちゃん? なにか食べたいものはない?」
そう訊いても、綾瀬はいらないと言う。きっと本当に要らなかったのだろうね。
「でも、寒くもない?」
綾瀬はやっぱり寒くないと。僕はでも、どうしてもこの綾瀬に、それが欲しい、と言わせたかったんだよ、綾瀬を驚かせてやりたかった、この子の人に触れさせたくないというか、どうしても触れられない部分を越えて触れてみたかったんだ。
「ねぇ綾瀬、コンビニに寄ろうよ」
綾瀬は、え、と言ってやっぱり控えめにはにかんでから、葉子君が行きたいなら、とどこまでも僕に譲ってしまう。
「じゃあ行こう」
コンビニの駐車場に自転車を止めた。僕はポケットの中をまさぐりながら、いくらあるだろうなあと首をかしげながらね、店に入った。綾瀬は、僕のあとをついてくるばかりでさ、一向に自分で商品を選ぼうとはしないの。これにする? と僕が牛乳をおすすめしてみると、うん、とすぐに頷いてしまうので、こんな寒いのに、お腹壊すよ、と言うと、そうだね、と返事するのだ。それで、ああ変だなあ、と自分自身に困惑するみたいに、変な笑顔を浮かべている。二回目からは少し警戒していて、僕がよくわからないチーズをすすめてみても、どうだろう、と首をゆっくり傾げてみせるだけで、いいとも悪いとも言わないんだよ、僕が、今こんなもの食べたくないでしょ? と教えてやると、間違えずに済んだとでも思うのか、ほっと安心して、そうだね、と笑みをこぼすってわけ。
「お酒でも買ってみる?」
「それはダメだよ」
「そうなの?」
「うん、ダメ」
「じゃあ、温かい飲み物から適当に選んできてよ、二本」
綾瀬は嫌がるそぶりを見せたんだけど、僕がじっと見つめ返せば、これは試練で私はこれを乗り越えなくてはならないんだ、と自分に言い聞かせるように勇気を出して、レジ横のホットドリンクコーナーにとぼとぼと歩いていったんだよ。僕は並んでいる安ワインをコートの内側に隠してから、綾瀬の後ろ姿に追いついた。綾瀬はこちらを見ているのにどこにも焦点の合わない、ぐるぐると混乱したような目で僕に、これにする? と問いかける。綾瀬が自分用に選んだのはココアで、僕のはコーヒーだった。綾瀬が一応は自分で考えられたんだということがわかったからさ、そうしようと言って、会計はやっといて、と小銭を手渡すと、先に店を出た。ふん、僕は別に、綾瀬に授業をしてやろうってつもりなんかじゃないくてさ、なんというか、綾瀬が、もっとそうなれれば、あんたにもそれがいいだろうと思ったまでなんだよ、どうでもいいや。
綾瀬はなかなか出てこなかった。でも、今更不思議に思うわけでもかった。なんせ綾瀬は段などどこにもなくても、そこでつまずけるような子なんだって、僕はもうわかっていたしさ、どうせなにもないレジにもなにかがあったんだろう、小銭を全部落としちゃうとか、一枚一枚数えるんで時間がかかる、とかね。ようやく店を出てくると、当たり前の普通の女の子って風に、当たり前のハプニングに出くわしたんだよって風の、当たり前の顔をして、ごめ~ん、なんてどこか変な調子で言いながら、駆け寄って来るんだよ。綾瀬がはいこれ、とコーヒーを差し出そうとするから、僕が、ちょっと待って、というように手を突き出してさ、ほら、これを見てよ、と懐のワインを見せてやると、綾瀬は、え? とほんとにそのまま声に出して言ったあとで固まってしまった。
「ワインだよ、盗ったの。気づかなかった?」
綾瀬はすると、柄にもなくギュっと表情を引き締めたかと思うと、僕の袖を掴んで、弱い力で、だけどぐいぐいと、店の方へ引っ張って行こうとする。
「返してこよう」
「どうして? わざわざそんなこと」
すると綾瀬は引っ張るのをやめて、手も体もだらんと重力に負けてしまってね、しばらくすると、啜り泣き始めてさ、ごめんなさい、ごめんなさい、と自分に言い聞かせるみたいに言いながら、僕から一歩ずつ遠退いてさ、もう数歩分も遠ざかってから涙だらけの顔をきっと持ち上げると、
「来ないでください」
とそう言い、今度はちゃんと、きっぱりと向こうを向いて、歩いていった。途中振り返ると、両手に持った飲み物の上に、困惑げな、頼りない、僕のよく見知ったあの表情を落として、それから縋りつくように僕を見つめてくるからさ、僕は大声で、
「あげるよ、あんたが買ったんだよ、おれは金をあげたんだよ、二本とも、あんたのものだよ、美味しく飲んでね、あんたは重く考えて、飲めないかもしれないけど、できるだけ暖かいうちにね、さよなら」
僕には、それから先を言うべきか言うべきでないのか、わからなかったんだよ、だってそれはね、僕は、あんたのためにそれをやったんだよ、少なくとも心情的にはそうだったのだ、僕はあんたのためにそれをやったのだ、あんたがいたから盗ってもみせたのだ、こんな酒なんか、本当はいらないよ、僕はただ、どうしてだったっけ? どうして僕はそれを盗んだのだろう? ああそうだ思い出した、僕は理玖って奴と、詩をやることになっていたんだったっけ? ああ、自転車を忘れてきた、でもまあいいや、誰かの手に渡ればいいさ、僕は、帰り道を歩きながら、ワインは、一度だけ口の中を転がして、口腔を洗い清めたあとで、道端に吐き出した。栓もしないで口を下に向け、その首を掴みながら歩いていると、ああ、ダチョウでも残酷に仕留めたみたいに、ドバドバとワインは道路を汚すのだった。僕はそれがよぉくわかるように、その赤の途切れたところにワインボトルを安置してやった。
*
その夜、家に帰ると、リビングで兄が待っていたんだよ。兄は僕の顔を見るなり、にかっと笑い、それも嘘くさく明るいやつではなくて、もっと意地汚い、秘密を共有しようと言ってるみたいな兄弟らしい笑みでさ、そんな表情で、どこ行ってたんだ? と訊ねるので、ああそれのことか、それなら、でも残念ながら、あんたの聞きたいような答えはないよ、あのね、おれは、今日は、学校に行ってたんだよ、それは本当にね。母親が心配してた? それであんたにまで頼ることになったってわけ? あいつのことを訊き出してくれとでも? ああわかってるよ、あんたがおれの味方だってことは、だからあんたくらいにはおれも本当のことを打ち明けたいけど、あいにくおれは、今日は本当に学校に行ってたんだよ、もうすぐ学祭ということで、そのことでね、先生と! あはは、あんたの聞きたがってる話じゃなくて悪かったねぇ、ところで、ああそうだよ、おれはね、あのね、今日は本当に学校だったよ、でも、あの金曜日に、おれは久保という友達の、そのいとこの家に行ってきてさ、今度そいつと詩をやることになったわけ、だからこの家からは、おれもあんたのように少し、ご無沙汰になるかもね、だから、もしも、もしもね、もしものことがあったら、絶対に心配するな、絶対に大丈夫だし、絶対におれは幸福だ、とそう母親に伝えてくれないかなあ? あんたはどうやってあの心配性のママを説得したの? その要領で、おれのこともさ? そっちは順調? 新しい相方は見つかったの? ああ、おれもそうだよ、心配しないでってね、伝えといてよ、それはもちろん、あんたもだけどね。あんたも父さんも、おれを心配しなくていいんだよ、おれは絶対に幸せなのだ、例えそれが文字通りの幸せでなくとも、おれが貧困や、苦悩を選ぼうとも、それは幸福なのだ、おれは絶対的におれがそれを求めるから、それを求めるのだ、だからおれが死んだって幸福なんだ、もちろん死ぬ計画なんてしていないから、その意味じゃ二重にあんたたちは安心してていいんだけどさ、おれは例え死ぬことになったのだとしても自らそれを選んだのだから幸福だ、それにおれは死ぬつもりもないのだから絶対の絶対に幸福なんだ! ああ、それか、死ぬなんてことは、もうないか? 本当を言えば、もうずっと前からおれには生きるも死ぬもわからない、どちらもまるで特別じゃない、ああ、眼をかく指が目ん玉をえぐり出しても、おれは驚きもしないかもしれない、一秒が十年で、一生があくびでしかないのだとしても、おれはなにも感じない、もう生きていることと死んでいることと、まるで区別がつかないんだよ、これは旅だ、風が、おれはどこにもいない、このおれから抜け出すことだ、この物語から、冒険から、ああ、おれは風です、純粋にそれは旅なのだ、帰ってきはしないよ、多分ね、なぜなら例えおれの足がそこで長くとどまるからと言って、その場所の名前はおれなのではなく、おれはもうどこにもいないのだから、点在的ということでもなく、おれは線でもなく、流でもなく、ただおれは、この世にある最小のもの、それとそれ以外がまるで区別のつかない、なにか最小のものに過ぎないのだ、それはこのペンの先だ、それもすぐにすり減るさ、ねぇわかる? 絶対に、ああ、祈りを捧げます、おれがもしもいつかぽっくりといなくなったときは、二人にそう伝えてくれるね? おれのことは心配しないでね、心配なんて、されたくはないんだ、本当はあなたたちがおれを慈しむのも、それはそれは幸せなことなんだろうけど、ああおれは、あのね、あんたたちの貧乏のことも、なにも悲しみはしないよ、あんたの漫才も、成功するといいさ、幸せならそれでいいよ、おれが死のうと、そうなんだ、ああおれは、あなたたちと話すにはあまりにも姿かたちを持たないものなのだ、と、どうでもいいや、わかっても、わからないのでもいいんだよ、ただおれは立ち去るよ、さようなら、二人を心配させないでね、あの人たちにはあの人たちの幸せを、お願いね。すると兄は、少なくとも僕のこの真剣さの部分だけは、わかったというように、深く頷いて、最後に一言だけ、と、なあ、おれは本当にお前を信じてもいいのか? と、僕は、それは、絶対に、と返事をしたのだ、絶対に、大丈夫、おれを信じるので、絶対に間違いはない、裏切りはしないよ、もちろんこれも文字通りではなくとも、例えおれがあんたをひどく裏切ることになっても、ね、実際におれがあんたらを裏切ったのだとしても、これだけは言える、絶対におれはあんたたちを裏切りはしないよ。
*
僕の書いたのは、こんな小説だったのです。どうですか、少しは、見どころのある作品だったでしょうか、僕は詩人になれるでしょうか? あれだけを書くのに、大体一週間や二週間もかかりました。さらに、事態はほとんどが現実からの借用品ということで、想像力という点では僕はまだまだですね。ただし、いくつかきらりと光る、なにかが、見どころが少しはあったと思いませんか? ああ、僕もあなたのように、ひとまず作家ということになりたいのですが、どうすればいいのでしょうか? まずはこんなものを書いてみました、思うように書きました、ただし、ほとんどは記憶の書き起こしなのです、人に聞いた話や、過去に読んだ本のものまねです、僕の見たただそれだけのものなのです、それでも、少しは見どころがあったでしょう? 筋が、どうですか、僕には才能がありそうですか? 作家としてやってくだけの、清く生きて行くための、ただ素直さを、獲得するためだけの。素直に、できるだけ素直に生きよう。しかし、強烈に、例えば、速く。ああ、僕はそれを心掛けました、執筆の際には、とにかく速くということを。どうしてか? 説明しましょう。そうですね、ええ、あんたならわかるでしょうけど、それは、こうです、僕の考えでは、もはや新しいものは、なめらかには生まれない、個性という奴は、確かに個性として素晴らしいけど、誰もまやかしのものを振り払って、その個性にたどり着くことが出来ないでいる、なんせ、それらしいものが多すぎる世の中だから、真の個性を見つける前に、みんな、ある程度複雑な既製品で満足しちゃう。だからもしも、僕たちが本当に素直に、個性的に、言うなれば、生れるというか、あるというか、新しく生き始めるのだとしたら、その生は、やっぱりある弾みが生み出す以外にはありえない、弾み、ようは爆発ですよ。だから僕たちは、はみ出してやらないといけない、僕はなにもあの無意識のことを言ってるのではなく、僕は、つまるところは、まあ、なんのことだって言ってはいないんです、ああ、こんなにも手紙が遅れてしまってごめんなさい、僕は、なんのことだって言うつもりはないんだ、僕はただ、それを言うだけなんだ、弾みですよ、大切なのは、はみ出すことだ、思いもよらない、というのでなければ、新しさも、感動も、同様にありえないでしょう。新しさですよ、それも、まだなかったなんてチャチなものじゃなく、またあったというようなそれが必要だ、似ていることを恐れる必要はない、それが新しければそれでいい、僕の中にもありましたか? 僕にオリジナルの部分が、少しでも個性の芽生えのようなものが、十分にそれは新しいか、新しさの可能性を含んでいたでしょうか、いいや、オリジナルだったか、その生は純粋に生のみを生きていたか? 速く書くことですよ、素直に書くことだ、生きることだ! 僕にはわかりません、いったい自分がなにを書いているのか、自分がなにを書こうとしているのかに関しては、もっとさっぱりだ、自分がなにをしたいのか、なにを言うつもりなのか、なにかということが、なになのかということさえ! 弾みです、僕ははみ出していましたか? 僕の書いたものは新しかったでしょうか、いいや、そんなものはいらない、僕には芽がありますか? 僕は作家になれるでしょうか? あなたのものは、二つとも読んだことがあるんですがね、僕の友人の大変な日本文学好きが、教えてくれたのですけど、ああ、真面目な奴ですよ、僕よりもよっぽど真面目だ、というか、僕の真面目さは、何と言うか、だらけたようにも見えましてね、僕は、なんと言うか、本当は、何をしたいのでもないのですよ、久保のように作家になりたいわけでもないし、傑作を書いてやろうという気もない、僕はただ、ですよ、僕はね、ただ僕は、それを生きるように書けたら、書くことで生きあえたら、美女と鏡との、親愛なる友情ですよ、それ以上だ、知らないけど、直感的には、ね、さて、くだらないことを書くのはこの辺で辞めて、僕は書くのが結構好きなもんだからな、書きだすと、ぺちゃくちゃやってしまうんだけど、流石に今日のところはここまでにしね、要点というか、頼みと言うか、あのぉ、あなたさまを現代随一の人格者と考え、このようなお手紙を差し上げる次第なんですけれどね、一週間も、二週間も、かかってしまってごめんなさい、お金がなかったのですよ、でもそれも解決しそうだから、思いついたわけだ! いいや、そんなことでもなくて、ただ僕は眠っていたのだ、ようやく足が動きそうなので、ああ、だからこんな手紙よりも早く、僕の方が着くことでしょう、着いたらまた、話してやるから、だからこんなもの、読まなくたっていい!
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