第4話 僕は学校へ
なにかに没頭していながらそれについて書くなんてことはできないに決まってる、でももしも、その没頭の仕方がそれを書くという行為だった場合には? つまり息することで空間にエントリーし、キスで恋人と繋がれるというのなら、僕が書くことで、このペンの先でようやく世界に参加することということさえも言えるのだとすれば、僕の書くこともどうにか救われるだろう、書くことは僕の生涯にずっと付き纏う、いやらしい影よりも邪魔なやつで、それを理性と呼んで飼い慣らすことも、感性と呼んで自由に遊ばせておくことも、僕にはできただろうけど、しかし僕は、ついにこれに対してだけは名前をつけようとは思わなかった、僕は、僕の生命の源であるところの、太陽、そしてその偉大な兄弟たちである無数の星や、その親である宇宙のことを、あまりにも圧倒的なものとして感じる一方で、このたった一点であるペンの先、これこそが、その太陽らの遥かな偉大さよりもさらに偉大な、産み終えられた宇宙なんかよりもさらに一歩先に行く、なにか新しいものの爆発を起こし得るのではないか? と思う。そして、もしもそれが本当にまったく新しい爆発なら、それはどんなに小さかったとしても決して消え去りはしない、ばかりか、決してそれこそが無限であると言えないなんてことはありえない。僕は書くことで世界に対して、閉じるのではなくて開かれるだろう、僕は世界に参加する、そのとき、僕の歌うのは、絶対に苦悩の歌などではない、それは喜びというか、快感というか、そういうものが溢れてやまない、やまないが、うるさくもない、水の中の快さというような、無数の水たちの揺れと停止、光の笑いと停止、そんな状態としての、つまりは静止として祝祭というような歌だろう、そのとき僕はもう目を開けていても閉じていても、どちらも変わらないだろう、もう書いても書かなくても、ふたつは同じことだろう。だから僕が書くのも、書いていないのも変わりはしないんだ。
*
わかるかな。僕は一冊の閉じた書物を書くくらいならなにも書かないでいられた方がいいのだ、僕は書くなら開けの中でしか書きたくはないのだ、失われた五千枚、というのはやっぱり不安で、誰もが僕の書いたものを読めばいいと思うけれど、誰もそれを理解しようなんてしてはいけないのだ、いいや僕は案外簡単なことを言ってるいるのではない、僕は理解というものが、ある意味ではまったくの無理解だなんてことを言っているのではないし、世界は多義的だとも、名前をつけることは理性の悪癖だとも、こんなことを言いたいわけではない、僕はただ、いいや、やっぱりこれは簡単なことなんだけどね、僕は、ただ君たちに、こんな風に読まれる限り、すり減ってしまうというだけのことなのだ、根本的な僕がすり減るのではない、ただ僕的なものとしてのモヤ状の集合体が、ふわぁっと離散してしまって再び集まるのに時間と集中力とが必要になるのだ、ふざけてるんじゃないよ、僕が本当に君たちと喋るために、自分をあるリアリティの中に固定するのは、大変なことなのだ、僕は本当は、にへらぁと笑っているだけでいいってのにさ、でもそれじゃ僕は気狂い扱いというわけだ。いい? だからあえて僕は言うのだけれど、僕は、あるものなんかではない、僕があった、なんてときは、これまでになかった。僕はあることで初めてあるものであり、それがどんなものだった、というものではないのだ、君たちの時計の現在形の針との終わらない追いかけっこ、つまりそのように僕は素早く君らから逃げてやる! 言葉尻を抑えようとも、僕はもうそこにはいなのだ、いないというところにもいない、超越という君らの仕掛ける網からも、超越の超越として抜け出せる。存在、と君らが僕を罠にかけるなら、僕はちょっと手間取るだろうけど、やっぱり爆発と言ってそれを破れる。
*
僕はだけどなにもかも嫌いだと言えるような潔癖症ではないのだ、僕はなにもかもが好きだ、僕はなにもかもが、多分好きなので、そのなにがどうしていようと、すべてがよしということなのだ、いいや、よくないものだって当然あるさ、第一僕はあのくだらなさというやつが、基本的には大嫌いなんだ、くだらなさというか、それっぽさというか、とにかく一番嫌な方法で本気ということを馬鹿にしてしまっているもののすべてが、ああそれでも僕はなにもかもが好きなんだと、言えてしまう気さえするのだ、僕のこれは関心のなさなんだろうか? 明日誰が死んだって構わないと思えるのは? 僕は、本当にそれを思えてしまう、そりゃ、人によってはとっても寂しいし悲しいだろうけど、絶対的には、それがどんな風になったっていいんだ。そうだ、そういうことだな、つまり僕にもまだ僕というこの主観があるわけだ、僕はまだ死ぬわけにはいかないし、僕はまだ世界に参加するのに僕というレンズを必要としているのだ、悲しみはどれも主観的なのだ、世界は悲しみなんてしないよ。ああでもだからと言って、このレンズがとうとういらなくなった、なんてときのことを思えば、なんてそれは、怖いことなんだろう、そのときこそがこの僕の死ぬときなのだ、いいや、僕はそれが完全な世界への旅の始まりのときの心得ているとはいえ、やっぱりまだ今の僕には怖いのだ。だけどその時が来さえすれば、死ぬことさえそのときには、ほんの身近なものなんだろうね、死ぬこともそのときにはとってもささやかなものなんだろう、無数の光の揺蕩い、笑いのうちのひとつの、ほんの一瞬の出来事なんだろう。僕には関心や執着がないというか、いいや、僕にも当然それはあるのだ、特に好きな食べ物や、特に好きな場所だってあるのだけど、でも世界の方は関心や執着を持ってはいないのだ、それでも僕はそれらを大切に抱き締めるだろう、ああ、どんなぬいぐるみのことだって、心から愛さない人なんかいるの? 僕には僕が大切さ、だけどいずれは、僕はいつもその音を聞いているのだ、その風の音を、いつ僕を連れ去るつもりなんだろうかと、そうだ、僕は閉じるより世界と溶けいる方を選びつつあるというわけなんだよ、僕には僕が大切だけど、大切ということさえ今でもなんだかぼやけている、いいっていうことがどういうことなのか、思い出せない時がやってくる。だけどもう僕が仏みたいだなどとは言えやしないよ、僕は今でもまだ、本当に多くのものを欲している、例えば、今よりもっと多くの称賛とか。とは言えやっぱりそれをこの世の最上の美味と信じているなんてことではなくてね、僕はもっとなんというか、そうだなあ、それを知らないうちから、くだらないとそれを吐き捨ててしまうことが出来なかったというだけなのだ、僕はおそらくそれを求めるだろう、そのうち、手に入れてやる、そんでどうせすぐにペっと口から吐き出してしまうのさ。
*
ああ、書くことに、戻ることだ、毎晩机の前に、世界の前に! 存在することと、書くことが、僕の中では互いを教え合っている、世界は僕のペンを手取り足取り、踊らせ、ペンの方はというと、まるっきりひとつの、たったひとつの世界を、産み出してしまう。本当にそれが産まれたら、もう変わらないものなんてなにひとつないのではないか? どんなにそれが強固で、どんなにその敵さえも丸め込むための方法をたくさん抱えていようとも、もしもそれがまったく新しいもので、それがたったひとつ付け加えられてしまったのだとしたら、すべてはもう、完全に別のものになってしまわないわけにはいかない。ペンは世界に教えてやれる、やがて、それを変えてしまうだろう、ただし二人の行く末のことは、僕だって知らないんだよ。ああ、書くことに、戻ることだ。僕は地元に帰って来たんだったっけ?
*
だけど僕にはもう未練なんてなかったんだよ、僕はただここに別れを告げさえすればそれでよかった。すぐにでも出発して、理玖のところで詩をやる生活がどんなに素晴らしいものだろう! 僕がそう思わないなんてことはありえないのだ、本当に包み隠さずに言えば、僕には本当は、本さえあればそれでよかったのかもしれないってくらいだからね、もしも本で食事を、睡眠を済ませられるのなら、本が雨風を凌いでくれるのなら、僕には本以外にはなにも必要じゃなかった。いいや、本と言ってはどうしても変な感じだけど、つまり書くこと、僕の生きるのは書くことだった、もちろん友人や恋人がどうでもいいとかそんなことではなくて、ただ、僕がこの世の最もいいもののことを考えたときには、そこにはもう本だらけだ、というだけのこと。だからすぐにでも僕は出発するべきなんだ、そんなことは僕が一番よくわかっていたんだよ、わかっていながらも僕がくずくずしていたのは、いったいどうしてなんだろう? ああ、僕がどうして? と頭の上にハテナマークをつけるからって、僕がいつだって真剣に考えているとは思わないことだよ、僕は、たんに神に質問を丸投げにするようにそう訊ねているって場合がほとんどなんだからね、回答するつもりのある問題なんて僕にはほとんどないんだよ、それらのほとんどは答えるよりむしろ訊ねておくままの方がふわしい、それに正解するつもりの問題ってなると、言うまでもなくますます希少なものに……だからもし僕がそれを問うたとしても、すぐに回答がやってくるなどとは思わないことだ、それは問いとしてすでに固定されて、世界に受け入れられたものなのだ、それは次の何かを準備するものではないし、次の何かは例えそれが準備されたものなのだとしても。本当にそれが始まった瞬間こそがその始まりのすべてなのだ。
*
家に帰ったのは確か金曜日の夜だったかな、僕はすぐに眠りについた。何度も目を覚ます機会はあっただろうけど、まともに起き上がりもしないでずっと長い時間ベッドの中で眠っていると、ついに目が覚めたときにはもう日曜の夕方だった、階下からご飯だよ、と呼びかける母親の声が聞こえたんだよ。僕はまだ寝ていようと思ったんだけど、そう言われるとお腹が空いてたまらなくなってきちゃってさ、階段を下りて食卓に向かうと、顔を洗ってこいと言われてしまって、仕方なく言われた通りにそうした。それでようやく夕飯の席に着くと、母親は、どうにもあの夜僕になにがあったのか探りを入れたいような感じなんだよ、深刻そうに目を伏せてさ、やたらと元気がないようで。時折食事する手を止めると、僕に、よく眠れた? とか、明日は学校だね、とかそんな風にさ、どうにも深く踏み込みはしないというか、僕の部屋に土足で入って下手に傷付けるのが怖いから、こっちのお花畑に来てくれるのを待つ、誘う、みたいな言い方ばかりしてきてね、でも僕が、言うわけじゃないけどなんとなく態度で、今日はそっちに行かないよと示すと、母さんはもう僕のことは諦めてしまったというか、なんだか死んでしまった息子に対してそうだというように妙にやさしく接するようになってさ、葉子は頑張ってるね、とか、部活の方はどうなの、とか思い出に対してはもう肯定するほかないといった風な感じ、確かにその夜は僕もあんまりぼんやりしていて箸も取りこぼすくらいだったし、食べ物を口に運ぶのさえ右手のほんの気まぐれに任せるというような感じだったんだけど、それにしても、僕がここにいると言うのに母さんのその態度はまるで生前の僕の形見として今の僕にまでやさしいと言った感じでさ、ああ僕はそれが薄情だとかそんなことを思ったんじゃなくて、そのとき母さんはああ僕の上にこんな姿を見たいと思っていたんだ、とわかって、だから僕のしていたことがそんなにまで母さんを裏切ることになっちゃってたんなら、確かにそれで僕がどうするということを縛られるなんてことはなくても、それでも、こんな一夜くらいなら、僕は母さんが望んでいる通りの僕を見せてやりたいとでも思っちゃってね、それはなにも騙そうとか、いいようにやり過ごそう、とかそういうことではなくて、僕はもう本当にただ母さんが生きているうちは、母さんが生きたいと思うように生きていられたらと思うから、あの人を楽しませるために現実の方に加担するというか、世界としてあの人を喜ばせてやりたいって、そんな大袈裟なことでもないんだけど、一人の観客だったはずの僕が、いつの間にかこうして演者の方になっているっていうわけで、それで僕としては今夜は、母さんと普通の子供が交わすような会話をしようと思ったのだ。
*
ああ、おかげでよく眠れたよ、そうだよ疲れが溜まっててさ、やっとテストも終わったでしょ? またすぐに次のテストがあるわけだけどね、あはほ、そうだよ、土日は部活もないんだよ、中学じゃないからね、土日に部活なんて、うちの高校じゃね、誰も本気ではやってないからさ、スポーツ、そうそう、進学校なんだよ、だからね、今時はまあそうなんだろうねぇ、部活より勉強ってね、久保? 久保も同じ部活だよ、そうそう、テニス部でさ、小説? ああそうだよ、久保は小説の子でさ、うん、よく気が合うよ、この前もなんか書いたのを見せてくれたっけなあ、芽は、知らない、あるんじゃない、第一この歳だしさあ、どうにでもなるってわけで、え? ふふっ、ああおれでも一応は、ラリーの真似事くらいならできるよ、そうなの? 母さんもやってたんだ、社会人? ふーん、活気があったんだねぇ、テニススクールって確かに今でもたまぁに見るなあ、古い建物のさ、壁が剥がれ落ちてるような、当時のカッコいい奴の、なんて言うかちょつとくせ毛っぽい感じのイラストの壁、鉢巻きなんかしてるようなさ、あはは、おれ? いやあ、流石に人に教えられるくらいに上手くはないよ、部内でも、経験者がいっぱいいるからなあ、よくて五番くらいなんじゃない? ああ、久保には負けないよ。うん、そうだよ、土日は部活もなくてさ、みんな塾に行かなきゃいけないのかなあ、おれはいいよ、学校の外でまで勉強なんて、ほんとに金の問題なんかじゃなくてさ、心配しなくても、成績は一番でしょ? ああ、二番か、最近蓮見って奴に抜かれたんだっけ、うん、友達だよ、頭のいい奴、別に性格は、そんなに合わないんだけど、よく話はするかなあ、クラスが同じだしね、授業なんかをよく聞いてないのは、おれもあいつも似てるのかな? え? まあねぇ、授業じゃ進むのが遅すぎるから、そうだよみんな、授業なんて聞かずに参考書呼んでた方がいいってわけでね。趣味? そいつに? ああ、なにが好きなんだろうなあ、スマホゲームや、アイドルの話なんかは聞いたことがあるけど、別にいかれてるってわけでもなさそうだったし、う~ん、まだそれほどなにが好きなんてものはないんじゃないかな、勉強熱心な奴だよ、そうだよ、まあ、行ってるよ、剣道部でさ、塾にもね、ああ、上手いらしいよ、剣道の腕前の方もさ、県で何番以内とか言ってたかなあ、うん、すごい奴だよ、動画を見せてもらったんだけどね、剣道ってやろうと思えば人がぶっ飛ぶんだってね、剣が天井に刺さるほどカーンと弾かれてさ、塾? おれが? いいよ、勉強なんて一人で、そうだよ、部屋で、そう、やってるでしょ? この後も、食べ終わったらすぐに二階に上がるよ、わかってるよ、やることはね、しっかりやりますよ、これまでもちゃんとしてきたでしょ? 大丈夫、頭はちょっといい方なんだよ、誇れるようなものではないけど、普通よりはちょっとだけね、おれ、え? 本は、そうだなあ、読んでも少しだけだよ、寝る前にほんの気づけ程度に少し、よく眠れるんだよ、勉強はしてるよ、部屋でね、証拠に今夜はリビングでしてやろうか? いいの? じゃあ上がるけどさ、ああ眠い、今日は寝るかなあ、まあ少し勉強してから、うん無理はしないよ、でも明日は月曜日でしょ? だから予習があるんだよ、そうだようちは進学校でさ、でも今じゃどこの高校でもそんなのは当たり前のことなんじゃないかな、中学の時だって、覚えてないけど、ははは、よく知ってるね、そうだねもうすぐ学園祭らしいねぇ。
*
部屋に戻ると早速ベッドの中に入って、ほんとはいつものように少し本でも読みたいと思ったんだけど、その日はどうしても眠くって、それで部屋の電気も消さないまま、頁に指を噛ました状態で、眠ってしまった。目を覚ますと、そのとき僕は理玖と約束したあの金のことを思い出した、というか、覚えていたというような変な状態で、というのも僕はおそらくその夢でも見ていたのだろう、夢の中で十万円をと考えていたのを忘れないまま目を覚ましたものだから、僕の頭はまだ夢の中をぐるぐる回っていて、とにかく十万円を作らなきゃというのでいっぱいだった。といっても僕は本気でそれを心配していたわけじゃなくてさ、金なら理玖がどうにでもするだろうと思っていたし、金なんてなくても、そのうち僕は理玖のところにまたすぐにでも戻ってやろうと思っていたのだからね、それこそ散歩のどの一歩が理玖の家を目指し始めてもおかしくはなかった、だから僕は金の心配などしてはいなかったのだけど、それはそうと、十万円を集めるという考えは、それ自体かなり魅力的なものだったってわけ。冒険というか、それはなんというか、最小限の、旅のための準備運動や呼吸のようなものなんだと思ったのだ、それにまたあんたのカードを借りてタクシーに乗るってのを、いつまでもやってるようじゃ恥ずかしいしさ、それなら僕はバイトでもするべきだったんだろうけど、ああ僕の頭はとことん稼ぐ方には向いていなかったんだよ、あんたの仕事の苦労話をさんざん恵美から聞かされたところだったしねぇ、それで僕は、寝静まった家の中を携帯の光を頼りに、ひっそりと、軋みがちな階段の安全な部分を指で探りながら下の階まで降りて行くと、父親の寝ている居間の襖をひっそりと開けたのだ。父さんはいびきをかいてた、それも不規則なやつで、いつ息を詰まらせて目を覚ましてもおかしくはないとというようなそれで、でも父親が目を覚ましたとしても、眠りを完全に振り払ってしっかり応答する、ようなことがないことはわかっていたんだよ、とにかく意識のはっきりしていない人で、大体のことを忘れちゃか、誤魔化そうと思えば誤魔化せたんだよ。僕は息を殺して枕元の財布に手を伸ばした、これは母さんが父さんの誕生日に買ってあげた普通の国産の財布でさ、父さんはあんまり物にこだわる人じゃないから、財布も服も全部ボロボロになるまで使う、ジーンズなんかは理想的なくらいに破れているんだけど、残念ながら洗濯機に平気で突っ込むものだから、色も結構薄くなってしまってるから、まあ価値はつかないだろうね。いつも、上にパーカーかフリースを羽織るだけで、首をすくめながら車の中を目指す父の姿を、見かねて母さんが新しいのを買ってあげるか、兄が自分のお下がりをあげることになるってわけ、でもだからと言って節約しいというわけでもなく、ただ父親は服にも財布にも興味がないだけだし、金はすべてパチンコに使ってしまうのだ、それで高級取りでもないどころか、ほとんどアルバイトみたいな仕事をしているわけだから、僕が生まれて以来この家はずっと貧乏だった、お爺ちゃんの代で建てたというこの家もそろそろ軋み始めてきたし、こんな泥棒にも入られるって始末で……あはは、だからってなにが悪いってわけじゃなくてさ、たんにそういうこととして、ね、だって、ああ、僕がこんな風になってしまったのが本当に申し訳ないくらい、この人たちは善良なのだ、例えば汚れた善良であってもそれが善良なのに変わりはない、いいや、善良と言うか、なんというか、ずるいところのない人たちだった。僕がその革の財布を開けると、案の定、中には千円札が三枚と重い小銭がジャラジャラと入っているだけだった。父親の寝息があんまり日々の労働の苦しさを物語ってるようで、そのうえ明日のパチンコの金にさえ、この人が困るようなことがあれば、ああ、この人はもしかして、自殺してしまうんじゃないかな? 一瞬そんな考えが過ったけど、僕はそのあまりのその不吉さと、人を不幸がることの卑しさにどうしようもなく苦しくなって、すぐにそれを振り払った。よし、おれはおれで生きて行く、あんたはあんたで、ね、と僕は、申し訳ないことだけど、小銭袋を手のひらの上にひっくり返すと、静かにそれをポケットに入れて、自室に戻ったのだった。机の上に小銭たちを丁寧に並べてやると、うっとりした気持ちになって、ひとつひとつ、名前を呼ぶように値段を数えているうちに、どうしてもまた眠気が、我慢できないくらいに押し寄せてきちゃってさ、振り払おうともがくけどいつのまにか僕がもがいているのも眠りの中だったというわけだよ。
*
目覚めると、もう夕方だった、僕は学校に行くつもりだったんじゃないんだけど、散歩するにもパジャマからは着替えた方がいいし、それにもし学校に寄るつもりなら、それは当然制服の方がいいし、ということで、いつものように制服に着替えることにした。着替えてしまうと、別にどこへ行ったっていいと思っていたのが、急に学校に行ってやろうかなという気になってきてね、こんな時間だから言ってもそれは本当にただの散歩というだけなんだけど、でもさ、そうだ、僕は、みんなと同じ教室にい続けるってことは耐え難い苦痛なのだとしても、みんなと道端でばったり出会して少し話す、ようなことは結構好きだったんだよ、一瞬だけ混じり合ってまたすぐ通り抜けてく、そんな風と風というような関わり方なら。だから起きるのが遅くなったのもかえって好都合なくらいだった。みんながまだ学校に残っているといいんだけど。下の階に降りると、リビングには書き置きがしてあった。母の字で、体調は大丈夫なの? 学校には連絡しておいたから、夕方には帰るね、と、それは不安に首を傾げるような文字なんだよ、心配そうに僕を見つめてくる昨夜の母の姿同然の文字でさ、母親は普段はパートに行ってる、でももうすぐ帰ってくる時間なんじゃないかなあ、真面目な人で、小さい頃から僕が学校をサボるのも簡単には許してくれない人だったから、僕は何度も仮病を装うはめになっちゃって、そうしているうちに母親は僕のことを本当に病弱な子だと思うようになってしまってさ、僕としては本当はほとんど風邪なんかにはならないし、なったとしても一日寝てればすぐに治るって質だったんだけど、母親は僕が頭が痛いとかいう度に、本気で心配しちゃって、普段は余計なものに使うお金もないからとお菓子もなにもない家なのに、そんな日には仕事の帰りに甘いお菓子のひとつでも僕のためにと買ってきてくれるってわけ。もうすぐに、そんな母親も家に帰ってくる頃なんだよ、今日のお菓子はなんだろうなあ? 手紙の隣には、平皿に朝ごはんが盛りつけられてあった。ソーセージが二本と目玉焼きがひとつ。僕はペンを手に取り、返事を考えながら空いている片手でソーセージを掴むと口に放りこんで、汚れはズボンで拭い取ってね、そのまま冷蔵庫に寄って牛乳をラッパのみし、むせそうになりながらふらふらと歩いて再びテーブルの前に戻ると、悩んだ末、結局、なにを書こうにもあの人の善性を裏切ることになるのだと思えば、ちょっと散歩してくるね、と書き添えるだけということになってしまったんだけどね、リビングにあった兄の黒のロングコートを羽織ると、家を出た。兄は今の僕くらいの歳からもうおしゃれに気を使い出しててさ、バイトもたくさんしながらそのお金をすべて服と外食に使うって贅沢な奴だったから、服なら家中のどこにでも兄のが余っていたってわけ。
*
辺りはもう暗くなっていた。僕はゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。眠りの階段を一段ずつ降りていくような規則的なリズムで、薄暗がりの中を進んでいると、本当に僕は目覚めているのか? 今もまだ夢を見ているのか? ふとした瞬間に、それが本当にわからなくなってしまいそうだった。酔いの中で景色がくるくると回転し、集中することで自分やみんなをどんな景色の中に置くことも可能になるときのように、一歩から次の一歩が全然違う種類の床を踏み込むことにもなって、僕はえいとそのドアを開けてその世界のリアリティを選び取るようにしか、そこに参加することはできないのだ……足の動かし方も呼吸のことも見ると言うことがどういうことなのかさえ、景色はどこまでも定着しない。雪がぱらぱらと降ってきた。でも地面に触れるとすぐに溶けてなくなってしまう。僕はギコギコと自転車を漕ぐ。生と死とを、もう何度も潜り抜けてきたような気がするんだよ。いつの間にか肩にはうっすらと雪が積もっていた。僕は瞬間瞬間をジャンプしているような気分にもなる。意識がとっ散らかっているんだ。ソーセージが消化され始めたのか、腹の奥が鳴いている。こいつは冬とはそぐわないやつだなあ。ああ、ふと見上げると、景色は、グレー一色なんだけどね、これは死と生のどちらに属しているのだろう? いいや、僕はそれがそのどちらでもあることをわかっている、裏と表は一枚のコインなのだということを知っている、僕は心と体の、二つの顔というのではなく、僕というのは心と体なのだ。景色をそのまま掴むこと、景色は景色である、間違いないことだけど、どうでもいいや、さっきからくしゃみが出そうで、鼻から垂れた鼻水のように僕は不安定なのだ、その不安定を見つめていれば、しかし僕はこの綱から落ちはしない、渡り切れる、いつまでも見つめてさえいれば、死なないさ、それをやめさえしなければ……やめないということは、それがまだ生きているってことなんだからね。はっと目覚めるように、立ち止まるとそこは横断歩道だった、僕のために止まってくれていた車がクラクションを短く鳴らした、僕は自転車を押して走った。高校まで、あとは坂道を登るだけだったので、そのまま歩くことにした。急な坂道なんだよ、一年生以外はみんな自転車を押して歩くような、僕も一年生のときは、この横断歩道を止まらずに通過できた日には、立ち漕ぎでどうにか登り切ってやろうとしたこともあったっけ、夏場は汗をかくから嫌でも、冬にはちょっと気持ちのいい運動だった、とはいえ、僕が一度も自転車を降りずにこの坂を登ることは、結局一度もできなかったんだっけ? 野球部の奴らは、ここで自転車を降りることを禁止されていてさあ、みんなへろへろになりながら坂を登るのを見ていると、こっちの方ではかえってやる気がでなくなっちゃうんだよ、坂の途中には古い民家があってね、そこのお婆ちゃんがよく花に水やりをしていた、たまに買い物のために娘と思われる女の人が車で迎えに来てやっててさ、そんなときは野球部の奴らでも自転車を降りて、車がスレスレを走ってくる危険な道路の方に乗り出すのだ、この日はお婆さんは外に出ていないようだった、その家を過ぎると高校の看板があって、そこには部活の成績が張り出されてた、インターハイ出場や、県で二位だとかそんなの、ああそれで僕は蓮見が剣道ですごいってことを知っていたんだ、蓮見の名前はずっとここに乗ってたんだからね、ずっとっていつからだろう、それが張り出された頃からずっと、今ではだいぶ雨風にやられていた、競歩部のインターハイで一位、地学部の全国優勝、そんで蓮見の県大会二位というやつが。やがて坂道は少しずつなだらかになっていく、すると道の向こうにようやく正門が見えてくるんだよ、その側には、なんとかの記念石碑が立っていてさ、僕はそのとき、そこに寄り添うようにささやき交わすひよりと大吾の姿を見つけたんだ。
*
ああ、二人は付き合っていたんだっけ? ひよりと大吾が? いいやそれは僕だったんだよ、僕とひよりは長い間、恋人だったのだ、でもそれも本当は違ってさ、みんなは僕らのことを恋人同士なんだと勘違いしていたんだけど、本当はひよりと僕とは中学の頃からの同級生だったというだけでね……そうだ、僕らは一年の教室で知り合ったんだよ、僕は確かにひよりのことが好きだったっけ、ひよりの、ああ、大吾と話しているひよりの表情は、あの頃、僕に向けられていたものとまるでそっくり同じものでさ、その横顔のどうしても触れられない無限の遠さというか、横顔の、どうしても僕のことを見ていないその遠さが僕にはなんだか、すごく大人びて見えたし、僕の手なんかでは汚れすぎていて決して触れることはできない不可侵の神聖のようなものにも感じられて、もうどうしようなく切なくなる、切なさが触れられないことで僕の体の中から逃れられなくて、ずっとぐるぐると回っているからもう気狂いにでもなってしまいそうなくらいなんだよ、どうして初め僕はひよりのことを好きになったんだったかなあ、全然思い出せないんだけど、でもひよりの隣の席に座っていながら僕は、とにかくそのただかわいいというのでも美しいというだけでも足りない、ひよりの特別な横顔をずっと見つめていたのだ、その横顔では、あんたの人格のもっとも秘められた部分だけがそれを表現することが許されていたというか、その横顔はもうどうしたってあんたではなく、もちろん僕ではなく、そこにはない何か、であるとしか思えない、僕はそこにあるイメージを読み取ることしかできないわけだ、それは水面のようにも透明で僕は僕の最も読みたいイメージをそこに浮かびあがらせることをやめられないのだ、見れば見るほど僕はそいつから見られているというわけさ。ああ、でもひよりはそのこと知っていたんだよ、僕がひよりの顔を密かにずっと見つめていたってことをね、だってあんたの目が、僕を見つめ返したいという思いに揺れていないことなどなかったんだから、あんたは僕に見られていることを知っていながら、僕が僕のことなど見ていないあんたの横顔にただ焦がれていたんだってことまで知っていたので、僕たちの目はそうして近くにありかつひとつの目的を持ちながらも、決して出会うことがなかったのだ、僕らは話す時でさえもお互いの目を直視することはできなかったし、それどころかお互いに本当の姿さえまともに見ていたことことなどなかったんだよ。
*
中学の最初のテストの答案が帰って来たとき、そのときひよりの前の席の、確かコウシとかいう太った男がさ、そいつは特別人気者ってわけではないんだけど、声も態度もでかいから一定の発言力というか乱暴に振る舞っても許されるポジョンのようなものを持っていた奴で、体が太いっていうことがかえってそいつの行動の雑さというか、思い通りな様を、許す、じゃないけどさ、あいつはデブだし、というように放っておいてもらえるというような感じ、そういうのわかるかな? とにかく下品になったもの勝ちというか、どうどうとやればそれがどんな意味でも犯罪でない以上、そいつのやりたい放題ってわけなんだよ、それでそのそいつがさ、ひよりが答案をもらって席に帰ってくるなり、いきなりそれをひよりの手からばっと盗み取って、点数を大きな声で周囲の誰に対してというわけでもなく、言いふらすわけ、確か英語の答案でさ、ひよりのは九十点とかそんなので、全然いい点数なんだけど、自分が賢いってことも含めて恥ずかしいというか、自分だけ仲のいい友達たちとも違うみたいな負い目を感じなきゃいけないような年齢だったから、ひよりはもう自分の点数なんかみんなに言いふらされて、真っ赤な顔になってるわけ、真っ赤に恥ずかしそうに、返して、ってコウシの前に立ち上がってさ、まるでここでやり返さないと一生このコウシに辱められたって事実が残っちゃうというようにね、さも何もなかったということにしたいって風に、じゃあコウシの点数はどうだったの? と訊ねた、するとコウシとしては。そりゃ自分がそうした分、自分の点数を見せないとフェアじゃないからね、え、おれは、とか言いながらも、渋々ひよりに点数を見せてやってさ、それが散々な点数だったことがわかると、ひよりは、ほらあ、コウシなんてバカなくせにって、ひよりはそんなこと口にするタイプじゃなかったんだけど、そのときばかりは興奮が勝って、つい言っちゃったんだろうね。それからひよりは清々したのか、我慢せずにしたいようにできたのが余程開放的で、いい気分になっていたのか、そのままルンルンって感じに僕の方に首を伸ばすと、葉子君はどうだったの? って、今までまともに話したことさえないのに、そんなことを訊いてくるわけ、僕の方ではそれを言うことにほんとになんのつもりもないんだけど、その点数がちょっと高かったり低かったりすると、どうしてもなんらかのつもりが客観的に発生してしまうでしょ、それが嫌でほんとは誰にも点数なんて教えたくなかったんだけど、訊かれれば隠すのも余計に変だし、ということで、ひよりに、こんなんだったよ、とその答案を見せてやると、それはひよりのよりもほんとちょっと高かっただけの点数なんだけど、それをひよりは、すごい! とやけに大袈裟に反応してさ、それがひよりのやり方なんだけど、何をするにも、弾みをつけて、えいっと思い切ってじゃないと自意識というか恥ずかしさを捨てくれないというか、とにかく何でも大袈裟で、がんばって私もそれをやってる、というようなそれなの、ひよりは、ほらぁ! って、コウシの方を見て言うんだよ、その頃のひよりって、髪型は黒のロングで、前髪もしっかり作っていてさ、制服の着こなしも、顔の整い方もいかにもいいとこの子で生徒会でもやってそうな話し方だったわけ、本人としてはもっとはっちゃけるというか、不真面目に開放的にという方に憧れがあって、実際そういう友達とつるんでいたんだけどね、そのときのコウシを責め立てるひよりの姿はやっぱり生徒会っぽいというか、優等生じみてる、そんな子がむきになってデブガキをやっつけるから面白かったんだよ、ひよりはね、やっぱり葉子君はコウシなんかとは違うでしょ? って風に言ってやるわけ、僕はコウシともそれなりに仲がいいというか、特別打ち解けてないけど教室の都合上よく一緒にはいる仲だったから、ちょっと気まずいというか、ごめんねコウシとでも言ったような気持ちでね。
*
いつあの噂が立ったんだったかなあ。初めは確か美見がそれを言い出したんだよ。学校に着くなり、ひよりの一番仲のいい友達だった美見が、僕のところに駆け寄ってきて、
「ねぇ、ひよりは葉子君のことが好きなんだよ、ていうかさ、二人は実は付き合ってるんでしょ? あれってほんとう?」
「なんのこと? 知らないよ」
「うそだ! じゃあ本当なんだ」
美見はにやにや笑って僕を見つめながら、もう前を通った二人組の女子にその話をしているってわけ、たった今その確信がえられたって目の前の僕のことを出汁にするような感じでさ、見てよ、あれがその葉子君ですよ、といった調子で。するとその二人の女子までも、美見のが感染したような表情で僕のことを見てくるものだから、
「おい、美見のはでたらめだよ、本気にした?」
でも僕がこんな風に言うよりも、美見の噂話の方がよっぽど本当らしかった。僕がなにを言おうとも、それはこの場の照れ隠しの嘘で、そう思われれば思われるほど、僕の方ではそんな噂話は勝手にしろということにもなってしまったというわけでさ。
*
ああ、そう言えば、確かに思い当たることがあった。ちょうどその少し前にね、体育の授業が終わるとみんなすぐに教室に戻って行くんだけど、僕はまだ友達たち数人と残ってバスケをやっていたわけ、四人か五人かな、それだけの人数で残って時間ギリギリまで遊んで、そろそろ帰らないと時間がまずいということでみんなで倉庫の方にボールを片付けに歩いていると、どこで待っていたのか、ひよりが後ろから声をかけてきてさ、僕ひとりを呼び出して、ねぇ葉子君、とね、それがいかにもかわいらしい呼び方でさ、僕の周りに出来るだけ人がいなくなるのを待ってからっていうのもそうだけど、ひよりのその言い方自体も、いつもならそんな風には照れてしまって言えないだろうに、そのときばかりは正面から僕の顔を見つめて、楽しくて仕方がないといったように体をちょっとくねくねさせながらね、
「ねぇ葉子君? 教室に戻ったら、筆箱の中を見てね」
「筆箱の中?」
「見てね?」
というとひよりはすぐに走って逃げて行ってしまった。友達みんなは僕になんのことだと聞きたかったはずだし、普通ならさっきのはなんだったんだよって強引にでも秘密事は聞き出すのがみんなだったんだけど、僕の場合に限っては、なんというかその子らもその時は僕とは本当に仲が良かったはずなんだけど、それでも僕にとってだけは、絶対に聞かれたくない領域というか、最後まで踏み込ませない部分があるとかそんなことを、あの歳の子たちなりにしっかり理解していたというか、なんとなく感じていたのか、さっきのはなんでもなかったんだって自分自身に言い聞かすように、次の授業はなんだったっけとかそんな白々しい会話をしてくれるの。お陰で何事もなく教室に帰ると、言われた通り僕はすぐに筆箱の中を覗いてみたんだよ、ひよりのことは好きだったし、そのときはもちろんすごくドキドキしながらね、するとそこには、やっぱりというか、実際には僕の思ってたそれとは違ったんだけど、一応は、ラブレターが入っててさ、でもそれは、まあ結局はそれさえもやっぱりというか、わかってたって感じなんだけどさ、だってひよりは、自分のことならあんな風に大胆にはできないだろうからね、どうせ誰かの使いっ走りだったんだろうってことはわかっていたんだからね、だからやっぱり、というか、まあ、それはひよりが書いた手紙ではなかったというわけだよ。誰からの手紙なのか、名前は記されていなかったんだけど、確かにひよりとは違う筆跡で、話しがあるので昼休みにどこどこへ来てください、とそれだけが記されてあったってわけ。
昼休みになるとひよりはまた僕のところにやってきた。窓越しに、廊下から、窓枠に肘をついてかわいい花のような姿勢でさ、椅子に座ってた僕の側でニコニコと笑うわけ。
「行かないの?」
「どこへ?」
「え? 読んでない?」
「読んだよ、でも誰なの? あれを書いたの、教えてよ」
「私じゃないからね」
「わかってるよ、あんたなら、恥ずかしくて、とてもこんなまねできないでしょうね」
「行けばわかるよ!」
ああそして、僕はその昼休みは友達が遊びに誘うのもそれとなく断って、一人で、誰にも見られないように気をつけながら、待ち合わせの場所に行ったのだった、しかし、どれだけ待っていても誰もやってこなくて、僕としてはその相手が初めからひよりじゃない以上、いくら待っても徒労なわりに、その相手も現れないんじゃ散々な昼休みだ、と思っていたそのとき、チャイムがなって廊下がざわめき出してからようやく、廊下の角から、ふいっとひよりが現れたんだよ、ひよりは、いかにも申し訳ないというように曖昧に微笑みながら、影を踏んで歩くような頼りないだけどちょっと楽しそうな足取りでやってくるとね、あのね、とね、
「手紙、の、続き!」
親しくしようとすると加減がわからなくて交通事故になっちゃう、ようなひよりのいつもの言い方でそう言って手紙を僕に押し付けてくるわけ。ひよりは目の前で僕が読むのを待っている、ずっとニコニコとたった一色の笑顔でね、僕はそんなひよりの目の前でそれを読むのは、とっても気が進まなかったのだけど、それでもひよりの方が、僕の気、以上に、僕が読まない限りはどうにもストーリーを先に進めそうにもないといった感じだったから、仕方なく手紙を開いて読むと、そこには手紙の差出人の名前と、それから告白したくても勇気が出なかったということが書かれてあった。
「ねぇひより? それでおれは、このあとどうすればいいの?」
「返事だけ、欲しいって! 言って! 伝える!」
「本気?」
「うん」
「あのね、ひより」
「なに?」
「おれが、ありがとうとだけ返事をしたら、それからどうなるの?」
「さあぁ。もしそれが、イエスってことなら……」
「ことなら?」
「付き合う、んじゃない?」
「ああそう、じゃあ、手紙は嬉しかったよとでも伝えといて、その続きは、ひよりが考えといてよ、おれの考えてることは、わかるでしょ? 多分、あんたがそうかなあと思ってるそれが正解だよ」
*
噂が広まってしばらく経つと、もう誰も僕とひよりがそんな関係ではないのだと思う人はいなくなっていた。誰も、僕たちが本当はただ見つめ合うどころか目と目をそらし合う仲であり、本当はなにかを間に置いた場合にしか照れずに話すことさえできないなんてこと、知りはしなかった。それだから僕らは、二人であの噂について話し合ったこともないし、相手がそれを放っておく以上それなら私もというように、ただ好きあっていた以上繋がれた手を離す理由などひとつもなかったというだけの関係を、ずるずると続けて行ったのだ。ああそれでも、それだから? 僕らがいつどこで誰と仲良くなろうが、なにを言われる筋合いもなかったわけさ。ひよりは、恋の多い女の子だった。触れられないどころか形さえもない恋よりも、触れられる方を当然好むといった極めて自然な女の子。それにひよりは、それはひよりの完全に悪いところというか、どうしようもないなあってところだったんだけどね、ひよりの自信のなさというか、私だけ同じようにできないみたいな自責の念や、それからくる人に認められたさというかそういうものが、悪いように作用した結果だったんだろうけど、ひよりはね、ある程度以上の好意を自分に向けられれば、そしてその好意の主体が、恋愛の相手として客観的にある程度ありだとさえ思えれば、それからそれから、その相手と十分にスキンシップを取る機会があればあるほど、もうその子のことをどんどん好きになってしまうんだよ、どんなくだらない奴が相手でもね、それでもひよりはいつもやっぱり好きな相手を前にすると最後の最後の勇気が出なくて、押し引きというよりは、引いて、とにかく引いて、相手が最後の一歩を詰めてくるのを待つ、詰める代わりに、相手が少しでも素っ気ない態度というか、なんとなく諦めるような素振りを見せると、すぐに相手への興味を失くしてしまうというか、こことあそことを繋ぐ橋が完全に崩壊してしまったとばかりに唐突にその子とは関係は終わり、完全に疎遠になってしまうのだった。そして、いつのまにかひよりは、またあの噂の中に、僕に見られる横顔にその媚びのすべてをこめるというくすぐったい関係の中に、戻ってくる。そのときひよりが誰に夢中になっているのか、僕にはいつもよくわかっていたんだよ、その子を追いかけるひよりのうっとりとした目を、横からぼんやりと見ていると、僕はひよりが、本当はこんなじれったいものではなくて、はっきりと男の子とデートや手つなぎの一つでもしたい女の子なのだと嫌でもわかってしまうから、ああひよりは、それならひよりの行きたいように飛んで行けばいいさ、そんな風に思えて、僕としてはもうお手上げなわけだけど、だからといってなにが変わるということもなかった。
*
「ねぇひより、今度のバレンタインは誰の鞄のチョコレートを突っ込んだのさ?」
「え、教えない」
「でもおれは知ってるよ、あんた今は〇〇のことが好きでしょ?」
「でも、あげてないよ」
「じゃあおれにくれるって言うの?」
「欲しい?」
「持ってるの?」
「はい、あげる」
「〇〇に渡してやろうか? おれがあんたのことを伝えてきてあげようか? ほら、あのときのようにさ」
「やめて! 私のは、いいから、いいから」
「ああそう? じゃあもらっとくよ、ありがとう」
「美味しいといいんだけど」
「美味しいよ、絶対に」
「どうしてわかるの?」
「え? それは、なんとなく、あんたの目が、やっぱりかわいらしく潤んでいるから」
「どういうことなの~?」
「さあね。今食べようか?」
「帰ってからにして!」
「はぁい、お返しは、またそのときで」
「なんか、恋人っぽい!」
「ぽいね、確かに!」
「じゃあね」
「じゃあね、かわいい人」
ねぇ、あんたはほんとに僕のこを、心の底から好きだったことがあるの? あるんだろうね、あんたは季節みたく過ぎ去ってしまったけれど、僕の方では今でも枯れた木のように、いつまでもあの季節のあの風を待ち侘びているということなのさ。いいや、ふん、ああ、僕はどうしてそんなにひよりの横顔に触れてしまうことが嫌だったんだろう、僕はとにかく、いいや、僕のは、恋なんかではなかったのだ、僕は恋なんて、形なんてもの、やっぱりずっと遠いものだった。
*
ああ、いつの間にか僕たちは高校生になっていた、僕とひよりの間には、もうどんな噂もありはしなかった。相変わらず、美見は僕やひよりを困らせることが嬉しいと言うように、噂話を運ぶ蝶々のように、ひらひらと友達の間を飛び回っていたけど。僕らはもうどんな関係でもなかったのだ。特にひよりと親しくなった男の子だけ、美見にそれを聞かされて僕に本当かと聞いてくるようなことが時折あったとしても、僕はそれをきっぱりと否定するようにしていたのだし、ひよりのことなんて、だから今では僕とまるで関係のないことだったんだよ、なんでもないさ、好きにしなよ、ああひより、でも大吾なんてそんな奴は、やめといた方がいいよ、あんたが誰を好きになろうと僕はなんだっていいんだけどね、だけどあんな奴は、声が大きなだけでさ、うるさくて、おどけてみせるのが誰よりも得意だってだけの奴だし、いつまでも中学生のままみたいに、照れ屋で、ちょっと自意識っぽくて、まだ思春期のニキビの消えていない奴だし、まだ笑うときに左右の口角が平等には持ち上がらないというような歪な奴でさ……そういえば、ひよりが大悟の前に好きになった奴も、ああ悪趣味だなぁって僕は陰ながら思ってたっけ? そいつは僕と同じテニス部の、これもモテることしか考えていないような、勉強も、スポーツも、ちょっと器用でも、女の子を引っかけるための技能に過ぎないというような奴でさ、あああいつか僕に聞いてきたっけな、ねぇ、おれがひよりちゃんを好きになってもいいの? ああ、僕が知るかよ、勝手にしてろ、だ、それじゃあ明日は手を繋いでみるよ、明日はキスまでしてみせるよ、明日は……ああ、そういえばこの前、蓮見が言ってきたっけ? 葉子君が、ひよりちゃんと付き合っているのが羨ましいと。ねぇ蓮見、それは誰から聞いたの? もしかしてあの、お元気な美見ちゃんじゃなぁい? まるっきり嘘さ、そんなこといちいち僕に聞いて来るなよ。すると蓮見は、よかったぁと一息ついてから、僕にこれからひよりを口説くための算段をくどくどと述べ立てるのだ。僕は先ずはあのシャイなひよりさんと仲良くなるためにも元々それなりに話せる美見ちゃんともっと仲良くなって、それからそれから……
*
ひよりと大吾の方からも僕が通るのに気がついたようだった。僕は、そのまま横を通り過ぎてやっても当然よかったわけだ、なんせ僕はこの学校の生徒なわけだし、ここは正門だったんだからね、二人ともなんの文句もありはすまい! とは言え、僕には二人を邪魔する気もないし、ひよりとまた照れ臭い目を交わし合うようなことになれば、それだって面倒くさいや、はん、あんたらのことなんて僕にはどうでもいいんだよ、だから僕はわざと大袈裟にあくびをするふりをしながら、と言ってもそれはさりげないというよりもっと不真面目なものでさ、二人を冷やかすように、僕は見てない見てないよ、とどこまでも二人を放っておくよと宣言するようなそれで、それでそれで、それから先は、二人のことなんてお構いなしに、正門を通り過ぎると、僕は自転車をスイスイと漕いで、体育館の裏を回って反対から学校に入ってやろう、僕は本当に気にしないつもりだったんだよ、それなのに横目のやつがちらっと二人のことを見てしまってさ、そのとき、ひよりは、温かいコーヒーを手のひらに二個、握りしめていた、あれは大悟にあげるんだろうなあ、学校の自販機で買ったものなのかな? あんたがあんなに積極的になれるだなんて、おれは知らなかったよ! あんたもあんたで変わったということかな? そんなに大吾って奴のことが好き? ひより、だったらあんたは今度こそ、その鞄の中にコーヒーを突っ込んでやるんだよ? ちょうどそんな季節ももうすぐだ! 出来るといいねぇ、あはははは、僕は風のように口を開けてさ、実際に口の中は、風でいっぱいだった、ああ、僕の速度は体育館の裏を回って真っ直ぐにグラウンドの側を走り、そこからテニスコートに入るだろう。そのとき、そうだった、蓮見は剣道部でさ、ネットの隙間から、気持ちよさそうに剣道着を頭だけ脱いだ蓮見が、体育館の開け放たれた扉に腰掛けて、グラウンドで長距離走のサボり中の美見と、仲良く話していたんだよ、バカな奴ら、蓮見は僕に気づくかな? 実際、どんな遠くからでも蓮見が僕に気づかなかったことなどないのだ、今回も、やっぱり蓮見は僕に気がつくと、小さな芝犬のような顔をして、薄い口角に堅い皺を、波のように盛り上げながらさ、ニッと笑ったというわけ。それは、やあ兄弟、ということで、その隠語の外に他のみんなを押しやってしまうような意地の悪い笑いでさ、蓮見は最初、僕らの成績が並んで廊下に張り出されたその時に、これまで一度も話したことなんてないくせに、廊下でいきなり僕にぶつかってくると、次の瞬間にはもう固く肩を抱いていてさ、葉子君、一位だ、すごいねぇ、と、そんなことを言った。そのときから、蓮見は僕にだけそんな風に笑ってみせるようになったんだよ。蓮見は確かに頭のいい奴だったけど、あいつのなんというか顔の整い具合とか、成績のよさとか、性格の一見したところの屈託のなさとか、それらを総合すると、誰も僕がそれをそうするのを否定できはしないだろうというような態度の乱暴さ、それは時に人を見下げたようなものでさ、バカにして踏み躙りながらもあんたはその手を取るしかないんだよといったようなひどい権力者のそれのようで、僕はそんな手を、例え僕に対しては平等に差し向けられるのだとしても、こんなものは取るのも億劫というわけなのだ、だから蓮見のことは嫌いでもなんでもなくても、なんとなくどうにかしろよ、と思ってしまうというか、その笑顔を見るだけで一緒に嫌味な奴の気分を味わうなんてことは、いい加減もう懲り懲りだったというわけ、僕が言ってるのは、僕の方があいつより善良とかそんなことではなくて、単純にあいつの気質がそうで、僕のある部分はそれにうんざりしてるんだってことなんだけどね、当然僕なんかはあいつより嫌味な部分をいくらでももってるんだろうけど、それでも僕は蓮見の嫌な笑みを見せつけられる度に、頭にくらっときちゃうってわけで。それに僕は美見の場合には、やっぱり普通よりもその笑顔がどんな風に喜ぶのかということを知っているんだよ、知ってるから余計に、蓮見がもし美見を適当にあしらうつもりなのなら、それはやっぱり悲しいけれど、ああでもやっぱり僕にはこんなのもすべてどうでもいいことだったのかもしれない、みんなはみんなで勝手にしてろ、だ。
*
それは悪い意味でも良い意味でもなくてね、僕にはもうそれらはすべて、全然関係のないことだった、いいや、僕は彼らみんなと関係してさえいるのだけど、それでも僕に出来るのは、彼らがそうしているということを感動することくらいなんじゃないか? と思えて仕方がなかった。神が戦争を起こすなら、それはこのように起こすのだろう、僕にはまるでなにがどうなろうと、どうでもよかったのだ、僕は誰が泥だらけの姿で夢に現れようが、絶対にあんたでなくあんたの泥を見るようなことはしないだろう、それだからあんたの泥は、もう僕の次元で完全に肯定されてもいるのだから、あんたの悲嘆はまるで悲嘆ではない、それはあんたひとりの幻想が背負い込んじまった苦悩の陰であり、それは四次元精神の中には消え去ってしまうものなのだ、僕はあんたがどこでなにをしていようが、僕はあんたの魂を絶対に救える、僕がどんなにあんたにひどい態度であたろうとも、僕はほんとにこれっぽっちもあんたの魂を軽視してはいないのだし、僕とあんたもこんなことでは少しも傷つきはしないのだよ、僕とあんたは、というかこの世界は、だな、完全に完全なのだ。なにか、それさえも、揺るがすものがあるだろうか? どこかにはまだ、本当に世界を悲しませるにたる悲嘆があるというのか? ああ僕は思うのだけど、そんなものありはしない、例え個々人の心に悲しみが宿るのだとしても、そんなものは世界にとってはどうだっていい。ああ、僕は多分、かなりひどいことを言ってるなあ、実際、僕の魂も揺さぶられれば、こんな風に呑気にというわけにもいかないだろうし、僕は泣きながら死ぬのが怖いと震える、震えて、その泣き声が死を誘き寄せてるんだということをわかっていながら、もっと大きな声で泣いてしまうだろう、ああ、だけど今は、まるで僕は共感の次元からは離脱してしまっていたのだ、僕にはすべてそれがそうあるということがいいことなんだと思えて仕方がなかった、だから僕には、もう誰に呼びかけるのでも、こっちがこれを開ききってしまった以上は、もう最後の一歩はあんたに期待しないというわけにはいかない、理玖があの日、僕にそう手紙を差し出したように、この船に乗らないか? と手を差し伸べることしかできない、本当は、みんなと傷つきたいと僕も思わないわけではないんだけどね、ああでもこれは僕の弱さなのだ、弱いことに特権を与えたがる僕の弱さというか、強さが最後まで残しておいた恐怖の正体なんだよ、だからと言って僕が、どんな風にも足を取られることはない、ないだろう、恐らくね、今ではもう、僕がこんなに喋るのも、僕の執着などではないのだ、僕は、単純に、ペンを、足を動かすだけなのだ、僕はそれを見る、それだけに違いない、口ん中に飛び込む風のように、クジラの蓄えたプランクトンのように、景色はみんなオートマッチックだった、ただし自動的なんてこととも本当は違っていて、僕はただ、それを泳ぐのが快いだけなのだ、頭の中を言葉が飛び交うのがさ、海辺に打ち捨てられた空き家のように風に気持ちいい。ああ、面白い作品が生まれていると、あんたにもいいんだけどね、こんな退屈な道の上にも、どんな詩情が落ちてるというのだろう、僕は緩やかな坂道を自転車で走る、野球部のベンチの辺りを通り過ぎると、そこでグラウンドはいったん終わっていて、そこからアスファルトの道、それは学校の駐車場と公道を繋ぐものなんだけど、それを間に挟んだところにはテニスコートがあるんだよ、ああ、それでようやく思い出した、僕は今日は、久保に会うためにわざわざ学校にまでやってきたんだったっけ?
*
僕はその、テニスコートとグラウンドの間のなだらかな起伏の道に、自転車を乗り入れた。そして、頭上にプールが迫り出していて空洞になっているところ、みんなはそこを荷物置きにしていてさ、雨が降っても濡れないし、グラウンドからも見られないからそこで着替えたりなんかもして、使わなくなった器具やボロいベンチが放置されてるんだよ、そのベンチに僕はひとまず腰掛けると、偉そうにテニスコートを眺めてやった。ひとり傍に男の子がいて、水筒から水を飲んでるところだった、見たことがない子で、多分一年生なんじゃないかな、その子がペコリと挨拶してくれるもんだから、僕の方でも一応ペコリとやってから、ねぇ今日は先生は来てないの? とほんの世間話をすると、来てません、とその子は言ってからもう一度深々とお辞儀をすると、走ってテニスコートに降りて行ってしまった。コートは男女合わせて三面しかなくてさ、土の状態も悪くてよくリバウンドを起こすし、そもそもネットだって老朽化でピンとは張れなくなってしまっているようなコートなんだよ、普段はここで練習してて、たまあに隣駅に球場があるからそこを借りて練習したりもするんだけど、まあ僕はあんまりテニスには真面目じゃなかったから、その辺の事情は知らないや、とはいえダブルスのペアを組んでた久保君という奴が、僕にも練習に参加してもらおう必死だった時期があって、それで僕もそこそこ上達したんだけど、相変わらず試合で勝てるくらいの実力じゃなくってね、部活内でも下から数えた方が早いかよくて真ん中くらいだったんだけど、久保に負けるようなことはなかったよ、ダブルスのペアとしてなにを言われるかわからんないから、サボるには負けるわけにはいけなかったんだよ。そんでその久保はというと、ああいたいた、ちょうど真ん中のコートでラリーの最中だったんだよ、いつ僕に気がつくだろう? それにしてもあいつのフォームはブサイクだなあ、体が根本的に固いのか、単純に音痴なのか知らないけど、芯があってどうにも窮屈そうな動き方をしていてさ、左手で書いた絵のように不細工というか、調子外れというか、たまたまボールを相手のコートの左端に上手く打ち返すと、相手はそれを拾うのに一生懸命になって、なんとか返せても、久保の真ん前のへぼなコース、だけど久保の方ではこれを叩き込んでやろうと勇み足で、変にラケットを持つ手に力を入れちゃってさ、それでラケットの向きが少しずれちゃったのか、バチンと叩き込むつもりがパコーンとコートの向こうまで飛んでっちゃうわけ、それでも久保は、悔しそうでも照れ臭そうでもなくまじめ腐った表情でラケットに視線なんか落としたりしててさ、笑わせようって気を誰にも起こさせないの、それが僕にはかえっておかしいくらいなんだけどね、ボールも拾いにいかずに、かっこつけてかいてもない汗を拭いながら、ウィンドブレーカーのジップを少し下してやったりしている。休憩しようとでも思ったのか、こっちを向いたとき、どうやら久保は僕に気がついたようだけど、それでも、ようともおうとも言わずにさ、つかつかとやってくると、僕が迎えに行くのにも顔のひとつもあげないで、やっほーと呼びかけてやっても、無視するくらいのテンションでおうと返事をするだけ、僕になどまるで構わずに脇をすり抜けて自分の水筒に一直線なの、どうして僕が、それでも健気にあんたを追いかけてくるんだって思えるわけ? と僕には思えるんだけど、それじゃ話にならないから仕方なく僕は久保の背中を追いかけて、もう一度あのベンチに腰を下ろした。
「さっきのは惜しかったねぇ、久保君」
「んあ? 見てたのかよ」
「見てたでしょ? どう考えても」
「そうかよ、んで、なに?」
「なに? なにかがないといけないと?」
僕はなにも、久保とこんな風に話すのが楽しいというわけじゃないんだけどさ、久保が相手だとどうしてもからかってやりたいって気になって、久保はからかわれてるなんて夢にも思わないんだろうけどそれも含めて、猫じゃらしやなんやで猫をたぶらかしてるような面白さがあってね、僕はついこんな物言いにもなってしまうというわけ。でも今回のところは、久保に一理あったのだ、僕は、そうだ、今回ばかりは用事があってやってきたんだったっけ?
「ああそうだった、ねぇ久保、理玖からなにか届いてない?」
すると久保はああそうだと言いながら鞄を更に奥まで漁り始めて、なんとか手紙を発掘すると、これ、と言って差し出したのだ。
「あのさ、おれが言い出さなかったらどうしていたつもりなの? この手紙」
「ちゃんと渡しただろ?」
「なんて書いてあった?」
「読んでねぇよ」
「そう?」
「なんでおれが読むんだよ」
「いいから、いいから、許しなね」
手紙は二つ折りにしたあとで簡単なテープで止められていた。僕はテープを丁寧に剥がして、手紙を開いた。
*
あんたはなにが好き?
なんでもこの手の中の金で
すぐに、百万円!
金が金を呼ぶことだろうよ、これからさらに世は良くなるさ
感謝を、神に、お爺ちゃんに、ただも同然の、このコーヒーに
ああ、薄い紙一枚が、どうしてそんな大切か?
あんたの詩を読んで聞かせたら、みんなにもそのことがわかるかもね
待ってるよ
*
手紙にはそんなことが書かれてあったんだよ、と言ったところで差出人であるあんたは当然そのことを知ってるわけだけれど、無数の僕の読者のためにも、僕がそんな言い方をするのも、いいでしょ? 手紙にはこんなことが書かれてあったの、それで僕は思い出したんだけど、というか別に忘れていたわけでもなかったんだけどね、なんというか、そのとき僕はそれでようやくはっきりと、あのときの気分のようなものを取り戻すことができたというか、僕は理玖と小説をやるんだってことを、あのとき感じたように再び感じることができた、と言ってもそれは春に届いた雪のかけらのようなそれで、だからと言って季節が冬に逆戻りするってわけでもないのさ、香りのように立ち現れては消えて行く、あくまでも感じに過ぎないものだったのだ、でも僕はちゃんと考えたよ、例の十万円のこともさ、それよりもまずは、ああなにか、返事を書かなくちゃなあ、だけどこの日には、なにも思いつかなかくてさ、わかったよ、とでも書けばそれでよかったんだけど、それさえ気が進まなくって、どうしてだろう? そうだあ、多分、そのとき僕はまだなにひとつ書きたくはなかったんだよ、もう少し、感じてから、書くならね、感じている途中にそれを書くなんてことは、僕にはとても出来なかったから。僕がそのまま手紙を返すと、久保は他に用事はないかよ? と問いただすようにジロジロと僕のことを見てきた。久保は誰に対してもこうというわけじゃなくて、とりわけ僕に対してだけいつからかこんな風に敵対的な態度を取るようになっていてね、それは多分、僕が久保のことをちょっと見透かしたような態度をとったり、久保の小説をひどく言ったりなんかしたことも、関係していたんだろうけど、それで久保とのコミュニケーションがこんな風に摩擦だらけになってしまったというのは、なんだか面倒だというか、なんだかもったいないというかさ、僕らはだってお互いに小説が好きだということで多少とも意気投合してたわけだからさ、久保が読んでたのは日本文学が中心で、僕とは趣味が合わないようなことは多々あっても、やっぱり僕は久保と話しているのが、一番気楽だったというと変な感じだけど、一番肯定も否定も受け入れやすくて、一番やりたいようにできていたんだからね、聞いてる?
「ねぇ久保、そんなに練習に戻りたいの? じゃあ、行け!」
ふざけたように僕が言っても、久保は相変わらずぼんやりと見つめ返してくるだけなんだよ、いつも僕の前では、口をギュッとして固く閉じてしまう久保だけど、この日はそれにしても、あまりにもおかしい、そう思って久保の眼の中を読むように、じっと覗き込んでみると、ああ、そのとき久保は、僕ではなく僕の向こうに、歩いてくる先生の姿を見ていたのだった。先生、その人はテニス部の顧問で、僕らの学年の学年主任でもあった人でさ、さらに教えていたのは国語科で、というわけで、いやでも僕らと接点が多かった。とはいえ別に、嫌、なんてことは全然なくて、その人の話し方の妙に儀礼っぽいところなんかが、どことなくうさんくさいというのを置いておけば、十分にその奥にその人本来の素直さというか、真面目さ、慎み深さまで感じとることができたので、実際にも、感じの面でも、僕なんかは特によくお世話になった先生だったんだけど。先生は僕らのところまでやってくると、テニスコートを見下ろして、先ずは久保に、しっかりと練習できていますか? と訊くべきことを聞き、久保がはいと答えると、そうですか、とにっこりとうなずいてから、これでようやくという風に、僕の方に振り向くと、これはまた一段とにっこり笑って、葉子君ならこれでもう伝わるでしょう? というようにさ、校舎の方に歩いて行くんだよ。先生は、たまにこんな風に突然僕を呼び出しては、三十分程度、面談ということで二人で話をさせた。大抵は、夢の内容を書かせてその診断の真似事をしたり、瞑想運動の練習やなんかで時間は過ぎて行ったんだけど、そんなことが、大体月に二度か三度程度だったかなあ、それほど打ち解けていたわけではないけど、先生は、でも、久保から聞いて、僕が小説を書いてることを知っていたし、先生は僕が書くものに、というか僕が書くほど大切にしているどんな風景があるのかということに、興味があったのだろうね、それは多分僕が不真面目な生徒だったから、その上そこそこ勉強もできたから、それに先生自身、昔は小説を書いてたとも言ってたっけな、久保から聞いたんだっけ、確か先生の娘さんが小説家だったとかなんとか。一度読ませてもらったのは、小さな女の子と動物が出てくる児童文学みたいな作品で、どんなんだったっけなあ、あんまり詳しくは覚えてないんだけど、なんにせよ、僕の方では先生が歩いていくのを放って置くわけにもいかなくてさ、僕は授業を抜け出すのなんかは全然平気でも、友達や誰かとの約束となると途端に破りにくいと感じる方だったから、白衣を夕日に当てながら向こうに歩いて行く先生に、仕方なく小走りをしてまで追いついたというわけさ。
「今日はどうしていましたか?」
「ああ、えぇ、体調不良で」
「金曜は?」
「それも、同じです、久保が、伝えてくれるって言ってたはずなんだけど」
「そうですか」
先生のは、朗らかというか、礼儀正しいというか、なんとなく言ってるだけっていうような口調でさ、それだから僕としてもなんとなく気のないような返事になっちゃうんだけど、たまににこっと笑われたりすると、ああ先生の心はやっぱりそこにあったんだって気付かされるから、あんまり気を抜いてもいられないというか、とにかくいつどんな壁に追いやられているか知らないって感じ。この時だって、平気な口調で話しながら、先生は昇降口ではなく渡り廊下から校舎に入ると、なんの説明もしないで保健室の隣にある空き部屋の鍵を回すんだよ、部屋にはテーブルと向かい合わせの椅子がひとつずつあるだけで他にもなにもなくてさ、先生が奥に、そして僕が手前に席を取ると、先生は手を組んで、突然ですが、なんて言い出すものだから、いったいなにが始まるんだろう、と思いきや、それからごほんと咳をひとつして、こんな当たり前の教師の生徒って感じの話を持ち出してきた。
「学園祭の準備が始まりましたね」
「今日からですか?」
「そうです、今日の午後から、授業は休んで、準備期間です」
「その割には、部活は活発なんですね」
「残って作業している生徒もいますよ」
「ああ、そうなんですか」
「二年生はなにをするか、聞いていますか?」
「いえ、でも、歌でしたっけ? 一年は。二年は、なんだっけ」
「劇です。二十分ほどの」
「ああ、そうだったそうだった」
「あなたのクラスがどんな劇をするのか、知っていますか?」
「いえ、全然」
「そうです。今は脚本を書いてもらっている段階ですので」
「随分ゆっくりなんですね」
「来週には、配役も決めますよ」
「じゃあ大変ですね、書く人は」
「あなたは、書いてみたくはないですか?」
「僕が? どうだろう、あんまり、劇なんてすぐには書けそうにないですよ」
「ふふふ、そうですか、私は、てっきりクラス分けのときから、あなたが書くのだと。それで聞いてみたんです」
「でも、その言い方じゃ、他に書く人はいるんですね?」
「それが誰なのかまでは、わかりませんか?」
「さあ。もしかして、久保?」
「久保君にも、打診はしてみたのですが」
「断りましたか?」
「はい、劇のことはわからないと」
「じゃあ、誰だろう」
「思い当たりませんか? 教室で、いつも本を読んでいる方です」
「う〜ん、僕にはさっぱり」
「答えを言いましょうか?」
「お願いします」
「綾瀬さんです」
「綾瀬? ああ、久保から、名前を聞いたことがある気がするけど、確か文芸部の」
「そうですそうです、どんな劇になるのか、楽しみでしょう?」
「それは、まあ、楽しみですよ」
「今も、部室でひとり、書いてるはずですよ」
「そうですか」
「見に行ってみますか?」
「いいえ。気が向いたら」
「それでは、それだけです」
「はい。楽しいお話をどうも」
部屋を出ようとする僕に、奥から先生が、部室は図書館の手前にありますよと教えてくれた。それにしても、僕はこの学校に文芸部があることさえ知らなかったんだよ。だからといって特別何かを期待してというわけでもなくね、ただなにをしなくちゃってこともなかった自由の身の僕としては、なんとなく気の向く方にということで、その部活を覗いてみることにしたんだよ。先生がわざわざそれだけのために呼び出したんだって思うと、なんとなく変な感じだったってこともあってね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます