第3話 理玖は挫折した
ねぇ葉子、理玖は今日葉子と会えて本当によかったんだと思うよ、あんなに満足気な理玖は、いつもそうだと言えばそうなんだけどね、いつも道夫たちと遊んでいて楽しげなのはそうなんだけど、でも理玖に、曇りがないというか、その光の翳る瞬間が全く訪れないというのはほんとに珍しいことで、いつも呑んで騒いでから、あの人は、ぐったりして憂鬱そうに、静かにしてくれって具合なのにさ、あんなに理玖が、心の根っこから満足そうだったのは、寂しそうにしてなかったのは、初めてだったんじゃないかな?
理玖はこっちに来てしばらくして、久保君から葉子のことを聞いたんだよ。こんな奴が学校にいるよって、そんな程度のことだったけど、理玖には何が見えるのか、ああ、そんな奴がいるなんて、とまるで有頂天になってしまって、二言目には、そいつはおれと会うべきだよ、出来るだけ早く、そんなことを言ってるの。それに何よりも、おれがそいつに会わないではいられなさそうなんだよ、なあ、久保? と。でも、久保君もちょっと頑固だからそれをなかなかうんとは言わないでしょ? 言ってることが、唐突だし、まるで論理的でもないから、それで理玖は、それじゃあと、自分の小説の乗ってる雑誌を久保君に持たせてさ、これを読ませてくれよ、そんでおれが従妹でここに居るんだということを教えてやってくれよ、と。久保君は、仕方なく言われた通りにそれを持っていった。そしてとうとう今日、葉子はここに来てくれたんだよ。
二人で何を話してたの? やっぱり小説のこと? 理玖は、もしも葉子が小説を書いているのだとしたら、葉子にはおれが絶対に書かせてあげるよ、葉子が書くために必要なもの全部与えてあげる、理玖は、まあ、自分の生活が切羽詰まったりでさ、こんな田舎まで帰らなくちゃ、満足にやりたいことにも打ち込めないことの辛さを、ずっと身をもって味わってきただろうから、それと葉子を重ねて見てしまうのかな、葉子が天才ならそれがつぶれるということは絶対にダメだ、ってね。葉子はなによりも書かなくてはいけない、自由で生きられるようでなければいけない、無意味に許されていないと、想像力の羽を重力から逃がさなければ、何人も、それの邪魔をすることは、それはどれほど些細なものであろうとも、決して許されはしないのだと、それこそ人を殺しそうな勢いで。
理玖はちゃんと話してくれた? でも葉子はまだ若いしさ、高校生だし、ちゃんと聞いて判断できればと思うから話すんだけどね、それは理玖が、まだこっちに移り住んでいなくて、都会で小説家だった頃、大学を卒業したばかりで、今のように無軌道ではなかった頃のことだよ。
*
ああ、腹が減った、最後に飯を食ったのはいつだっただろう、いいや、昨夜食べたばかりだぞ、確か家で、あの子と一緒に、ふん、水鍋をさ。ああ腹が減った、あいつと会食するまで、まだ時間があったっけ? しかし困った、金がないもんだから、ああ腹が減ったなあ、それにしてもおれはみごとに痩せたもんだ、いいや、腹にはかえって肉がついてきたかな、なんせひとりでいるときは食べないわりに、あの子の家だとおれはやけに規則正しい生活をしているから……ああ痩せたのはこの心だ、精神だ、まるで枯れ果てていて少しも集中できやしない、ああ、現実に、定着しない、おれは深く潜り込めなくなってしまった、いつまでも旅行者のように、上滑るばかりなんだ、ああ、考え事さえ、集中の泉を見つけなければ、しかし重いのは、この腹の肉、歩きにくい、重力に縛られて、まるで奴隷じゃないか、おれが食欲に足を取られていると? ああおれの一番大切な奴、おれはそいつのことだけを考えていたいって言うのに、まるで栄養がそこに回ってかない、空腹なんだ、いいや、こんな考えは不純さ、考えはいつだって不純なんだ、それよりも愛だ、食料だ、食料だ! いったいどうすればいいかな……ああそうだ、ここは大学のキャンパスだったっけ? 卒業した今でも、よく覚えてる、変わらない、変わるわけがないじゃないか! たったの数カ月……食い物ならそこら中に、腐ったもので構わないなら、世界はなんて満ち足りてるんだろう!……理玖はそこらを歩けば金でも食い物でも、一日分くらいならいつでも拾えるのだということをよく知っていた。学生会館、部室棟、今日の昼飯はなににしようか?
一階の長く続く廊下を歩いていると、ラグビー部の部室前に積まれたパン入りのトレイを見つけた。ひっそりと近寄って、持てるだけのパンを素早く奪い取ると、すぐに走り出した。袋の擦れる音に反応して、屈強な男らのあっという声が聞こえた。理玖は笑いだすのを我慢することが出来ない。あっはっは、もしもこれからあいつらに追われるようなことがあったら、それも面白い、だいたい、最後にいつおれは人に本気で怒られたっけ? 中庭に出る窓が開いているのに気が付くと、理玖は飛び込んだ。廊下から出てすぐのベンチをあえて選んで腰掛けると、弾んだ息を抑えながら、廊下をラガーマンたちが走り過ぎて行くのを楽しみに待った。しかし、いつまでもそいつらはやって来ないし、足音の一つも聞こえないのだ。
「お前らは見捨てられたよ」
理玖はパンどもに視線を落とすと、パッケージを読んだ。どうにも市販のものではないそうなそれには、タンパク質九グラムという商品紹介と、明日までとやたら近い消費期限が記されてあるだけだった。理玖はさっそくひとつ食べてみた。パサついてるし、アンパンのような見た目のわりに中にはなにも入っていない。ちぇっ、と舌打ちすると、理玖はパンを咀嚼しながら、新しくちぎって、中庭の花壇に投げ込んでいく。食べるのと投げるのとを交互にやり、腹が満たされると、残りはその場に置いてベンチを離れた。
「かわいそうなやつら、おれもお前らを見捨てるんだよ」
また、ブラブラと歩き出した。今度は本当に目的などなかった。なにか、誰かが、退屈を忘れさせてくれないかな? 理玖は喫煙所に立ち寄った。いつもは奇抜な服装や髪型をした学生が多い喫煙所だけど、この日は年寄りの教授がひとりと、用務員らしいおじさんがひとりいるだけだった。理玖は落胆し、煙草を半分まで吸うと、すぐに部屋を出た。それからまたキャンパス巡りを始めたけど、友達の一人さえ見つけられなかった。ああ、卒業した身のくせに、学校になんて来たのがバカだったかな? 一体おれはなんの用事でここをふらついていたんだったか?……そうだ、今日は編集者と、大学前の喫茶店で打ち合わせがあるのだった、朝の早くに目を覚ましたから、家にいるのもバカバカしいと……第一あそこにはおれの生活がないからな、おれひとりの生活が、自由が、おれのためだけの言葉が! ああ言葉がこのおれのものだと? ふん、こんな風に考えるのもおれが痩せてしまった証拠さ、持てる者は持たざる者に、だ、おれは痩せてるせいでこんなことを考えるわけだ、本当は、あの子の優しい心の中にでも、やさいしパンを分けてやりたい、おれが愛せないのも、おれの空腹のせいなのだ、あげてしまえるパンがないんだ、このおれが貧乏人になるとはな、おれが物を持ちたがるなんて、ああ、だからおれは家からこっそりと抜け出して、こんな大学に潜り込んだのだ、詩のひとつでも落ちていないかと思って……講義を一つ受けてみたんだっけ? 結局、講義の間は寝ていたけど、家じゃあまともなベッドさえないんだからな、二人で一つ、だ、ああおれが人に愛されることを恐れるなんて!……約束の時間はいつだっただろう?
そんなことを考えているうちに、理玖はキャンパスの端にたどり着いてしまった。そこは学生会館の裏であり、理玖には見知らぬところだった。ここはどこだろう? ああおれは、約束の時間に間に合えるかな? しかし理玖は引き返すのは気が進まないからとどんどん先に歩いて行った。すると、森の茂みに隠れた階段を見つけた。なんの気もなしに降りて行くと、そこには絵画部の部室があった。
*
それは一軒家のような部室だった。外には蛇口に繋がれたホースと物置とがあり、それら外観のすべてがペンキまみれだった。ドアを叩いても、誰も出てくる気配はない。仕方なくこちらから開けようと思っても、扉には意外なほど頑丈な鍵がかけられていた。どこからなら、中に入れるだろう? 家をぐるりと一周回ってみたところ、理玖は物置に登ればなんとか届きそうなところに窓がひとつあることに気づいた。理玖はさっそく物置に登る、窓には鍵がかかっていなかったので、理玖は筋力を総動員して見事にその上半身を家の中に突っ込むことに成功する。
そこはロフトになっていて、書き損じられた無数の絵が置き捨てられてあった。理玖はそれを漁ってみた。絵のことはまるでわからなかったけど、本気さという点ではすべてを知っているつもりだったから、その絵の中から、本気のものを探し出そうとして。でもダメだ、これもダメ、これなんかは最低だ、ダメ、ダメ、ダメ! ああ、今更それを知らなかったなんていうつもりはないけど、それにしても大学の美術部が、こんなにもダメダメなんていうことは……その絵の山を見捨てかけたそのとき、理玖はある絵を見つけた。それは一匹のバッタが描かれただけの絵だったのだ。多分、写真を貼り付けた上にスプレーを振りかけたのかな? あははと、笑わずにはいられない、ああ、なんて絵だろう、なんていい絵なんだろう、おれはこんなのが書きたいよ、もしも書くなら、こんなのを、こんな風に、いきなりペンキと画材とがぶつかって、それを天才的な一瞬の手で調理してしまう、ような絵を! 理玖はそれを大切そうに抱えながら、ロフトの梯子を降りていく、一階には、そうだ、恵美がいて、恵美はじっと伺うような、冷たくはないのだけど、瞳孔が開きすぎていて睨みを効かせているような目で階段を降りてくる理玖を見つめていた。足元ばかり気にしていた理玖は、その恵美の視線に気が付かなかった。お気に入りの絵を見つけて喜んでいた理玖は、この後さらなる出会いがあるなんてことは思ってもいなかったので、恵美がじっとこちらを見ているのを認めると、驚いてわっと声が出てしまった。恵美はそれでも少しも動じないので、理玖もすぐに気を取り直して、とっさに、恵美に絵が見えないようにとそれを裏返した。
「あのね、あなた、この絵の作者を知らない?」
「どの絵ですか?」
「またまた、しらばっくれて」
「でも、わからない」
「いかにも僕が選びそうな絵ですよ、いや、絵なのかな、おれは詳しくないから、とにかく素敵な作品ですよ」
「さあ。部長のかな? 人物画?」
「いいえ」
「静物?」
「いいえ」
恵美はそれで、ニッコリと笑ったのだ。品よく首を傾けさせて、
「もしかして、バッタの絵?」
「ああ、当たり! あなたが描いたの?」
「遊びだったのに、あれは」
恵美は照れくさそうに言ったのだ。
「おれには本気です」
「そんなによかったの?」
「一番!」
「嬉しい、ありがとう」
「どうもどうも、もらってもいい?」
「どうぞ」
「じゃあ、これで。用事があるんです」
「はい」
「いつもここに?」
「まあ大体は」
「どうして? 絵が好きなの?」
「さあ。私のはただの遊び、暇つぶし、ここにいると、落ち着くんですかねぇ」
「ああ、遊び、暇つぶし、神々の、だ!」
恵美はわからないと言うように、にっこりと笑い、首をことりと傾ける、それは籠の中の鳥をじっくりと観察する子供のように。
「大学生なの?」
「はい」
「おれもあそこの、通ってた! 卒業しちゃったけど。今はなにを?」
「絵を、一応」
「見せて!」
「嫌だ、恥ずかしい」
「恥ずかしくないよ、きっと、いいものだよ」
「いいえ、ただの、写生ですよ、私の好きな俳優の、ネットで拾ってきた写真の」
「へぇ。どんなんだろう、完成したら見せてくれるの?」
「完成もくそもないけど。まあ見たいなら」
「見せて! また来るよ! そうだ名前は?」
「恵美」
理玖はバッタを抱えて部屋を出る。
*
編集者の待つ喫茶店まで歩いている途中も理玖は恵美のことを考えていた。いいや、むしろ考えてはいなかった。理玖にはそれは、どれだけ時間をかけてもいい問題だと思えたのだ。早急に断定してしまうのはダメだ、ゆっくりと考えるというよりは、生きさせるべきだ。ああおれには恵美のことはまるでわからない、恵美、その名前だけ、恵美、なんていい名前なんだろう、恵美、恵美、言ってると、それがどんどん曖昧に、そして曖昧になればなるほど、なにか重要なものに、おれのこの人生の全体に降りかかってくるもののように思えて仕方がない、ああ、恵美、恵美……
どうしようもないそのような想念をいったん追い出さなければと、理玖は煙草に火をつけると、速足で喫茶店に向かった。大きく回り道をして大学の正門前に出ると、学生らに揉まれながら気持ちよくもなく煙を吐き出し、信号の変わるのを待った。ようやく青になると、横断歩道を走って渡り、そのままの勢いで店への階段を駆け上がる。ドアを開けて店内を見渡すと、奥の方の席で編集者がコーヒーを飲みながら本を読んでいるのを見つけた。理玖は勢いそのままに駆け寄り、こっちは禁煙です、と行ったきり踵を返して、店の手前の席を陣取る。テーブルの端から灰皿を引っ張ってきて、煙草の火を消した。編集者は大きなショルダーバッグを抱えて理玖の正面の席に着くと、なにか、と言いながらメニュー表を広げるが、理玖は見もしないでホットコーヒーと告げて、二本目の煙草に火をつけた。ようやく気分が落ち着くと、ソファの隣に立てかけたバッタの絵の向きを微調整する。編集者が、それはなんだと言いたそうにしているのが面白く、理玖はわざと教えてあげたくないと思う。
「さて、それで、おれにいい話ですか? まさかエッセイの仕事でも取ってきてくれましたか?」
「エッセイ?」
「ああ、ああ、冗談ですよ、ほんの様子見です。でも本当に、お願いしますね、おれにはお金がないんだから、それにお金がなけりゃ、おれはおれの生活さえも買えない、そんなんで、どうやって小説を書けというんですか?」
「生活のことは、心配しています」
「心配? あんたのその、なんというか、乾き切った心で? おれの生活のことを? そんなこと、あんたにはまるで関係ないじゃないですか、それなのにわざわざおれを心配するのですか? 本当ですか、それは」
「そりゃあ、まあ」
「ああ、本当だ、本当だ、これは本物の心配だ、ああ、ちぇっ、その割にはあんたはいい暮らしをしてるみたいだけど? 給料は月収ですか? すると税金は? ふん、健康保険は? ああ、おれは携帯代さえまともに払えない」
「僕のことはいいでしょう」
「へぇ、だけどおれには、あんたのことが気になるんです、というか、あんたのその、なんというか、態度が、確かにあなたたちは僕に少しのお金を貸してくれたけど、それもあなたたちが腐らせてるのに比べりゃ、ほんの微々たるものなんだな、くれたけど、くれたんじゃないや、貸したんですっけね? ああ、あんたたちは、本当はどういうつもりなんです? おれを生き延びさせてやりたいと? おれがいつか、いい小説を書くと? それが人類の糧となると? 人類とまでは言わずとも、あんたらの会社が潤うと? それにしては、ずいぶんあんたらは投資をケチるわけだ、コーヒー、たったの一杯分? ふん、パスタも頼みますよ、おれは、ランチセットは、こりごりだ! ああ、じゃあ、ランチセットを余分にひとつ、コーヒーをもういっぱいもらいたいんです、お願いしますね、ねぇあなた、あなたはなにが目的なんですか? あなたは確か本が好きだとか、本を読んでましたね、おれを待つかたわら、あれは趣味ですか、仕事ですか、人生ですか、あんたのはただの仕事なんですか? それともあんたの人生がそれでも、おれがそうであるようにあんたもやっぱり仕事に勝てないでいるというわけですか? いいですか、今は一旦仕事のことは忘れて、ひとりの友達に対してのように僕と話してくれないと困りますよ? ねぇもしも、もしもですよ、僕が本当にいい小説を書いたら、あなたたちは嬉しいんですか? 本当にいいもの、ああ、それが売れたことがあった? 大衆に認められたことが、同時代に? あなたたちは、自分らの先祖が、ちょうどあんたたちの先祖ですよ、先祖らが数々の天才を葬り去ってきたんだってことを、どうして忘れてそんな風にのうのうと、日本の文学を担うのは我々だ、というような顔ができるわけですか、他の作家たちにしても、どうして彼らは自分が喋るということが他の誰かの発言を聞こえなくしてしまうということを忘れているのか、あんたらはみんな黙ることを覚えるべきなのだ、みんな本当にいいものに耳を澄ませることを覚えるべきだ、その方が、書くよりもよっぽどあんたら本来の人生に近いのだと、どうして思えないんだ、いいですか、書くことができない奴は、読んでればいい、読むのが仕事ですよ、粗雑な書きものをするのは、ダメだ、それは生きることから遠い、君たちは、もっと本当にいいものの声を聞くべきなんですよ、ああ、なんの話だったっけ? おれの小説? あんたらの、仕事、はん、おれに言わせればね、あんたらの仕事なんかは、あんたらは、本当にいいものを知っていたことがないんだ、だからおれはあんたらに自分のを読ませるのが、もう嫌になった、あんたらの誰一人として、それを読めないんだもん、誰にも書かれたことのない言葉を、読める奴がいますか? 読めるのは作者くらいですよ、ああ、そうなんです、だから時間が必要なんだ、本当に新しいものが読まれるためには、ね、理解されるためには、それは、それが新しいという理由で、それが本当にいいという単純な理由でのみ、あんたらの誰にも理解されないんです、ああ、あんたらお抱えのプロたちがなんですか、彼らは確かに喋ること書くことのプロです、ああ、あの分厚い国語辞典を使って自国の言葉を話すプロですね、文学を作るプロだ、ああ、プロがなんだろう、上手な日本語がなんだろう、おれに言わせりゃあんたらのは全部礼儀作法なんです、お辞儀なんです、勝手にしてろ、だ、おれのは、おれの不器用さはもっと、もっと、それが下手でも、ましなはずですよ、ああ、プロが本当にいいものを作るなんて幻想は捨てた方がいい、彼らのクオリティ、あれが本当にくだらない、下手であれ、だ、勢いであれ、バッタであれ、誰が飛ぶとき飛ぶ作法を気にかけるや、飛べ、ですよ、彼岸が見えるなら、あんたらには見えやしない、君たちはアマチュアの天才に勝てはしない、絶対に、君たちから天才は生まれませんよ、生まれるなら、それはもっと、よくわからないところで、よくわからないように、よくわからないことをしてますよ、そいつは、例えば絵画部のアトリエで、一日中趣味のお絵描きに没頭中というか、ただ市井のやかましさから逃れるようにそれをやるんだ、ああ、それが楽しくて仕方がないのか? それが生きることと近すぎて離れられないのか? おれにはわからないけど、そいつはね、ああ、あんたらと話していると、うんざりする、いいですか? あんたらは、もっと、モノマネ以外の芸を覚えてください、もっとわからないものに期待を、あんたらの閉じこもり方は、それはそれは失礼なものなんだ……」
理玖はやってきたパスタをくるくると巻く。退屈そうにフォークを持ち上げると、不機嫌な口を開く。また、儀式的にパスタを巻く……
「それで、なにか? 聞きたいことがあるって?」
「成果はどうでしょうか」
「成果? 成果は? 当然、これから話しますよ。まあ待っててくださいよ、首を長くして、なんだっけ? お国の言葉で、気ままに! えぇっと、ああ、成果? おれの小説のこと? ああ、生活さえあったら、ねぇ、おれの借金の期限はいつでした?」
「最悪でも、入稿は今月末までですよ。ゲラを最短でやったとしても、伸ばせて二日だけです。あなたのは、元々切り詰めているんだし、次の季刊誌に乗るんですから」
「そうそう、そうだった、おれは次の季刊誌に載るんだった、そんでその給料は……」
「もう前払いしています」
「そうだったそうだった」
「原稿はどうでしょうか」
「うーん、まあ、一気呵成に、阿鼻叫喚と、という風にでも」
「まだ手つかずですか?」
「いいや、本当は、ここに、コートの内側に」
「それを、じゃあ」
理玖はおずおずのコートの内側から、抱えていた原稿を取り出す、編集者に渡すと、ソファの中で小さく縮こまり、静かに待つ。
「ああ、ダメだダメだ、そんなんじゃないんです、おれの思ってるのは、そんな風じゃなく、そんな風に、読まれただけで、もうダメなんです、だって、それは書かれるものと読まれるものの態度が、まるで違うもの、いいですか? そんな原稿は置いてください、おれが今から言うことにじっと耳を傾けて、集中して、おれが言うように聞くことに集中を……ええっと、ある日のことです、おれは母校、大学ですよ、昔の大学のキャンパスをぶらついていたと、パンを、どうしたんだっけな、まあ、食べながら、歩いていた、あの通い詰めた喫煙所も、今ではしみったれてた、まあ時間帯の問題でしょう、さぁて、そろそろ、おれは。大学を出ましたよ、するとそこは、よくわからないところだった、見知らぬ森、見知らぬ階段、おれは降りてみました、退屈していたところだったから、なにかないかしらと思っていたところだったので、するところにはある一軒家が立っている、ペンキで汚れたもので、庭には蛇口とホースが置いてある、絵の、なんて言うんでした? カンバス、とその立てるもの? までもね、ああ、そこは絵画部のアトリエだったんです、僕は入ろうとしました、でも鍵がかかってた、仕方ない、僕は周囲を探る、見つけた、高窓がひとつ、半開きになってるんですね、よぉしと、僕はそこにあった、倉庫?コンテナの上にうんうんとよじ登ったのです、そこを出ると、中はロフトになっていた、おれの出たのがロフトの真ん中だったんです、そこには何があったと? そう、絵がたくさん置いてあったんです、書き損じられたものや、完成し、時間が経ったもの、誰も見ることがなくなったもの! さてその中を、僕は必死の思いで探り回りました、くだらない、くだらない、どれも退屈な絵ばかりだった、なんせ素人の書きものだもん、ああ、そんな言い方は先程の自分の意見と不一致を起こすな、と思いましたね、しかしそうじゃないんです、あのね、プロの悪いところはそれが徹頭徹尾模倣だというところだ、そして悪いアマチュアのもっと悪いところは、それが模倣の模倣だと言うところなんです、あんたらは、もう模倣の子供の子供の子供の、何世代目に突入したのから知らないけど、まあいいや、多くの素人はただ素人なのではなく、まだプロではない素人なんです、余計に悪いや! さてそれで、僕の、期待、の感覚もそろそろ薄らぎ、またダメだった、今度も裏切られた、と絵の山に見切りをつけかけたそのとき、僕は、その山の中から一枚の絵を見つけ出した! ああ、それが、ああ、さっきからあなたが気になってやまないこのバッタの絵ですよ、おれは作者のことまで知っていますよ、話しましょうか? ふん、その前に、この絵を見てなんと思うや? だ。ああ疲れた、こんなことがあったんです、これが、このバッタの、躍動感というかな、やってみた、の感じ、体当たりと、その結果、しかし、やってみたに対してのやってみた、これは最悪ですよ、現代美術だ、おれたちは、本気でやって見なければならない、当たったあとのことをおれたちが考えないのは、手抜きではなく、考えられないからでなくてはならない、見切りをつけ、飛び、死ぬかも知れない、あらゆることを受け入れなくてはならない、どうです? これも小説ですよ……」
「じゃあその話を、今度は紙に?」
「ああ、そうですよ、誰かが書き起こせばいい、おれはもう興味がない、あなた、録音していなかった? 面白い話でしょ? きっと、書く人が書けば、勢いのある、それをおれに、書き直せと? 小説にしろと? ああ、だからだめなんだ、あんたたち……」
「どういうことなんですか? 話をいったんまとめましょう」
「まとめる! まとめる! 決裂だ!」
「いったい、それでいいつもりですか?」
「いいですよ、少なくとも今日のところは」
「こっちがだめなんです、あなたにお金が払えますか」
「払えない! あのね、おれは残って小説をするから、ちょっと先に、帰ってよ、コーヒー代はあなた様の奢りだったっけ? じゃあ、お代は、ここに、このテーブルの真ん中にでも置いて。お釣りは郵送します、必ず」
「いいですよ」
編集の男は、黒い笑みを浮かべると、財布から一万円札を抜き出して、テーブルの上に置いた。男が帰ってしまうと、理玖は煙草に火をつけて、一服し、それからお金に少しふれてみて、なにか途方もなさのようなものを感じとって震えた。
*
ああ、今日も帰らなくてはならない、おれのものではない家に、おれのものではない生活に、ああいい気分だ、神聖な沈黙とも呼ぶべきものどもが、おれの周囲を取り巻いている、このまましばらくなにも話したくはない、何も話してしまいたくはない、ああ、この沈黙は、どこまで行けるだろう、それは高度の問題ではなく、純粋に強度の問題だ、この沈黙は、どこまでおれを沈黙させてくれるだろう、すべてが満ち足りている、すべての意味的なものどもが黙り、無意味が意味的な何かに変わって戯れている、気分がいい、久しぶりだな、忘れる前にメモしておこうか? いいや、めんどくさいや。ふう、煙草を、ああ、どうしてこれがいいんだろう、言わば約束された十分間、おれはちゅーちゅーとしてればそれで済むんだからな、こんなにいいものもないさ、呼吸という最も親しくも忘れられやすい行為の再確認、そしてちょっとした手仕事というのは、やっぱり喜びなんだ、ああ、気分がいい、おれは、なぜだろう、考えても考えても、おれの考えはあの人のところに戻っていく、あの人が、すべてを可能にしてくれているようだ、ああ、不愉快だったなあ、さっきのお話は、それにしても、なんて気分がいいんだろう、あの人がいるなら、すべてよしだ、あの人があそこで絵を書いてるなら、ああ、おれには本当にそう思えてしかたがないんだ、本当に、もしも本当のことが、その世のどんな端っこででも、行われているのだ、そう確信できたなら、おれにはすべてがよしだ、ああ、ほんのひとひらでも、可能性があるのかしら、可能性が、本当にあるなら、ああ、それでも、もう家だ、ああ、おれのじゃない家、おれのじゃない生活、またおれは、ぺらぺらやるんだろう、かわい子ちゃんのために、あの子がかわいいがために、ああ、おれの沈黙が、逃げてく、見放されたって気分だ、家だ! よし、ドアを叩く、インターフォンじゃ、あの子が怯えてしまうからな、ドアに口を近づけて、帰ったよ、んでコンコンと、おれが狼だとしたら、どうするつもりだ? あの豚め、帰ったよ! 開けて、そしてかわい子ちゃんは鍵を開けてくれるのだ、おれが部屋に入ったころには、素早く戻ってもうベッドの船に浮かんでる、ああ、疲れたよ、おれは疲れたよ、今日は編集の奴と話してさ、そういやおれはおれの小説が、なんて言われたんだったか忘れちゃったよ、なんにも言われなかったんだったかな? そうだ、確か、おれが居た堪れなくなって続きを遮っちゃって、メール、後で見よっと、それよりもご飯食べる? 小説、ほんとは書きたいけど、わかってるよ、書かないよ、そうだよ、おれはここにいられるだけで幸せなんだよ、小説、ああ、それじゃあまた今度も、ああ、だめになっちゃうかなあ、月末……まあいいや、次の出版社へ、これで幾つ目だったかなあ、いい加減、飽きたよ、まあいいや、ご飯、食べよう! 外行く? 家にはなにもなかったと思うけど、買い物、明日行くよ、仕事の前に、明日おれが買ってくるよ、今日は外で食べない? 金? 金ならおれが、ほら、編集の奴が出してくれたの、たくさんあるよ、食べに行こうよ! 待つ? いいけど、どれくらいかかりそうなの? その、あんたの、体力が戻るまで、そう、だったら、おれは煙草を吸ってるよ? それでいい? うん、手は洗うよ、匂いも、まだ慣れない? すぐに戻るよ、じゃあね……メールだ、メール、仕事のメールを見ておこう、明日の警備の仕事じゃなくって、小説の、ね、仕事だ仕事だ、ああ、あれ? これは……そうだ! てっきり忘れてた! そうだ、そんなうまい話もあったっけ! うますぎて、まるですっかり忘れてしまってたよ、どうなったんだろう、確かそうだ、じいちゃんが施設に入るってことだ、ああ、久保? もしもし久保? なにさ、決まったの? まだ空いてるの? そんなこと言ったって、おれにもこっちの生活があるんだけどさ、ほんとにおれが、入りたいなら入れるの? その場合、金は? かからないって? じいちゃんが全部? ああ、なんてことだろう、うん、前向きに、ああそう、うん、ええ、ええ、それよりもやっぱり、今から向かうのでもいいの? いい? 行ってもいいの? 鍵は? よし、かけなくて結構、行くよ、ほんとに行くよ? そっちこそいいの、おれが出てかないって言って、追い出したりはしないよね? 条件は? おれはなにをすればいいわけ? いるだけ? ほんとにいいの? おれは小説を書いてるだけでいいの? ひとりで? 好きなときに! ああ! うん、んで、おれは歩き出してたんだ、気がつけば、走ってた、どこに向けて、そんなのは、決まってた! ああ、恵美、恵美、おれは恵美の絵画部まで、もしも恵美がいなければそのときは自殺してやろう! 死ぬ、おれは、この足で死ぬか、恵美のいるところにたどり着けるか、ああ、おれが本気かどうかって? さあね、結局、恵美はそこにいたのだ、いたのだから、そのかけはおれの勝ちなのだ! 恵美、恵美、あんたの名前はなんて言うの、あのね、おれは理玖って言って、小説を書いてる、なんにも疑わずにおれに着いてくることができる? ああ、天才さん、おれと一緒に来てよ、天才さん、さあ、おれがあんたを疑わなかったように、あんたは着いてくることが出来る? ああ、出来るのだ、あんたには、あんたは素敵だから、よし、好きなだけ絵を描かせてあげる、好きなだけ、生きていいよ、生きたいように、画材は、好きなだけ盗んできなよ、詰めれるだけ、電車一本に詰めれるだけ! よし、着いてきてよ……行こう!………………………………………………って、思いったより話が長くなっちゃったね。起きた? 葉子、もう家だよ、それじゃあね、バイバイ、今度は葉子の話も聞かせてね。
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