第2話 理玖のところで
ドアを開けると理玖はすぐそこに、目の前の、薄暗がりの階段の中段のあたりに、手でにやけ顔を覆い隠しながら蹲っていた。その手の隙間からにやにやと僕を窺い見ると、誰に言うともなく吐き捨てるように、やぁ、と一言だけ振り絞るように言ってから、記憶を失くしたように茫然としていたかと思うと、何事もなかったように立ち上がって、目の前の僕のことなどまるで気にしていないような素振りで、階段を降りてきて、襖もすべて開け放してある家の中を、居間の方へと横切って行ったのだ。
「やぁ。葉子。こっちだよ」
理玖の肩は、ひくひくと揺れていた。理玖には、僕へのほんのサプライズのために玄関まで出向いたというのに、それが自分の意欲の最後の一押しが足りなかったせいでもう信じられないくらいに不発に終わってしまったというのが、どうしようもなく面白く思えたのだ。僕には初め、理玖の震えの正体などわからなかったけれど、理玖の小説ならふたつ読んだことがあったので、ああ、僕は理玖がすることならなんであれ、受け入れる準備が出来ていた。静かに靴を脱いで、理玖の後に従ったのだ。長テーブルが真ん中に置かれただけのだだっ広い畳の部屋の奥に、テレビやソファなどの簡単な調度の置かれた居間があり、理玖はテレビの前の畳に胡坐をかいて座っていた。僕はソファではなくその前の床に腰を下ろした。すると理玖は立ち上がって、ソファの背の引っ付いているところの引き戸を重そうにこじ開けると、そこからキッチンに入って、僕に、飲み物は? と訊ねた。その頃には理玖の声は、もう結構理玖本来の子供が言うように弾んだ調子のものに戻っていた。
「なんでもいいよ!」
理玖が遠かったので、僕は大声で言わなくちゃならなかった。
「酒でも?」
「おれは、あんまり慣れてないけど」
「じゃあ、これだ」
そして部屋に戻ってきた理玖は、小さなテーブルの上にワインボトルと、それから度数の低い缶酎ハイと、ゼロカロリーのコーラを置いた。テーブルにあったのは、他に灰皿と目薬とテレビのリモコンと綿棒の容器と……理玖はパジャマ姿だった。キッチンとは反対側の襖が少し開いていて、布団が捲れている、人が今起きたばかりというようなベッドが見えた。理玖はボトルごとワインを口に含み、それから煙草に火をつけた。しばらくするとようやくその顔には生気が戻ってきたというか、表情が生まれ始めたようだった。
「今日おれが来るってことは知ってたんですか?」
「おれが? 知ってたよ、久保に聞かなかった?」
「変な紙を見せられましたけど、おれから探らなけりゃ、それ以外にはなんとも」
理玖はすると愉快そうに笑って、
「あはは、それでいいんだよ、それでお前は来たでしょ。おれは、今日お前が来ることは知ってたよ」
「さっき、恵美さんって人とすれ違った」
「喋った?」
「ほんの一言二言だけど」
「あとで恵美とも話してよ。おれたちのために今日はこんな早くから家を開けてもらってるんだよ、お前の話は、おれだけじゃなく恵美も興味津々なんだから」
「おれの話? 久保がなにか言ってましたか?」
「葉子という退屈しいな奴がいるって、成績優秀で、かわいらしい彼女もいるわりに、何に関心があるのかもわからない、ふらっと教室を出てくと、そのままどこかに行っちゃうような奴で、何のことだってどうでもいいのかと思えば、でもそいつはおれの、おれのじゃないよ、久保のね、久保の書いた小説をやけに読みたがる、というか、おれに小説を書かせたがるのだ、自分の馬を走らせるように、次も頑張れ、といった具合にね、おれのそんなものは、いくらでも読みたがるくせに、自分の方では何を考えているのか一向に教えたがらない。そんなに本を読んでいて、自分では一行も書く気にならないのか、とおれが問い詰めれば、ようやく開いた口では、いいや、おれも小説を書いてる、と言えども、葉子はそれ以上何も言いはしなかったし、もちろん小説も読ませてくれなかった、おれのは人に読ませるようなものじゃないとかなんか言い訳をして。それじゃあ葉子の奴はいったいどんな小説を、どんな風に書いているというのだろう、人に見せられない小説? それはどうして? 葉子のそれは真剣なものなんだろうか? それともただの趣味なんだろうか? ただの趣味だとしたら、その趣味は趣味として本気のものなんだろうか? あいつがなにを考えていて、何に対してどんな風に真剣なのか、おれにはわからないけど、でもあいつのことを考えていると、おれはいつも理玖のことを思い浮かべる、どことなく葉子のぼんやりとした表情の輪郭は、理玖のと似ている気がする、それは決まって何か考え事をしているために、他のどんなものの声も聞こえず、一人どこかの世界に行ってしまってる、みんなのよく知っている理玖ではない理玖の方に、どことなく似ている気がするのだ……とまあこんなことを。そうだ! 葉子があんたの小説を読んだときには、はんと笑いながら突き返して、それが、よかったのか、悪かったのかは言わなかったけど、葉子はそのしばらく後に今度はむこうから、他に作品はないわけ? とか訊いて来た。おれがもうひとつだけある作品を学校に持って来てやると、葉子はありがとうと言って、その雑誌を抱えて教室を出て行った……弁解の余地は?」
「ああ、ああ、あんまり恥ずかしいんで、ほんとは全部でたらめだって言ってしまいたいくらいだけど、でもおれは、あんたの小説だけは、一度読んだことがありますよ」
「一度?」
「二つだけ」
「飲めよ。不真面目なのは嫌?」
「真面目も、不真面目も、嫌ですよ」
それで僕は、理玖の口車に乗せられて、ワインを飲んだ。理玖に手渡されるまま煙草を咥え、火をつけてもらった。一度目はむせて、それから注意深く吸っていると、理玖が深呼吸の真似をするので、習って僕もそうすると、無茶苦茶にむせた。理玖は手を叩いて笑いながら、いい顔だ、と喜んだ。
「これ、初めての人が吸うには、めちゃめちゃ重いやつなんだよ」
「ああそう」
僕は相変わらずチューチューとやる。それを見つめながら理玖は、煙の向こうに僕を迎え入れるようなそんな薄ら笑みを浮かべているのだ。
「どう? 葉子、お前にはこんなのも退屈?」
「久保になにを吹き込まれたのかは知らないけど、おれにいいことを教えてやろっていうのなら、おれは素直に教わる方ですよ、あんたがおれを変えようなんてしなくとも」
「そう? それじゃあ、久保がそう見たところの、お前の退屈ってのはなに?」
「おれの退屈? ああ、聞きたいのは、退屈ってなに? って言いたいほどで、ねぇ、まとまらない言葉でいいなら」
理玖はすると、どうぞ、と言うように目で合図をしてから、ひとつの音楽に耳を澄ませるようにじっと腰を据えたのだ。
「ああ、もちろんそれは簡単なことじゃない。それを言ってしまうのは。でもまあ、おれは、そうだななあ、おれが退屈してるのだとしたら、いいや、おれは本当は、それが本当に確かにあるものなんだったら、おれは決してそれに退屈したりなんかしませんよ。現におれは、みんながあんなに退屈してやまない散歩なら、ほんとに何時間していたって構わないんだから、どんなに退屈と思われてる本でも、読むのも苦ではないんだから。だからおれは退屈しいなんてもんじゃないですよ、人間嫌いなんてものとも違う、おれはみんなのことが好きですよ、いいところも、たくさん知ってる、だけどおれが時々それにうんざりして見せるのだとしたら、そこには、なんて言うか、ああ、散歩程度にも本当のものというか、本当に、そのものがある、や、本当にその人がいる、と思えるようなものがなにもないからで、あああれは、あの人たちの物語は、それはそれは退屈なんです、おれはよく飽きないなあというか、よく苦じゃないなあと言った風にも思えて、だって、それはとても、生きるというにはあんまり限定され過ぎているというか、あんまり閉じすぎているものだから、ああおれにはだから散歩が向いているんですよ、それはどんな風にも定着しないものだ、それはどんな風に意味を見出されるものでもないし、おれはみんなとでも例えば教室で会うよりも道端でばったりと会う方が好きなんです、コンビニや、公園なんかで友達と会うようなことがあると、その子のいいところというか、その子の別の見方のようなものが、いくらでも思い浮かぶというか、とにかくその子のことをようやくひとりの人間と思えるってくらい、だからつまり、おれが退屈なのは、もしそれがそうなら、おれはそれが好きじゃないからそれが退屈なんではない、おれはそれが好きだから、教科書の一つの読み方なんかには飽きちゃった、というだけ。だからおれは、いつでもどんなものでも、それが退屈させない強度でおれと出会うのなら、大歓迎ですよ、それが本当のものと出会えるのなら、おれはどんな船にでも乗り込むさ」
ああ、信じられないことだけど、そのころ僕の頭の中では、さっき飲んだ一口ばかりの安ワインがグルグルと悪さをし始めていたのだった。そうだ! と僕は思い出した、理玖からもらった手紙を、僕はポケットの中をまさぐる。
「ほら、これ」
理玖はなんだと前傾姿勢を取った。
「君たちはまだ知らないのか
君たちはまだ忘れているのか
君たちはまだ探しているのか
君たちはまだ読んでいないのか
君たちはまだ乗り込んでいないのか
理玖がおれに渡した詩だよ、おれは結構いいと思ったなあ、本当は、この声のトーンだけで、おれは作者があんただってことに気づいたんだよ、君たちはまだ……んで、この詩は表にだけ書かれたのではない、すべての生命がそうであるように、当然言葉が言われてそれだけということはないのであって、当然、すべての詩には続きがある、というよりすべての詩はまだ終わってはいない……曰く……
あんたらが何を知っているというのか?
僕が知らないということを、知っているのならどのように知っているというのか?
ああ、思い出の中にあんたらがいるというのか?
それはこのようにも立ち現われて来るものなのか?
どこに乗り込むべき舟があるのか?
それは本当の意味で新しい波と出会うのか?
新しいということが、そこではどのような響きを立てるのか?
ああ、だけどこれは、あんたのよりもまだ少し青臭いね、それほどいいものではないのかもしれない、今はまだね、この詩は、やがてよくなるさ、まあ聞きなね……
でも、僕はすべての波と出会う船となろう
でも、僕はその船首ですべてと出会おう
確信は益々波と同化するだろう
それは、出会っては崩れるようなものだろう
それは、一度も固定されない運動だろう
船は、すべての出来事に洗われることになるだろう
僕は益々擦りきれて
その度に僕であったことをもう思い出せないだろう
僕はやがて壊れるだろう、やさしく波にさらわれるだろう、骨にもなるだろう、波とわからなくなるだろう
すべての波を盛り上げるもの、それが僕だろう
僕というものを、僕は非人称となるまで磨き上げる
僕は、波と侵し合うまで、僕を大切に運んでやる
大切にすべての出会いと出会う……
*
ああ、僕は見る
数限りのない言葉の沈黙を、死を
神へと高まることのなかった無数の波の崩れ去るのを
天へとかけられたが、それっきりだった梯子を
ああ、僕は口をあけて待つ
無言の梯子から天使の降り来たるのを
天が雨を降らせるように
言葉が口腔を潤す時を
絶対時間は無限に僕を含んでいる
沈黙、僕は詩を書くよりも、詩となる方を選ぶだろう
僕は、どうしたって時に打ち捨てられはしないのだから
いったんは、こんなところかなあ、おれが口を閉ざすのも、単純に、今日はもうこれまでだという太陽の眠けのサイクルというだけのことで、結局それは、一時休止ということでしかないわけだけど、疲れというのには、どうにも対処できないらしいからね、本当は一時間でも二時間でもぺちゃくちゃと、一生でも二生でも、そうしていたいんだけど、もしもおれたちが本当にそうしたいなら、アルコールよりもカフェインよりもドラッグよりももっと身体の中を、それが生きること自体を詩に変えてやった方が早そうだ、単純に生きることで詩を書くことや、単純に生きることが詩であるというようにね、もちろんこんなのは、意見というものは、いつの場合でもおれのものじゃない、大切なのは、なにではなくてどのように、あるいは、どの文脈で、でもなくて、もっと、そうだなあ、どのくらい、本気で? さらに、本気さに対しても本気で? ということではないかな……そしてその、本気さはどんな汗をかくのか? これも重要に違いない、その汗の、味香り、そして透明の、固さ柔らかさ……はい、理玖、これがあんたの書いた詩だよ、もうクラクラして眠いからあんたと話す代わりに一人で答えるのだとすれば、おれは詩を読むのでも書くのでもなく、このように創り出したいんだよ、今やったように、読むのでも書くのでもなく……おれはただあるということをありつづけていられたら! いつでもそうできればいいんだけどなあ、はい、ぞうぞ、どうもありがとう……」
*
僕はソファの中で目を覚ました。すぐに理玖は気がついて、おはようと言って僕にノートを渡した。そこには今朝理玖が送った詩や、さっき僕の話したことまでも、すべて理玖の手によって清書されていた。そしてその続きには、もっと乱暴な字で、理玖の書いたのが……
*
僕は精神的に詩人を名乗る、君たちの期待の乗り込む船になるために空想でもなく巨大化する、というよりも単に拡大解釈を受け入れる、君が見た君までも、やっぱりどうしようもなくこの僕なのだ、例え腑に落ちなくとも、怖くても僕は君たちのリアリティにまでまたがる、全面的にそれを支持する。
*
世に余る模型をジャックする、家、棺、車、クローゼット、衣服、電子レンジ、ぬいぐるみ、等々、言葉の中に入り込み、夢に代わって放送を垂れ流す、まさしくそれは垂れ流される、辞書を埋め尽くしてしまう、それは無意味さのオブジェを意味に支配されないために、ではなくて意味として歩むには遅すぎるために。
*
君が本を開く時、言葉はたんに目の上を吹く風と思ってはいないか? だがその風がもしも本当に何かを運んでいるとしたら? 君が空気と思っているものが本当は毒なのだとしたら? 知識が君を蝕むのだとしたら? 宇宙の先端には、まさにこのような風が吹くのだとすれば? どうして君たちの肌の出会う、この時こそが宇宙の端ではないと言えるのか?
*
時は世界を四次元的に解釈するものなのだとしたら? 認識の認識が絶えず次元を更新していくものなのだとしたら? 君が無視したものは君が無視してはいけないものだったのだとしたら? 取り返しのつかないということにさえ、君は取り返しがつくかもしれないと思っている。
*
僕は抗議する、君たちのその愚鈍さを、悪くなることを恐れて病気をさらに悪くさせてしまう馬鹿さを、というよりもその諦観を、衰弱を極めた君たちの目に、それじゃあ僕の言葉はどのように届くのか? 僕の差し出された舌はその口内で噛み切られることにもなるか? ドラマチックな終焉? 望んではいないさ、噛み砕きなさい、咀嚼し、飲み下しなさい、吸収し、糧としなさい、僕がそんな風に言うとでも? 意味たちは絶えてまだ本当のものになど出会ったことがないのではないか? それで君たちは出会うとはどう言うことなのかまだ知らないとしたら? 知っているということさえ君たちを訪れたことがないとしたら?
*
どうして君たちは、なにもかも諦めたくせに、諦めることを諦めることに関してはこんなに認めたがらないのか? 君たちは、本当は何かを期待しているのではないか? 君たちは、それに気づいてさえいなかったのではないか? 君たちは、最後の時までそれを残しておこうというつもりか? では、この僕が、本当に、君たちのための、最後の時、そのものではないと、どうして思えるのか? 君たちを救いにきた神が僕であると、どうして信じられないか? いいや神は僕ではなく僕の近さだ、信じろ、君たちは期待を腐らせるものだ、君たちに始まりはなかった、終わりもない、時は精算の時を待っているのではない。
*
ただ君たちの遠く仮定した無限こそが、その安易な虚無の裏返しに過ぎない楽天性の根拠なのだ、どうして時を裏返してそこに落書きを落とす? 君たちは世界を読もうともしないのだ、君たちには、ついぞ何が正解かはっきりとした答えが得られなかったので、君たちはすべてを偽物だと思うことにした、どうしてその反対ではいけなかったのか? すべてが悪なら、惜しむな、すべてを与えろ、真実を語るものの声を疑うべきではない、疑う者はみな知っているべきなのだ、本当にそれに近いところでは、真実の鐘がどのように鳴るのかを、その音色を、仮定するのではなく信じべきなのだ、例え言葉が愚かでも、愚かさ以外にどんな味を知っているのか? 君たちのその味わったことのない舌が?
*
君たちは僕にかけてみなくてはならない、君たちがそれを理解するよりも一歩速く、まず僕を信じてみなければならない、そうしなければ、君たちが君たち自身の期待を、その哀れな棺桶から、救ってやることはできない、君たちは手を伸ばすべきなのだ、それを時の吟味にあずけるわけにはいかない。
*
時が本当に何かを暴き出せると? 時が、最終的な判断を下したことが、かつてあっただろうか? まだ、君たちは、一体何に縋ろうというのか、どうして時の永遠に言われぬ真実の方が僕よりも期待するにふさわしいなどと思えるのだろうか? 君たちはそれが欲しいのだ、それが、期待しなくてもいいだけの根拠が。
*
真理など捨ててしまえ、あんまり結論を急ぎ過ぎないことだ、君はかの作家の文章については多少とも覚えがあるようだが、その表情には? 声には? 筆跡に? インクの染みに! ああ君が本当に書くようにそれを読めたら! 遅くやることだ、もしも死に君が奪い去られたくなければ、半身分先を走る君の体に、君が追い付くなどというまぼろしは捨ててしまうことだ、文章は君に教えるのではなく、寄り添うものなのだから、ああだから僕がそうするように君も僕にそうするべきなのだ、いったい、僕の何が君の中で詐欺的に響く? 僕の何が君の何を損させるように思わせる? 君に損できる何かがあるというのか? いつまでも待つばかりの君に、君は僕に預けるべきなのだ、君の最も素晴らしい部分を、一番残しておきたい部分をこそを。
*
いいや、今吹く風が、すでに君からすべてを奪い去ったとしたら? 君には従うか従わないかの選択の余地さえないのだとしたら? 君か文章の、もうどちらがどちらということもできないほど、君がその深くまで迷い込んでしまったのだとしたら? 今すぐ君は本を閉じるか? 君はそうしはしない、君は何を惜しんでいる? 惜しむことさえ惜しんだ君が? 君は疲れただけなんだ、数々の裏切り、君は怖いのさ、いつ君は恐れに屈服してしまったのか? ああ君は僕を見捨てるのか? その疲れが僕よりもましか?
*
ああだけど、君は僕の手を取るのだ、未来で? そうに決まってる、君は、僕がいつか手を伸ばしたとき、そのとき君は僕の手を取ってくれたんだった! ああ、本当に新しいということは、すべてを絶対に変えてしまう、一が足されれば、どんな法則も最初からやり直す以外に生き残るすべを持たないのだ、そして新しいということは、彼が何に似ている似ていないどうこうではなく、彼が真実に彼らしいということなのだ、彼もまた一として世界に産み落とされたということなのだ。
*
理玖は寝ぼけ眼の僕がノートを読むのを、ニコニコと待っていた。そして甲斐甲斐しく酒やたばこを差し出してくれるので、つい僕の手はまたそこへ伸びた。読み終わると、僕はもう寝て回復した分の体力を使い果たしていて、天井に向けてぼーっと煙草を吹かすくらいしかできなくなってしまっていた。それでも理玖は、ちょうど酔いの気持ちのいいステージに入ったのか、赤らんだ顔で陽気にぺちゃくちゃとやっていた。それにしても、日の少し落ちかかったこの薄暗がりの部屋で、こうしてじっと、一方的な視認者として理玖のことを見ていると、その顔の端正さに、今更ながら驚かされるくらいだった。理玖のは彫刻のように整った、綺麗な顔立ちで、その四肢の細長さも、思わず綺麗だなと思ってしまうくらい。顎と、鼻の舌には、髭がうっすらと生えていた。理玖は何歳くらいなんだろう? それでどんな風に生活してるんだろう?
「おい葉子、聞いてる? また眠いの?」
「いいや、大丈夫だよ、聞いてなかったけど、なに?」
「だから、いい? 葉子、何度も言うのは嫌だよ、おれたちでさ、これからこんな風に詩を書いて、本を出さない? いいや、おれたち? ああおれは、別にこれを書いたのはただ思いついてのことなんだけどさ、葉子、お前は、どう? 一つや二つ、自分の本を持ちたいだろ? みんなにそれを読ませてやりたくない?」
「本? 勿論、賛成だけど。おれはおれのを試させてやりたいよ、いつでも」
「だけど、なんだよ?」
「あはは、悪く思わないでね、ただ、作家様がやけに興奮してやがる、と思って」
「はん、何とも思わないさ、あのね葉子、おれはなにも名声の話をしてるんじゃないんだよ、おれはただ、ああ、もしもお前がいいものを書くのなら、それを手伝わないなんて嘘だと思うだけで、ああおれはただお前に一冊の本を、プレゼントしたいわけだよ、詩にもあったように、船を、雑誌を! お前が自由に書ける!」
「話が変わってるよ、本? 雑誌なの?」
「うーん、どうだろうなあ、実際、本の方が簡単だ、雑誌を一から作るとなると、残念ながらおれの脳みそは実際的な方には働かないのでね、金も余計にかかるだろうし、ひとまず本にしよう、人の雑誌に乗せてもらうのでもいいかもしれないけど、ああそれは、おれは知ってるからこんなことを言うんだけどね、あんまりすぐに、その月の終わりと共に忘れられる一夜の夢というようなものだったし、あとには何も残りはしない、思い出以外にはね、だから一冊の本だよ、誰にそこにあることを無視できやしない、本だ」
「つくれるの? 本なんて」
「簡単だよ、知り合いに編集が一人いるんでね、そいつのつてをたどれば、ちょっと金を払えば、それだけ分、今すぐにでも刷ってくれるって会社の一つや二つ」
「ちょっとの金?」
「ああ、百万や、それよりもっと、多ければ多いほど、だよ」
「一応だけど、おれには出せる金なんて……」
「ああ、当然、それはおれに任せなよ、たくさん売ればいいんだからね、いくら金がかかろうと、そうなればなにも関係なくなるんだから」
「ふーん、一気に夢物語じみてきた、だいたい、作品もまだないんだよ」
「葉子、これまでになにか書いたものは?」
「うーん、そりゃあ、まあ、あるけど、でもおれの方は、やっぱり白紙だよ、おれのはまだ頭の中にだけ」
「よし、それじゃあ、今日からそれを書けよ、ここに泊まって、おれが金を稼ぐから、出費があれば言って、お前はしたいようにしてればいいから。ただし書けよ、空想や、身体だけじゃなくて」
「おれは生きてるように書きたいよ、書くように生きていたい、だからあんたが思ってるより、おれの腰は重い物かもよ? おれが筆を取るってことは……」
「いいよ、葉子は書きたいように書けばいい、ただしその形式は見つける必要があるだろうけど、例えば、日記や、詩作、アフォリズム、あるいは無限に続きうる小説、つまり極めて人生的な、セリーヌやヘンリー・ミラーの、あるいはカフカの、あるいはプルーストの、あるいはベケットの……」
「よし、よし、わかってるよ、あのね、おれは書かないなんていつ言った? 案外、おれはあんたに会うためにもう何千行もの言葉を消してきたのかもしれない、おれのノートに言葉が書きつけられていないと? 本! それを一番夢見て来たのが、このおれなんだからね、理玖、だったら、おれを作家にしてくれるの?」
「お前は作家だよ、誰もなにも言いやしないよ」
「そうだね、でもその前に……」
僕は自分の携帯電話が散々鳴いていることに、もうずいぶん前から気づいていた。母親からの電話だった。
「出てもいい?」
「どうぞ」
「もしもし? ああ、おれのことは、心配しないで、今はね、友達の家、どうしてもって言って聞かないから、今日は学校を休んでさ、そいつの家に、ね、直ぐに帰るよ、ごめんね言わなくて、うん、電話が? 学校から? おれはてっきり、久保かひよりがそれを伝えてくれてるのかと思って、え? ひよりが? そう、それじゃあなにを心配してたの? 帰りが遅いから? ああ、もうこんな時間、ちょっと遠いんだよ、多分、帰るのに、今からだと、二時間くらい……おれは泊まって、明日このまま学校に行こうかと思ってたんだけど、それじゃあダメ? わかったよ、じゃあね、はぁい……」
電話を切るなり、僕も理玖も笑ってしまった。それから、僕は理玖がどう僕を責めるのかと、気が気でなかった。
「いい息子だねぇ、お前みたいなのが、うん、うん、いいことだよ、よく務めあげてるねぇ」
「そうだよ、だからわかったでしょ、今日は、おれはあんたのとこに泊まりたいけど、あんなにもおれの身体は、自由に詩作するには向いてないってわけさ。だからいったん家に帰って、色々話してくるよ、勿論下手なことは言わないけどね、いいように、言うさ、幸いうちの人は権威には弱い方だから、あんたが推薦文の一つや二つでも書けば、あとはおれがネットからあんたの名前を探してきて、それでおれは家庭では立派な詩人さ。それとも雑誌かなにか持ってない? それを見せられりゃ早いんだけど」
「うーん、ないかなあ、多分。よし、まあ、そうしろよ、おれたちは、二時間、そんなに遠いの? 帰るのに、一時間くらい? じゃあ、一時間、大切に遊ぼう。二人で恵美のとこに行ってみない?」
「さんせー……」
*
それから僕たちは、恵美のいるというカフェに向かった。朝から夜の遅くまで開いている、というか一人の青年が開けているカフェで、そこがここらで唯一の遊び場というわけだった。理玖は、毎晩そこに飲みに行くのだ。海沿いの道に出て、その道を五分も真っすぐに行けば、スポーツ球場の手前にテントのようなものが張ってある敷地があり、その奥に隠れたように、その店はあった。光も漏れていなくて、傍目にはやってるのかどうかもわからない、こじんまりとした店だった。ドアを開けると、意外なほど店は音楽と若者であふれていて、僕を連れて理玖は迷わずにカウンターの奥に詰めると、一番奥のところには恵美がいた。恵美はダウンジャケットを椅子に掛け、薄いTシャツ一枚という姿をしていた。僕らに気が付くと、ヘッドフォンを取って、ああ、と気だるげに目を大きくひん剥いた。席に着くなり、理玖はお酒と、僕に烏龍茶を注文してくれた。そしてカウンターの男に、例の詩人だよ、と僕を紹介してくれた。どうだったの? と恵美が訊ねると、理玖はにっこりと笑うだけで返事をした。恵美も微笑んで、首を小さく傾ける。
「でも、お酒はダメなんだよ、家で散々飲んだんだから、こいつのはノンアル」
理玖は念を押すようにカウンターの青年に言った。理玖は席から振り返って、ホールの仲間らに、笑顔と、ひらひらと手とを振りまいた。それから三人でテーブルに向き直って話をした。
「そうだ、恵美、お酒を飲んだ? 葉子を家まで送ってあげて欲しいんだけど」
「朝にちょっとだけ。もう抜けたよ」
恵美は僕たちには無関心というように大きく伸びをした。
「ごめんごめん、案外遅くなっちゃって、話がそれだけ盛りあがったんだよ」
「それならいいけど、私は、疲れた」
そして顎でカウンターの男を指し示すと、退屈っぽく目を曇らせた。だけど、とってもいたずらっぽく。
「道夫?」
「そう。別に、話してただけだけど、緊張するんだもん、二人だけだと」
そのときカウンターの男がテーブルに飲み物を出して、
「理玖さん、はい。それと……」
と僕の方に疑り深い目を向けた。
「葉子っていうんだよ。葉子、こいつは道夫。この店の……なんなの、お前は」
「息子です。オーナーの。この店の」
あはは、と理玖は笑いながら言った。
「そうだった、そうだった」
隣から恵美が、
「ねぇ、それより帰る時間はいいの? 今日は、泊まらないんだ」
「ああ、複雑な事情があるんだよ、ね、葉子。そういや、行きはどうやってここまで来たの? 遠いでしょ?」
「ああ、そうだ、例のあんたのお爺ちゃんの、カードを預かってるんだった、これでタクシーに乗って来たんだよ、住所は久保に聞いて。はい財布」
「久保の同級生?」
と道夫は問いかけ、僕がそうだと答えると、ああそう、と納得したようだった。理玖は財布を受け取ると、お札を適当にテーブルに置いて、
「でも今日はもう時間がないんだよ、ほんの顔見せだけ。すぐに帰さなきゃ。どう? 葉子、こんな店は」
「これだけじゃなにも判断できないよ。でも、判断じゃなくてもいいなら、いいところだと思うよ。友達も、たくさんいるの?」
「そりゃもう、見る限り」
理玖はそう言うと、湯舟にでも浸かったように天井を仰いでぐったりと身体の力を抜いた。あー、としばらく弛緩した声で呻いていたかと思うと、勢い良く起き上がって、グラスの酒を一気に飲み干した。
「よし! それじゃあおれはここに残るけど、恵美、葉子を送ってくれる」
「いいけど、葉子君は? 忙しい? 平気?」
「おれは大丈夫ですよ、そろそろ、静かになりたいくらい、ずっと理玖とべらべらやってたんで、疲れた」
「じゃあ、行こ」
恵美に続いて僕も立ち上がると、疲れがどっと押し寄せてきて、僕は思わずカウンターにもたれかかってしまった。恵美が僕の肩を持ってくれて、僕もそろそろ平気になり、店のドアへと歩いて行くと、途中恵美が振り返ったのがわかって、恵美は理玖に、それはそれは心から励ますように、いや元気づけるように、褒めてやるように、よかったね、というようににっこりと微笑んだのだ。理玖は照れくさそうに笑いながら手をあげ、はやく出てけよ、と言うように、ぶっきらぼうに、別れを告げた。外はもう暗かった。海からの風が吹いていて、学生服だけでは寒いくらいだった。恵美はダウンジャケットのファスナーを一番上まで上げて、ポケットに手を入れ、首を埋めて、風と戦うように歩いた。
「疲れた? 車までもうすぐだよ」
「うん、平気、だけど、ああ、やっぱり疲れた」
そのとき、店のドアが開き、小人のような理玖が走ってやってくると、僕をちょいちょいと呼び出した。恵美は僕の背にそっと触れて、それから勝手にどうぞというようにあらぬ方を向いた。
「葉子、またすぐに来いよ、やることを終えたら、わかった? おれの方からは、久保に頼んで伝言をやるよ、状況はそれで……あんまり証拠も残すなよ?」
「証拠? なんのこと? ああ、お前の金……」
「そう、百万円!」
「理玖、それは本当に、どうにでもなるものだと思っていていいの? おれも集めるの手伝おうか?」
「いいよ、一人で集めるよ」
「でも、方法は?」
「まずはお爺ちゃんかなあ」
「ほらぁ、手段はもうそれだけ?」
「実際、クレジットを換金して……それか直接会いにでも行って、引き出す許可をいただくことにするか、大きな機材を買うっていえば、おれの家族のことだから……いや、もしもその手が無理でも、まだまだやれることはあるよ、例えば、ねぇ葉子、耳を貸して、あのね、この辺りの人らは家に鍵をかけないらしいし、それに、こんな田舎じゃ、ろくに監視カメラもついてない」
「理玖、それは本気?」
「当然。それじゃ嫌?」
「嫌か? だって? おれが? 好きにしなよ、どうでもいい、ただ、それじゃおれが少し気持ちよくないかなあ、あんたが一人でリスクを取るって言うのは、なんだか腑に落ちないし、よし、だったらおれの方でも、十万くらいだけでも集めてきてやる、最低でも十万だよ、わかった?」
「よし、じゃあまた。すぐに来いよ、一緒に詩をやろう、こっちに住めよ!」
「やることを終えたら、ね、驚くべきことに、おれはまだ高校生なんだよ」
「あはは、ほんとにそれは、ありえないことだ!」
「だね。じゃあ、少ししたら、また、おれももっと軽くなってくるよ」
「おーけー、今度は、詩と金を持って! 待ってるよ、すぐにね」
「はぁい、ばいばい」
今度こそ僕は理玖と別れた。理玖は、そこに立ち止まって、煙草を吸いながら、ずっと同じように佇んでいるだけだったけど、多分僕らが見えなくなるまで、ずっと見送っていてくれたのだ。
「なんの話だったの? 私は聞いちゃいけなかった?」
「聞こえた?」
「少しだけ」
「なんでもないことだよ、ただ詩をやろうって」
「へぇ、いいじゃん」
そして車のところまで戻った。僕は助手席に座った。車は暖房を十分に利かせてから走り出した。僕は、すぐにうとうととし始めてしまった。ああ、夢の中で、恵美はこんなことを言っていた。
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