出発
葉子
第1話 理玖のところへ
僕は言葉そのものでありたい、絶えず生成し変化する、日の光が笑うようにせせらぎの中で笑っている、動いている、生きている、そのように僕の生きることは書くことで、書くことが生きることであればどれだけいいだろう、と思う。僕は、ただ言葉としてありたい、寝ても覚めても戯れる世界の光のように、絶えず僕もありたい、あるということを感じていたい、存在の幻惑の渦中にありたい。ああ、いったいどんな書かれた小説なら、すべての書かれなかった小説よりもいいものだろう? もしも書くことが可能なのだとしたら、それはどんな風にだろう、本当に書かれるということが、新しくはない、なんてことはありえない、もしもそれが本当に書かれるなら、それは絶対に価値のあるものだ、それ以外はすべて書かれなかったのと同じなんだ。僕が本当に当たり前のことを言っているように思える? もし書きたいのなら、君はまったく新しくなくてはならない、それはまだ書かれていない、という意味においてまったく新しいのではなく、また書かれた、というように新しいものでなくてはならない、君は、それが新しい、ということがどういうことか、本当にわかってる? 新しいということは、それがオリジナルということは、そこになにかそれまでになかったものが、見つかるというのではなく、付け加えられるということなのだ。ああ、世界は絶えず新しさを待っている、世界は発見させるのではなく、新しく、単純な意味で、創り出される、もしもそれが新しいものなら、それが無視されるなんてことはありえない、もしもそれが新しいものなら、それは世界を決定的に変えてしまうだろう、すべての発見的なもの、過去的なもの、再認的なもの、模倣的なもののすべてがそれに倣うだろう、そして新しいものは世界を変えてから世界の中に埋もれるだろう、世界は新しいものをその先頭に付け加えて、何食わぬように回り続けるだろう、君は知っているか? 世界をまったく違うものに変えてしまうことが、世界にとっては極く当たり前のことであるということを、世界が膨張しながらその秩序のバランスを保っているのだということを、爆発は次の瞬間に収束を始めるのだということを、そして世界にとって価値は、というと言葉が固すぎるけれど、世界にとって価値はその新しいものだけなのだ、それ以外はただのシステムであり、君が本当に生き生きとしているのなら、君は絶えずはみ出しているということにもなるのだ。ああ、オリジナルたれ、個性的たれ、自分という個性にたどり着け、そのために君は君の生を生きなければならない、君は君の形を思い出さなければならない、君は君を取り戻さなければならない、いいや、君は個性という強度に足りるほど頑丈か? 僕の話をしよう、君にとっては君でもある僕の話を、僕は旅を始める、僕は僕自身の身体を使って、ある実験を始める、僕はまず僕自身を言葉そのものに変えてしまうことで、その生のあり方への、ある厳密さを獲得する、君たちにとってすべての変化するもの、例えば笑い、光、それらを見つけ出すことだ、そしてすぐにでもそれ自体になってしまうことだ、というよりも、自分さえもそうなのだ、絶えず変化するものなのだということを認識することだ、絶えず揺れ動くもの、絶えず戯れるもの、絶えず欲望するもの、絶えず、例え静的であるときでも、動的であるものとして自分自身を捉えることだ、だから君はそれを選ぶべきだ、しかし決定してしまうのはダメだ、君はそれを選んだ、しかしそれになってしまうというのでは、本当はダメなのだ、君はそれであることを常に保留すべきだというか、それであることを更新し続けるべきだというか、君は、それがそれであるということの中に閉じこもってしまってはいけない、君はそれになってしまってはいけない、例えば君には音楽が向いているか? スポーツが向いているか? だけど君は君自身でありながら、君自身というものを君自身という檻から解き放ってやらなければならない、君は犬か、それとも狼か? ああ、君は君でありながら、君と言われたその瞬間にはもう君であることをやめていなくてはならない。僕は自分を言葉に変えてしまった、風に変えた、光に変えた、君の脳の、その飛びこそが、君を戯れているものなのだとしたら? 僕はただ、認識の話をしたいのではない、僕はただ、こちらからだけではなく世界の方からも、いつでもその様を一変させてしまう、そしてもうどれが本当で嘘ともつかない現実が広がっているのだということを、言いたいのだ、ああ、僕はもうこれ以上言葉を噛み砕くことができない、僕は僕のを、単純に、旅、と言ってしまう以外はできない、それは旅なのだ、あるいは変化だ、あるいは笑いだ、これらの名詞は、意味的に決定されるのではなく、石の具体と抽象を備えた存在の決定的な不決定さそのものなのだ、合わせ鏡の簡単なトリックからも、君は逃れられやしない。わかるかな? 存在は存在の最小単位だ、まったく意味を持たずに変化、移動するものであり、君たちはそこにいるのではなくそこを通るのだ、君たちはそれであるのではなくそこにいるのだ、君たちは無限に意味をすり抜けるものだ、これは旅だ。
*
ああ、寂しい、こんな夜だった、そのとき僕がいたのも、僕はどこからこの物語を始めようか? いいや、そもそも、どのように書こうか? 手紙? 日記? 小説のように! それとも僕は記憶に刻み込んでおくか、死人の骨みたいに海へとばらまくか……この物語はこんな夜に始まる、僕は一人ぼっちで、その男がいることを知っていた。ああ僕はどうして知っていたというのか、落ち着いて、最初からやることだ、そうだった、こんな物語はいつもそのような夜にたどり着くのだ、始まりも、終わりも、どちらも夜に隠してしまえ! 物語は始まるのでも終わるのでもない、それは続いている……さて、その男の名前は理玖という。理玖は久保というやつの従妹で、都会に出て小説家をやっていた。それが今度諸々の事情で実家に帰っきており、僕がその分野に並々ならぬ関心を抱いていたことを知っていた同級生の久保君が、ふと僕に漏らしたその一言で、僕はその理玖という奴に合わせてもらえることになったのだ。ああ、今度は、僕は誰だ? 慣習通り、こっちから始めるべきだった。僕は高校生さ。田舎の普通の進学校で、ここには僕と、久保と、ひよりと美見と蓮見と、そんな人たちが通っている。僕は不真面目な方で……そうだ、僕の名前は葉子と言う。こんな名前だけど、性別では一応男の子の方を選択している、生れも育ちも、というわけだ。それで、そうだ、僕は初めからそれらのすべて知ってたわけではなかった。後々みんなにもそのことはわかるさ。さて、みんなって? 僕は誰に書く? 一応聞いておくが、もしかしてその君という奴の正体の候補として、この僕という奴の名前も挙がっている? それならいいさ……僕は、そうだ、理玖と初めて会ったとき、僕は柄にもなく緊張していたっけな、なんせこの理玖という奴のことは、久保から聞いていたから。まるで無名だけど雑誌で一つか二つ短編小説を発表したことのある奴で、読んでみればそれが案外素敵だった。ナイーブで、繊細なくせに、誰よりも求めている奴! その理玖が、今度この近くに引っ越して来たぞ。聞けば、どうも久保の祖父がひとりで暮らしていた家だけど、その祖父が認知症の進行によりデイケアに頼った生活にも限界が訪れたので、ついに老人ホームに引っ越すことになったというのだ、そのため空き家がひとつ生まれたわけだけど、管理、維持のために住民はいた方がいい、それは理玖の望みであるだけではなく、祖父の要望だったのだ、あの家を家族のようにも愛した祖父は、家を一人にしておくなんてとても考えられなかった、そこで名乗りをあげたのが理玖で、丁度あっちでの生活がギクシャクしだした頃だった、理玖には金がなくて、自由に使える時間も限られていた。それに理玖は、なんというか、疲れ果てていた、擦り減っていたのだ、周囲の無理解に? 生きることの、生きることからの遠さに? ああ、自身の無能力さに? 遅さに? 想像力の飛躍をいつも引き戻してしまう、頭の固さに! ああ、思うことはいつでも船のようであるべきだった、想像力はそのまま走り出すべきだった、想像することがそのまま生きることであるべきだった、この足で、迷うことなどなく、欲望したものを抱き締めに行ければよかった、言葉もそうだ、ペンは、ひとときもそれから離れるべきではなかったのだ、言葉は常にそれと戯れる、それを書くのではなく、そのペンの先こそがそれなのだということを、もう忘れ続けるのはこりごりだった。だから、そのとき理玖は瞬時にその話に乗っかったのだ。思い切ってこっちに引っ越すことに決めた。それからしばらくして僕たちは出会うのだ。
*
僕はどうして自転車を漕いでいるんだろう? いいや、考えるべきなのはそんなことではなく、僕はどうして、そんなことまで考えるのだろうということに違いない、ああ、この自転車を漕いでいるのは、やっぱり僕ではなかった。それは確かに僕でも、僕とは関係のない僕だった。いいやそれよりも、すべて平等に僕と関係していることだった、僕には寒さも足の運動も、風景も学校も不真面目さも眠りも、すべて平等にある、あられるものだったのであり、それだから僕は今日、自転車に跨って学校を目指していたのだ。僕にはなにも不満などなかったか? ああ、不満などはない、あるのだとしても、それは他のどのようなものとも同じように、完全にある、ただし三次元的な、この世界的なリアリティの中にあるのであって、それはやっぱりどこまでも僕のいる強度に触れられるようなものではなかったのだ。だから僕にはすべてが見えていたし与えられていた、しかし僕はそれらのどんなものとも共感することが出来なかった。僕は自転車を漕いでいた、ただし、漕がなくてもいい自転車だった。なくてもいいということさえ、なくてもよかったので、僕は自転車を漕いでいた。
*
学校はおかしなくらい騒がしかった。なにかあったに違いない。自転車庫からでも廊下に人混みが出来ているのがわかった。昇降口で靴を履き替えていると、一年生たちの声が耳に入った。ああそうだ、今日は模試の結果と校内順位とが廊下に張り出される日だったっけ? 僕は、確か二番だった。一番を取ったのは誰なんだろう? 階段を上がってすぐの廊下では、やっぱりこちらでも一年ほどではないけれど人混みが出来ていた。僕もみんなと同じようにそれを見上げようとすると、おはよう、と元気な声が僕をゆらせた。成績表を見上げるのをやめて目の前に現れた声の主を確認すると、美見だった、その奥にひよりがちょこんと立っていた、少し身構えるように、いつでも逃げ出せるようにと、そして熱気が僕にまとわりつくような、なんとなく辺りを漂いながらも肌に触れ切りはしないような視線を僕に向けてきていた。
「葉子君、どんまい」
美見は挑発するようなにっこりとした笑顔を浮かべながら言った、それは挑発し、やられて逃げて行くことまでを一連の喜びとするような悪戯っぽい笑みだった。ひよりがそのとき、やめなよと言うように美見の腕をぐっと引きつけた、しかしそれも心からの忠告というよりは、やめようよと言いながら二人で進んでいこうとするようなそれで、美見にはそれが余計に面白く、まじまじと僕に笑い顔をぶつけてくるのだった。
「どうしたの?」
僕が訊ねても、美見はじっと笑い続けるのをこらえるといったように僕の顔を見つめるばかりで、答えようともしないのだ、やがて美見はふっと視線を逃がすと、窓の上にずらりと張り出された順位表に目をやった。
「二番になっちゃったねぇ」
美見がそう言うと、ひよりが後ろで隠れながら、
「でも、二番でもすごいよ!」
そう言うので、僕は、
「あっそう、んじゃあ美見は何番になれたのさ?」
その名前を探してやろうと表の左から右に視線を走らせると、美見はそれを遮るようにやめて! と言いながら腕を振りまわした。
「あはは、でもあれには乗ってないんじゃない? 美見が、三十位以内だったの?」
すると美見は我に返ったように騒ぐのをやめて、死ね、と口に含んだ毒を吐き出すように言った。ひよりは笑いながら、私も、と僕に答えるように言った。僕に死ねと言うのではなく、私も三十位以内ではないという意味だったのだろう。
「でも、その調子じゃ、いい成績だったんじゃないの?」
そう訊ねると、美見はじっと固まってしまった。しかも僕の言うことなどまるで聞いていないと言った感じに。どうやら僕の奥に誰かを見つけてしまったらしく、挑戦的に口角をじっと吊り下げると、知らなぁい、と言いながら、ひよりを引きずって走って逃げて行く。振り返るとそこには蓮見がいた。
「おはよう、葉子君」
「ああ、おはよう」
「朝から珍しいね。なにかあった?」
「なにも。しいて言うならおれは、昨日休むように今日は学校に来たんだよ」
「そう? あはは」
蓮見はなんの屈託もなく笑いながら、窓上の順位表を見上げた。
「葉子君、体調悪かった?」
「さあね、頭が悪かったんじゃない?」
蓮見は意外そうな顔、それは拍子抜けだったというか、案外そんなもんかと言うことを瞬時に納得できたというか、そんな顔をした。そのとき廊下の向こうから、クラスの奴らが僕たちを目掛けてやって来るのが見え、それじゃあこんなところで二人で立ち話をしていれば、嫌な見え方もするだろうと思って僕は、
「そんなことよりも、早く僕らもお教室に入りませんか? 予習は終えたの?」
「予習?」
驚いたように蓮見は言いながら、僕の肩を抱いて、教室に歩くのだ。
「葉子君、してるの?」
「さあね、冗談だよ」
「なぁんだ」
「さあ、早く席についてお勉強いたしましましょ」
「あはは、勉強? 僕は寝る、お休み」
そう言った通りに、蓮見は自席に行くと、机に突っ伏して寝てしまった。大吾たちが席に集まってくると、蓮見は雑な態度で冗談をひと言二言交わしてから、急にもういいだろと言った風に、行けよ、と彼らを一蹴しまた眠りに戻る。いつの間にか、美見は僕の前の席に行儀よく座っていた。ひよりは別の友達に会いに行ったようで教室にはいない。教壇に戻って騒ぎ出した大悟は、僕と目が合うと、気まずそうに、しかし彼一流のおどけと親しみ安さとを込めて、ぺこりと頭を下げる。ああ、僕はこの大悟とも、一年の時はわりと仲良くしていたんだったっけ? 大悟が、そんな過去を嘘ということにしてしまわないためだけにも、律儀に僕の方へと身を乗り出そうとしたその時、教室のドアが開いて、何食わぬ顔をした久保がやって来たので、思わず僕は片手をあげながら、おい久保、と呼びかけてしまった。久保は不思議そうな顔をして、つかつかと僕の元に歩み寄ると、僕の眼の中をじっと見てきて、それからこんな紙一枚を、ほら、と言って差し出した。
*
君たちはまだ知らないのか
君たちはまだ忘れているのか
君たちはまだ探しているのか
君たちはまだ読んでいないのか
君たちはまだ乗り込んでいないのか
*
「どうしたの? これ、お前が書いたの?」
手紙を返してやると、久保はなんだというような顔で詩に目を落として、読むのにうんざりするほど長い時間をかけた挙句に、やっぱりひらめきのないただ難しそうな顔をして僕を見返してきたかと思うと、その顔に、え? というような表情を浮かべて、もう僕が訊いたことなどなんだったのか忘れてしまっているといったようなのだ、しかし僕が、いいから先にどうぞ、と目で合図を送り続けていると、しっかりともったいぶってからようやく口を開いた。
「違うよ」
僕にはその遅さが我慢ならない、欲しいと言われなければあげないわりに、ねだられてもあげすぎることは渋るという久保のその対応の仕方は、何重にも閉ざされた鍵のように鬱陶しくて、その割に、中になにか気に効いたものが入っていた例もないのだから、ついため息をついて蹴散らしてみたくもなってしまう。
「久保、そんで、それは、一体、なんなのさ?」
「そんなに気に入ったかよ」
「ああ気に入った気に入った、今までの中だと一番いいくらいだよ、昨日書いたの? お前が書いたんだね?」
久保は顔をしかめる、僕はもう、かわいらしくもなく面倒で嫌になる。どうしてこの久保君を、僕は席に召喚したのや?
「おれじゃないよ、おれのいとこだよ。前に言ってた、理玖って奴が書いた」
「理玖! なんだっけ、あの、お前が見せてくれた、なんだかいう短編の作者の?」
「そうだよ、そいつから、お前に渡してくれって」
「どういうこと? 理玖はおれのことを知ってるの? お前もしかして、おれの書いたのを理玖に見せた?」
「見せたことはないよ」
「じゃあ、どうして?」
「話したんだよ、お前のこと、学校一般の流れで」
「ああ、それで。ねぇ、ペンを貸してよ」
「ペン?」
「持ってないの?」
「どうして?」
「貸してよ」
久保は教室の端にある自席を振り返る。その労働の重さを悔しく思ったのか、鈍重な声でねぇと前の席の美見に声をかけ「書くものない?」と回りくどいことを聞いた。美見は不思議そうに振り返ると、久保、僕、机の上に裏返された白紙のポスターの上へと視線を巡らせてから、たくらみがあるようににっこりと笑って、
「なにを書くの?」
「書いてみなけりゃわかんないよ」
僕がわざとわからないように言うので、美見は驚かされたようにかわいらしく笑ってから「いいけど」とペンを紙の上に置いた。椅子を反対向けて机を囲むと、夕食の出てくるのを待つ子供のように書かれるのを待つのだ。僕もまたフォークを握り締める子供のようにペンを掴むと、大きく脇を開けて白紙と対峙し……
「うぅーん、君たちはまだ知らないのか、君たちはまだ……」
そう繰り返しているうちに、ペンは新しい波を解きほぐす舟首のように……
*
あんたらが何を知っているというのか?
僕が知らないということを、知っているのならどのように知っているというのか?
ああ、思い出の中にあんたらがいるというのか?
それはこのようにも立ち現われて来るものなのか?
どこに乗り込むべき舟があるのか?
それは本当の意味で新しい波と出会うのか?
新しいということが、そこではどのような響きを立てるのか?
*
僕が書いたのはそんな詩だった。美見は「わからなぁい」と言って席を立つと、パタパタと教室を出て行った。僕は紙を四つ折りにすると、クシャッと丸めてポケットの中に入れてから、これが久保のものだったことを思い出した。
「久保、それじゃあこれを理玖に返してやってよ、ちゃんとおれが書いたんだってことを言ってね?」
久保は後ろめたそうに机に視線を落とせども、僕の差し出す手紙を受取ろうとはしないのだ、どうしたの? といくら訊いても黙ったままでいるかと思えば、突然覚悟を決めたように顔を起こして、
「葉子、それじゃあ来いよ」
そして真っすぐで、遅い確信に貫かれたような眼で、僕を見返して来たのだ、なんだよと僕が思わず笑い出しても、久保の目は土星の渦巻きのようにもグネグネとどこも見ていないようなのだ。ふん、お前がおれに見せれるどんなビジョンがあるというのさ? だけど僕にはそれはわからない、わからないのだから久保の考えを読もうなどという考えは捨てて、ああ例え久保がつれしょんに僕を誘ったのだとしてもそれでもかまわないからお前にもどこまでもおれを連れ去るつもりでいる奴がいるならついて行ってやろうかな? なんて、さっそく詩の効能があったなんてそんなバカなことを言うつもりはないけど、僕はそのときそんな風に思ったのだ。
「よし、いいぜ、それじゃあ行こう!」
教室を出ると、廊下に並んであるロッカーに寄りかかって美見とひよりがくすぐり合うように話していた。二人は僕らを見るとニンマリといたずらっぽく笑って、ひらひら手を振った。ひよりは眼だけというように笑いながら視線で僕らを追いかけ、蝶が飛ぶ向きに頓着しないように、また美見の方にじゃれたような眼を向けるのだった。僕らがこのまま学校を出て行くことを悟ったのか、美見がバイバァイとふざけたように言うと、久保はたしなめるように首を素早く振って、それでコミュニケーションが成立したような気にもなるのだ。僕が補完的に微笑むと、久保はイクゾと言うように僕の肩を叩いて……僕らはそして、階段を降り、廊下を渡って、昇降口で靴を履き換え、駐輪場の傍まで……すると二階の窓ガラスを開けて下を覗き込んでいたひよりと美見は、今ようやく目の前を通過した僕らの行動の答えを知ったと言うように少しはしゃぎながら、別にこちらにも聞こえている朝礼の時間を告げるチャイムの音を必死に伝えようとしてくる。始まるよ! と、僕はふっと笑いながら二人から視線をそらすと、風を読む鳥のようにじっとして動かない久保と向かい合う。
「どうしたんだよ、久保、行かないの?」
すると魔法が溶けたように久保は、びくんと震える、行こう、とぼそっと呟いてからは振り返りもしないで僕を連れて行く。
*
学校を出てしばらく歩いていても、久保は一向に口を割ろうとはしなかった。
「おい久保、いくら口下手なお前でも、もう少し言ってくれないとわからないよ、お前はきっとおれを、お前の理玖のところに連れて行ってくれるんだね? それなら、おれには願ったりかなったりなわけだけれど、少しお前の考えも聞いてみたいよ、お前はどうしてそんな気になったわけ?」
久保はじろりと遅い眼で僕を見つめる、それはたしなめるというよりは、覗き込むようなそれであり、考えるというよりは、動物がただそうしているというようだった。僕たちは坂道を下って、駅前の大通りまで出た。車が走り交わすのに翻弄され、久保は首をあちこちにやり、タクシーを見つけると、片手を力なく持ち上げながら、よろよろと車道に飛び出した。タクシーが減速しないのに合わせて久保の足は加速し、ついに車道に飛び出すと、久保の懐に飛び込む犬のようにタクシーは止まった。運転手は僕ら二人が学生服を着ているのに気づくと、怪訝そうに目を細くした。久保はすぐに回り込んで、運転手の降ろした窓越しに、こいつを、どこどこまで、と携帯を見せながら指示を出したのだ。そして僕を車の奥へ詰め込んだ。
「お前は? 来ないの?」
久保はそれを無視して、あくまでも案内人という体なのだ。
「降りたら目の前の赤い倉庫の脇道の奥に、古い家があるから、そこへ。多分、制服を見りゃそれだけでわかると思うから」
「つれないねぇ、久保、まぁ別にいいけど、そんなに学校に戻りたい? まぁいいや、そうだ、金は? おれは持ってないよ」
久保は車内に腕を伸ばして、僕に黒い革の折り畳み財布を手渡す。
「これで払え。使ったら理玖に返して」
「ふーん、これが理玖のなんだ」
「いいや、お爺ちゃんの」
「ふぅん、自由に使っていいわけ?」
「カードが入ってるだろ? 赤いカード」
「ふんふん」
「それで払えよ」
「ふぅむ、それじゃあ。お前はほんとに来ないんだね?」
「おう」
「んじゃあまた学校で。おれは、保健室へでも行ったと伝えといてよ、多分、ひよりたちがそういうことにしてくれてるかもしれないけど」
「わかった」
「お前は、脅されでもしたの? おれをこんな風にして、これが生贄だってことはないよね?」
「ないよ」
「お前は、おれとその理玖ってお前のいとこのために働いてるんだね?」
「そうだよ」
「ふん、あんたがおれにしてくれた最初のことだ、お前にどんな魂胆があろうと、こっちにゃ渡りに船だ」
「じゃあな」
「ああ、今日もお前は素っ気ないねぇ、なんというか、踏み込んでこないというか、どうしてあんたはそんなに、おれが傷つけるに違いない、と思うのか、そんでそんなに傷つくことを恐れていては……」
「知らねぇよ、ドアを、早く」
「ああはいはい、お前がどういうつもりなのか、それだけを知りたかったよ、いいや、でもいいや、理玖を信じてやろう、理玖とお前を、お前をこんなに従わせるほどの用があるわけだ、用と説得力が、その理玖って奴には……ああ、どんな顔してたっけなぁ、ネットで見たのじゃ、作家だって? どうなるんだろう……」
「じゃあな」
「理玖と上手くいかなかったら、学校に戻るよ、そのときはどうせお前と話したいだろうから、もしも仲良くなれたら、お前も来なよ、放課後にでも……まあいいや、お前の好きにしな!」
*
退屈な国道の道をずっと進んでから、ふと一本の、それにしても田んぼのずっと続く間の真っすぐに伸びた小道に入り、ずっとずっとその真っすぐな道を行くと、ようやく集落が現れる。低い家並みと、消防団の抱えるグラウンドのその奥には、ところどころに海が見える。集落に入り、村の一本道をぐねぐねと行くと、ついに視界が開け、そこには赤さびた巨大な倉庫がある。その手間に、黒の軽自動車が一台止められてあった。そのお尻に頭を着けてタクシーが止まると、僕は久保に言われた通りカードで支払いを済ませた。それにしても、僕が住んでいるのよりももっとずっと田舎で、昼間でも静かすぎて、波の音まで聞こえてくるほどなのだ。辺りを見回していると、倉庫の脇の小道から、ひとりの女性が歩いて来た。煙草を口に加えた、長い髪の、細いデニムに、こんな季節にもうダウンジャケットを羽織った、とても大きな目をした女性が、僕に気が付くと、ピントを合わせるようにじっとこちらを見つめながら、老爺が小さな本に目を凝らせるような、こんな日常的な無意識というような仕草で髪をかき上げて、はぁと煙草をふかすと、びっくりするほど大きな目でじっと僕を見つめてくる。しかしそれは、よく見ると鋭くも怖くもないもので、優しくはなくとも温かく包み込むような眼差しだったのだ。女の人はにっこりと笑いながら、
「葉子君?」
そう言うので、
「まさか、理玖なの?」
するとその女の人はあははと笑って、
「私は恵美だよ。理玖なら、入ってすぐの家にいるよ。久保君の友達? だよね?」
「ああ、はい、葉子です」
「待ってたよ、朝から、ちゃんと来てくれるかなあって」
「そうですか」
「遠かった?」
「少し」
「家でゆっくりしていってね。私は、ちょうど散歩に行くところだったんだけど、家までの道は大丈夫?」
「あの小道を回って?」
「そう、すぐそこが家」
「わかりました」
「それじゃ」
「散歩って、海にでも?」
女の人は首をすくめて、うーんと悩むように目を泳がせてから、
「海沿いに、一軒だけお店があるの、そこに。詳しくは理玖が色々教えてくれるよ、じゃあ、またね。理玖が先ずは二人にしろってうるさいんだよ」
恵美は困ったように笑うと、あとは一度も振り返らないで海の方に歩いて行った。僕はすぐに、恵美がやってきた道を辿った。すると倉庫の裏側に出ることができた。そこは庭になっていて、荒れ果てた畑と、離れ屋がひとつ、そして家は正面にある。
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