第7話 花山院さおり
翌日、二人は出勤するために1階に降りて行った。
エントランスのドア越しに青空がみえる。
今日は快晴だ。
きっと心地よい風が吹いているだろう。
きっと、昨晩の怪異を吹き飛ばしてくれるだろう。
エントランスに飾られた不気味な絵を横目に、早くさわやかな空気に触れてみたいと思っていると、目ざとく京太郎を見つけた花柄ワンピースの占い師が駆け寄って来た。
(うわっ、またややこしいおばさんがからみついてきた。お願いだから、朝っぱらから疲れることはやめてよね)
花柄占い師は、いかにも重大ニュースよと言わんばかりの興奮した面持ちで京太郎に言った。
「わたしたちの玉三郎さんがお亡くなりになったのよ」
(あ? 玉三郎じゃなくて玉念だろう。宇佐美玉念だよ。彼が亡くなったって。あのバケモノ女に噛みつかれたから? 爪で引っかかれたから? そこから毒かウイルスが侵入して玉念の命を奪った? レアケースだけど、あり得ないとはいえない。そうか、玉念が死んだのか)
京太郎は今日子を見た。
今日子も(玉念が? 亡くなった?)と思考が整理できていないような顔をしている。
京太郎が言った「館の近くにあるという精神病院も調べないといけないな。もしかしたら、そこも魔窟かもしれない。そして、二つの魔窟が縄張り争いをしているのかもしれない。そうだとしたら面白い。とても面白い」
しかし、占いおばさんだけの情報では事実かどうか分からない。
そこで、京太郎と今日子は大家に確認した。
「宇佐美玉念?どうして君たちはその名前を知っているのかね。ま、いいか。確かに、彼は死亡したらしい。なので、相方も出て行った。荷物を全て残してな。もちろん、処分代はいただいた。あのヒマな占い師たちを総動員して片づけさせるつもりだ」
今日子が訊いた。
「彼の相方は女性を装っているけど、男ですよね」
「そこまで読めているのか。君たちは何者なのかね。ま、いいか。何も詮索しないのがここの掟なんでね。どうでもいいか。確かに、君の言う通り、奴は男だ。名前は宇佐美玉琳うさみぎょくりん。玉念の双子の弟だ。もう出て行ったからどうでもいいことだけど」
やがて二人は7階の女性と対面することになる。
それは夕刻、二人が買い出しに出かけようとしてエレベーターを待っていたときのことである。
今日子の背中に悪寒の虫が蠢きだした。
(嫌な予感だわ)と横をみると、京太郎が相変わらずの飄々とした面持ちで立っている。
(なにも感じていないのね。ま、神経質な男よりはずっといいわ。手首の痣に敏感に反応してくれたし、ここぞというときにさえ感知してくれればいい)
今日子の予感通り、上からエレベーターが降りてきた。
(上から?)二人は顔を見合わせた。
大家の忠告を思い出したからだ。
大家はこう言っていた。
「上から降りてくるエレベータに和服の綺麗な女性が乗っていたら、絶対に相乗りするな!これは絶対だ。乗らずにやりすごせ。もう一度言う、これは絶対だ」
静かな廊下に響くエレベーターの音が、二人の心臓の鼓動を早める。
少し緊張しながら、降りてくるエレベーターを凝視していた。
その中にいたのは、まぎれもなく大家が言っていた女性だった。
縞模様の和服に身を包んだ、30歳ごろに見える綺麗で上品な顔立ちの女性。
その姿が消えようとしたその瞬間、女性が顔を上げて二人を見た。
上目遣いに見せたその顔は、少し微笑んでいるように見えたが、その微笑みはどこか冷酷さを孕んでいた。
それを見た瞬間、京太郎の背中から汗がにじみ出た。
(こいつはヤバイ奴だ。しかも相当にヤバイ)と心の中で叫ぶ。
今日子の脇からも冷汗がわずかに出ていた。
(魔物ね、間違いないわ。しかも宇佐美龍賢を遥かにしのぐ妖気を放っているわ)
今日子が言った。
「不気味な笑みでしたね」
「ああ、一瞬だったけど、今にも口が裂けそうな顔をしていたな。あれが7階の主か」
後で大家さんに聞くと彼女の名前は
彼女の存在感は、まるで周囲の空気を変えてしまうかのようだった。
二人はその場から逃げ出したい衝動に駆られたほどの存在感だった。
彼女の微笑みの裏に潜む何かを感じ取り、恐怖が心の奥底に根を下ろしていくようにも感じられた。
花山院さおり。
今日子が言った。「花山院さおり、そう、それでこのマンションの名前が花魔なのね。花の字がつく魔物」
「ということは、このマンションの実質的なオーナーは財前廉太郎ではなく、あの女性なのかもしれない」
「ここはまごうかたなき魔窟ね」
その夜、二人は同じ夢を見た。
それは宙に浮く花山院さおりである。
目は閉じられている。
端正な顔立ちだと思っていると、突如、その目がカッと見開かれた。
狂気が滲んでいるようなどんぐりまなこだ。
しかも、瞳孔が猫の目のように縦に細くなっている。
その瞬間、周囲の空気が一変し、冷たい風が吹き抜けるような感覚に襲われた。
「うわっ」二人は同時に飛び起きた。
心臓が激しく鼓動し、冷や汗が心の中を流れる。
二人はそれぞれの部屋からダイニングルームに出てきた。
薄暗い部屋の中で、互いの顔を見合わせると、言葉がなくても感じる緊張感が漂っていた。
「夢を見た?」と今日子が聞いた。
彼女の声は心なしか震えていた。
(今日子でさえ怯えるとは)
「ああ」と京太郎は眠い目をこすりながら言った。
「これであの女自身が怨霊であるか、あの女が怨霊に憑依されているかのどちらかだと確信できたね」
「私たちに喧嘩を売ってきたと」
「そうだね、何しろ二人共、凶の字だからね、その匂いを感じ取ったのかもしれない」
夢の中のさおりの豹変した姿が脳裏に焼き付いて離れない。
彼女の目が見開かれた瞬間の恐怖が、まるで現実のように感じられた。
今日子は「どうします?」と京太郎に尋ねた。
「まずは、彼女についてもっと調べる必要がある。何か手がかりがあるかもしれない」と答えた。
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