勧酒

笠井 野里

第1話

『ひさしぶりー! 笠井くん、今晩飲まない? 奢るから! 至急帰ってきて!』

 スマホの通知欄に表示されたメッセージを無視して、後輩JKに手コキされる純愛モノのシナリオを書いていたら、着信音がピロリピロリと鳴った。内定の電話だろうか。電話嫌いのおれも、就活中ばかりは着信音を付けていないワケにはいかなかった。

「はい、もしもし、笠井です」

「モモだけどー、覚えてるかな?」

「うん。久しぶり。元気してた?」

「うーん、あんまり。……DMみた? 今日ヒマ? 一緒に飲まない?」

「おれ今東京に居るんだけど」

「知ってる! 今すぐ帰ってきて! 奢るからさ! どうせヒマだら?」

「ヒマだけどさぁ」

「じゃ、URL送るから、ここ来て! 5時集合で」

 電話が切れた。

 おれはGUの服を着て財布とスマホ、イヤホンだけ持って、外へ出た。九月にしては暑く、空には雲ひとつない。約束の時間まで四時間を切っている。

 鈍行で四時間かけて地元静岡の富士に帰ってきた。その間なんども、四時間をかけて飲みに行くことを決めた自分を馬鹿だと思った。電車に乗るのは好きじゃない。四時間近く立っていることも好きじゃない。もう夕暮れどきで、青空は紫と赤に染まってしまった。


 駅前のチェーン居酒屋の前に立つ女がこちらに手を振っている。成人式の二次会ぶりなので、そこまで変わった印象はない。明るく、少しあざとく、どこか清楚な感じ。あんまり、というわりには元気そうだった。彼女の姿をみてるとデートにでも来たような気分になる。

「ひさしぶり。成人式でも言ったけどさぁ、やっぱ笠井くんは眼鏡ないと違和感あるなー」

「そっちこそ、眼鏡の印象が強いんだけど」

「どう? コンタクト似合うかな」

「まぁね」

「そっか、よかった」彼女は微笑んで、「とりあえず、入ろっか」

 店の扉を開ける彼女の後ろをついていく。大人数で飲むつもりで来たのだが、もしかして二人きりなのだろうか。


 店内は妙にオレンジがかった照明で照らされていた。半個室がズラッと並ぶ廊下を、金髪の女店員に連れられ歩いていると、ときたま酔っ払いの笑い声が聞こえる。一番奥の席に通された。ようやく椅子に座ることができた。店員も部屋のしきりをくぐり、待ちだした。

「最初のオーダーここで聞いちゃいますね」

「なににする?」

「とりあえず生かな。おごりなんだよね? 遠慮しないからね」

「わたしは…… カルピスサワーで。枝豆も頼んどく」

 注文を確認して、店員が去っていく。それから息つく間もなくドリンクが届いた。

「じゃ……乾杯しますか。――生きていてよかった、乾杯!」「かんぱ〜い」


 グラスをぶつける。ビールを飲みながら、ある友人のことを思い浮かべていた。飲みの約束を延ばすうちに、事故で死に、彼とは永遠に飲めなくなってしまった。道中かなりダルかったが、来てよかった気がする。それに、シナリオつくりや就活の息抜きにもなるだろう。シナリオに活かせそうな要素を現実の女性から取材しておきたい気持ちもある。

「ね、そういえば生きていてよかったってなんなの? 成人式のときも言ってたら?」

 彼女はグラスを包むように持ちながら問いかけた。

「生きてこの場に集まれたことに感謝を込めてる」

 冗談と解したのか、彼女はニコリと笑った。色の薄い唇が持ち上がる。

「なんか笠井くんって妙なとこでロマンチストじゃない?」

「まぁね」

「そういうとこ、けっこう好きだよ」

「なにそれ、告白?」

「まぁね」

 彼女はおれの言った言葉を返す。馬鹿な頭が勘違いしかけている。かわりに別のことを考えた。


 生きてることに感謝――これはおれの好きだった人が、シホが教えてくれた言葉だ。隣の席に座って、話していたとき、フッと出た言葉。もう何年も前の話で、今シホがどうしてるのかはわからない。遠くに行ってしまったから。

 少し遅めにお通しの揚げ出し豆腐と枝豆が届いた。枝豆はあまり発色がよくない。おれは小皿を分けると、一個枝豆をつまんで食べる。思ったより美味かった。彼女はつまみには手をつけず、カルピスサワーを飲んでいる。

「そういえば酒弱いんじゃなかった? 飲んで大丈夫なの?」

「今日は飲みたい気分なんだよねー、酔ったらよろしく」

「おれも酔い潰れるつもりで来たんだけど」

「奢りだからってがめついなぁ、モテないよ?」

「まぁね。モテなんて気にしたことはないし」

 彼女は手を広げてやれやれのポーズをした。そしてニヤけながら、

「笠井くん、大学で彼女できた?」

「この流れでそれ聞く? できるわけないじゃんか」

 ふーん、と彼女は目を細めた。

「わたしが彼女になったげようか?」

「そうやって童貞を誑かすと痛い目に遭うよ、やめといたほうがいい」

 ビールをあおって、おれはため息をつく。目線の先に、一人の女がいることをイヤでも意識してしまう。甘い香水の匂い、薄鼠色のワンピースに白い薄いカーディガンを羽織る女が、目の前にいる。――シナリオにデートを挟んでもいいかもしれない。もちろん居酒屋で飲むなんて感じではなく、水族館なんかに行くような健全デートだ。チンアナゴをみながら「先輩のオチンチンみたい、細くて、ちっちゃくて、かわいい」と囁かれるような感じ。メモを持ってないのが悔やまれる。


「なに? 見惚れてるの?」

「ああ、かわいかったからつい」

 彼女はびっくりしたような顔して、また酒を飲む。もうグラスを空にしてしまっていた。おれも残ったビールを飲み干して、注文を取る。生、カシスオレンジ、イカフライ、塩唐揚げ、サラダ。手持ち無沙汰になって豆腐を食べていると、テーブルに肘をついた彼女がぼやくように言った。


「わたしさ、彼氏に浮気されちゃって、だから今日はパーッと飲もうと思ったの」

 天井を見上げる彼女に、かけるべき言葉を探す。しかし、大学生の恋愛にはセックスと浮気がつきものだと思っているのも否定できなかった。電車が通る音が聞こえる。それが止むのを待って、ようやくおれは、

「……ドンマイ」

 としか言えなかった。パーッと明るく、なんてのは向いてない。だいたい人の恋愛談を聞くのはニガテだ。おれの空想の恋愛が現実に蹂躙されていく感じがする。

「でも、わたしだって似たようなもんかな。浮気されてフラれて、すぐ男と飲んでんだし」

「そんなもんじゃないンすかね。……現実の恋愛なんて」

「そんなもんなのかなー」

「そうは思いたくないけどね」

 酒が届いた。けだるく重苦しい空気を察した店員は足早に去っていった。


「あのね、わたし…… もしかしたら彼のこと、そんなに好きじゃなかったのかも。ただ周りが付き合ってるから、自分もよさそうな相手を探して、デートして、付き合って――でもさ、それって本当に愛? 恋なの?」

「彼氏と一緒にいて楽しかった?」

 一瞬彼女の顔が曇るのがみえた。

「それは、そうだけど……」

「で、浮気されて傷ついて、それって立派に恋じゃないかな? すくなくとも人並みには恋してたんじゃないの」

「彼、いい人だった。同じサークルで趣味も良かったし、服も褒めてくれるし、デートしてて楽しかった。でもそれだけだよ。ドキドキとか、そういう気持ちはなくて。――それにさ、わたし、浮気されてるって知って、すこしホッとしたの」

 おれは黙ってしまった。恋愛経験もないおれにこんなことを語ったとて、アドバイスどころか共感すら難しい。


 アルコールが思考を鈍くしている。おれはさっきの発言を後悔していた。じっさいおれには恋愛のカタチなんてわからない。人並みがどうなのかも。

 おれはぼんやりかけるべき言葉を探りながら彼女を眺めていた。たしかに浮気された直後にしては、沈んだ感じがない。視線の先にある口元が開いた。

「でもね、わたし今、ドキドキしてるよ」

 彼女の頬は薄く赤くなっていた。あたりの音が大きく聞こえだす。笑い声、ホールに響く「オーダー入りました!」「ありがとうございます!」の声、食器をカタカタ言わせる音、そして頭に響いている「わたし今ドキドキしてるよ」

 おれは、どう感じているのだろうか。


「……わたし、昔からずっと笠井くんのこと好きだった気がする」

「そうなの?」

「なんか、切なげでさー。かわいくて。守ってあげたいような、でもその思いって届かないし、そういうこと考えてるとさ、ドキドキするんだよね」

「そんなこと思ってたの? 切なげなんて意外なんだけど。そんなつもりで過ごしてたつもりもないし」

「今もそうだよ」

「今も?」

 切なげな男が同人音声のシナリオを考えたり、女の身体を舐め回すように見るだろうか。節穴の目をしてるんじゃないか。コチラを見る目を覗きかえした。が、そこには目ん玉が二つついていて、穴はない。眼鏡もない。おれは言う。

「そうかな」

「今笑ったでしょ。そういうとこかな、うまく言語化できないけどさ、やっぱ見てるとドキドキするの」

「恋は盲目ってヤツ?」

「かも。だって中学のときコレ言っても誰も理解してくれなかったし」

 おれはビールを飲んだ。苦い味が広がっていく。コトンとジョッキを置いて、下卑た笑みを浮かべてみた。彼女のおれにたいする幻影を打ち砕きたくなった。


「あのね、おれは少なくともモモちゃんが思ってるような人間じゃないよ。今だってこう失恋の話を聞きながら書きかけのシナリオのこと考えてた。使えそうだなって。だいたい今日来たのだって、奢りだから暴飲暴食の限りを尽くそうってワケなの。なんなら今、ヤれるんじゃないかとかも思ってる、ウキウキしてる」

 それを聞いて彼女は笑った。騎虎の勢いで続ける。

「ヤれそう、と言ってもただヤるだけじゃないよ。一発ヤっとけばセックスを書きやすいんだよ、できれば罵ってくれるとオトクだな、しか考えてない」

 言い終わると、店員が入ってきた。醒めた目でこちらを見つめ、つまみをテーブルに置いて出ていった。テーブルの木目を見つめながら、なに言ってんだろ、と思った。


 くすくすと笑う声の先には、ふらふら揺れている彼女の顔がある。店員と対照的に、なんだかあたたかい目をしていた。

「なに急に、どしたの、そんなこと言ってさー、セクハラ?」

「まぁね」

「で、結局なにが言いたかったのかなー?」

 おれは、真面目な顔に戻らざるをえなかった。

「つまり…… おれは切なげな顔をするような人間じゃないってこと。切なげな顔してるヤツはもっと高尚なことを考えてるもんだよ」

「高尚なことって?」

 聞いてから彼女はイカフライを口に入れた。

「どうだろうな。よくわからないけど…… たとえば遠くに行ってしまった人を想うだとか、死について考えてみるだとか――」

 ここまで言って、ここで挙げた高尚な考えとは自分がやりたくても出来ていないことだと気がついた。

 言い淀むおれの台詞を、彼女は遮った。

「でも笠井くん、シホちゃんのこと、まだ想ってるんじゃない?」


 シホ、か。おれは天井を見上げて、妙な色の灯りがぶら下がっているのをみた。もうシホの顔も声も忘れている。想うもなにもない。彼女が北海道に行っておれに残ったのは臆病な心だけだった。シホと連絡を取る勇気もなく、スマホが変わって連絡先もなにもかも失ってしまった。今頃シホも「生きていて良かった」なんて言いながら男と酒を飲んでいたりするのだろう。

「ビンゴって顔だね。わかりやすいなー」

「おれがシホのこと好きだったって気づいてたの?」

「そりゃーわかるよ。いつも隣の空席を眺めてんだもんね。なんでもお見通しってワケ」

 彼女はおれの口調を真似て言う。


 たしかにおれはシホのことを好きだった。たいした理由があるわけじゃない。ただシホは、趣味の読書の影響か、おれの書いた作品を読んでくれた。いつも感想をくれる。授業中にパラパラと原稿用紙をめくって、ノートの切れ端に「おもしろかった!」と書いて渡してくる。そして休み時間になると「面白かったよ! 台詞もよく考えられてると思う! でもここの感情の移り変わりが雑かな」と、丁寧な批評をくれる。そして「ちゃんと本を読んで勉強しないと」と言い、本を貸してくれた。ちゃんと作品を読んでもらったのは初めてだった。


 懐かしいあの頃から居酒屋に視線を戻すと、モモちゃんは酒を飲んでいた。いつの間にか笑みは消えている。また空になったグラスを置くと、おれから視線をそらした。彼女はため息をついてぼやいた。

「わかってたのに……」

 彼女の瞳に涙が溜まっているのをみて、直感した。彼女を失恋させないといけない。おれが取れる唯一の責任はこれだけだと思った。

「おれさ、多分まだシホのこと忘れられてないから……」

「わたしが忘れさせてあげるからさ、それじゃダメ? ダメなの? 笠井くんだけ"現実の恋愛"でいいからさ」


 女の敵、と遠くの席の酔った声がこちらに聞こえてくる。ギャハハという笑い声があとから響いてきた。

 おれは弱虫だ。結局シホを隠れ蓑にして、恋愛から逃げているんじゃないだろうか。眼の前で涙を流す彼女は、とてもかわいい。そしておれのことをこんなにも好いてくれている。それは本来喜ばしいことだ。ありがたいことだ。が、おれはそんな彼女に後ろめたさを感じた。そして少なからず好きという気持ちにたいする嘘くささも感じた。感性が摩耗していくような気がした。

「……おれを好いてくれているのは本当に嬉しい。けど、だからこそ、ダメだ」

 真っ赤な顔の中に二筋の光が落ちていく。それを彼女は手で拭き取って、無理に笑ってみせた。


「ごめんね、こんなこと言ってさー。困らせちゃったら? 本当にゴメン。わたし帰るね。お金、置いとくから、好きに飲んで。お詫びとして受け取ってよ」

 そう言って彼女は財布から万札を一枚抜いて机に置いた。半個室をそそくさと出ていく彼女を、おれは声をかけずただ見つめるだけだった。


 酒代も浮いた。結局セックスはできなかったし、シナリオのネタになるようなことなんて一つもなかったけど、これでよかった。そう言い聞かせながら、ビールを飲み干す。瞬間胃にこみ上げる感覚があった。おれはいそいでトイレに行って吐いた。

 見上げた先の張り紙には「花に嵐のたとえもあるぞ サヨナラだけが人生だ」と書いてある。まったくその通りだ、と毒づいて、もう一度吐いた。おれは半個室に戻った。そしてビールを飲んですべてを忘れるために、店員を呼んだ。

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