第112話

でも腕を組み二人がゆっくりと歩いていく途中。ふと、女が朱朗のハットのつばを人差し指で上がる。



朱朗の足が止まった瞬間、女が朱朗の唇にキスをした。いや、ぎりぎり唇の端だったかもしれない。



「(っ―――――)」



星來の心臓が、何かに固定されたかのように鎮まる。



朱朗が一瞬、身体を反るようにして女から離れかかるも。



彼女の頬にキスをして、そして強く抱きしめた。



「(――ウソ――)」



こういうの、映画やドラマ現場のワンシーンで何度も見てきたけれど。



演技じゃないと、そんなにも自然な笑顔を生み出すのね―――……。



あまりにも、辛い現実を見せられて。今までずっと分かっていたことなのに。目の前で繰り広げられる光景ほど凄惨なものはないだろう。


  

自分が、どんなに一弥にキスを求められようとも、拒んできたのに。それが頬であろうが額であろうが関係なく、キスというもの全てを。



不可抗力だなんて言葉では済まされぬよう、気を張ってまで朱朗との不可侵条約を守ってきたのに。



ああ、そうか。朱朗はクズだから。



守るなんて言葉は私の前だけで、見えないところでは守る必要のないものと化する、馬鹿みたいな約束事。



私と朱朗が結んだ条約なんて、世界のどこにも通用しないから。


 

二人の約束事は、二人の間でしか作用しない。ただの飯事ままごとだ。



演技で作られた既成事実は、演技でしか終われない。

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