ショートショート

鱗茎アルカ

『美容師と喫茶店』

目が疲れて、コーヒーを一口。頭が重くなって、チョコレートを一口。

仕事を辞めた私は、カフェでスマホとにらめっこ。次の仕事を探さねば。そう、転職です。


これまで私は、美容師の仕事をしておりました。

人間の髪は素晴らしいものです。長さやバランスを変える、色を変えるだけで、人の印象はがらりと変わる。子供の私は、それはもう憧れたものです。専門学校にも通い、必死に勉強し、練習して、資格をとって、必死にしがみついて、なんとか美容師のお手伝いをして。

お客様を、さらにかわいく、さらにかっこよく、さらに美しくしなければと。お客様とお話をして、気を遣って、、


気がついたら、大人になっておりました。

しがみついているうちに、なんだか辛くなってきて、素晴らしいと思っていた人の髪も、いつしか憂鬱に見えてきて。いったい私は何を目指していたのかわからなくなって、ある日、辞めてしまいました。


それから1ヶ月、次の仕事を探すために努力はしていますが、子供の頃から美容師を目指して勉強していた私に何ができるというのでしょうか。

机にあったはずのチョコレートは、紙袋だけになり、コーヒも底をつき、今日もなんの成果も挙げられず、家に帰ろうかと思ったその時。


「サービスです」


と、白い髭の生えたカフェのオーナーが、コーヒーをもう一杯出してくださいました。 そのコーヒーは、さっきと比べて少し苦く、少し酸味が抑えられていて、でもいつも通り、深く、優しく、あたたかく、私の心を癒やしてくださいました。


「とてもおいしいですね」


と、私はオーナーに伝えました。オーナーはその白い髭を優しく撫でながら、しかし寂しそうに


「ありがとう、ございます」


と一言、答えました。


コーヒーをサービスしていただいたありがたみと、その寂しげな表情に少し寄り添いたくなった、いや、私がもたれかかりたくなったのか、話を続けました。


「つかぬことをお尋ねしますが、どうして、カフェを開こうと思ったんですか。」


オーナーは優しく、しかし、やはり寂しげな表情で教えてくださいました。


「このお店は、私の父親が経営しており、それを継いだまでです。」


「素敵ですね。」


と私は答えましたが、そんな大義名分みたいなものがあるオーナーを少し羨ましいなと思ってしまいました。そして、今の私の悩みを打ち明けてしまいました。美容師を辞めて、でも他に何をしたらいいかわからない私の悩みを。


そこでオーナーは一息ついて、言いました。


「私も、このカフェを、もう閉じてしまおうと思うのです。」


言葉が出ない私を横目に、お皿を洗いながら、オーナーは続けます。


「母親は私が幼少間もない頃に不治の病で他界してしまい、それから父親は一人で私を育ててくださいました。その父親も、私が成人する頃に病にかかり、母親の元へ旅立ちました。それからは、一人でこのお店を継ぎ、なんとか今までやってきましたが、なんせ父親がどうやってコーヒーを淹れていたのを教えて貰う前にいなくなってしまったので、試行錯誤しながらでありました。お客様の中には、父の淹れたコーヒーを楽しみにいらっしゃる方が多く、私が継いでからは、だいぶお客様が減ってしまいましたが、なんとか細々とやっておりました。ですが、どんな味が父のコーヒーなのかわからずじまいで、それを求めるあまり、私の淹れるコーヒーに一貫性が無くて、いつしか常連のお客様は、あなた一人となってしまいました。」


私は何も言えず、ただ少しでも羨ましいと思ってしまった自分が、少し嫌になりました。


「もう父に固執するのはやめて、自分を探す旅に出ようと考えております。」


ようやく私は口を開きました。


「私は、このお店のコーヒーが好きでした。この1ヶ月、何も仕事が見つからない私を支えてくれたのは、このコーヒーでした。一貫性はなくとも、あなたの淹れるコーヒーは、深く、優しく、あたたかいのです。そんなあなたなら、きっと、素敵な自分を、すぐに見つけられると思います。」


美容師の仕事癖が出てしまったのか、気遣ったような、わかったようなことを言ってしまったと思い、すぐに謝りました。オーナーはまた寂しそうな顔をしながら、でもあたたかい笑顔で、


「ありがとう」


と一言言いました。その顔は、少し泣きそうで、でも満足そうで。


私が美容師を辞めたあと、お客様は、仕事仲間は、友達は、家族は、どう思ったのか。今ならなんとなくわかる気がしました。私が美容師を辞めるとき、まだ続けてほしいと言わず、ただ、ただ寂しそうな顔をした、してくれた一人ひとりの顔を、思い出します。


私はまた、何も言えず、コーヒーをすすりました。

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