第2話 青い空の真ん中で

 幽霊が僕を殺そうとしている? 約束を守らなかったから? そんな話、あってたまるかと叫びたい。だが、否定しようにも、もしも本当のことだったら? という気持ちが邪魔をしてくる。呼吸が荒くなり、その度に頭の中から幽霊のことを振り払おうとする。


 そんな感じでさいなまれながら、今日の学校が終わった。早く帰りたい。部活の顧問の先生には、家の都合で帰りますとだけ伝えて、帰りの会を済ませ、帰りの準備をする。


「なぁ、樋口。校門のところ見て見ろよ。あれ、誰かのお父さんかな」


 友人に言われて校門の方を見ると、黒ずくめの男の人がそこに立っていた。マスクはしていないから顔は分かる(中々いかつい顔つきだ)が、全身真っ黒な服を着ていたり、大きめの黒いバッグを背負っていたり、どことなく怪しい雰囲気がその男にはあった。


「もしかして、不審者ってやつか?」


「馬鹿、変なこと言うなよ。って、あれ? あれは保健室の先生だ」


「マジ?」


 見ていると、保健室の先生があの男の人の傍まで歩いて行くところが見えた。二人で何か話し込んでいる。


「なんだ、保健室の先生の知り合いか。だったら不審者じゃないな」


 担任の先生が、「本当に不審者がいてもいけないので、二人一組以上では変えるようにして下さいね」と一応の注意喚起をしている。だが、今日は僕は部活をしないので、一人で帰ることになる。


 もし本当に不審者がきたらどうしよう。どこかに連れて行かれてしまうのだろうか。夢や幽霊への不安だけでも手一杯なのに、不審者まで現れたらと考えると、もう頭がパンクしてしまいそうだった。


 そんな時、教頭先生が二人の方へと向かっていくところが見えた。何の用なのか聞きに行ったのだろうか。すると、黒ずくめの人は帽子を目深に被り、歩いて去っていった。保健室の先生はそれを見送ってから、教頭先生と話し込んでいる。結局何だったのか、ここでは分からない。


 ひとまず、今日は早足で帰ろうと思った。何だか、嫌な予感がしたからだ。一人でも、防犯ブザーもあるし何とかなるだろうと高をくくった。


 そして、帰り道。本当に、ふと何気なく後ろを振り返る。すると、そこには先ほどの黒ずくめの男がいた。隠れてこちらを伺っている。

 思わず、防犯ブザーに手が伸びた。一体、何の用だろう。実は本当に不審者なのだろうか。


 だが、こちらに気付かれたからか、黒ずくめの男は振り向いて引き返していった。どうやら、これ以上付いてくるつもりはないらしい。偶然同じ道だった可能性もあったので、ちょっと気が早かったかなとも思ったが、去って行ってくれたことには正直ホッとしていた。これで何も気にすることなく帰れる。


 そう思って、家へと帰るために角を曲がったところで、見えた。見えてしまった。電柱の傍に、夢に見た女の子が立っている。右眉の上にほくろが見えたから、すぐに分かった。

 とにかく駆けて逃げよう。そう思った。だが、その女の子と目が合うや否や、気分が悪くなってきた。


 普通の気分の悪さではなかった。頭がぐらぐら、ぐらぐらと揺れる。

 その調子でいると、やがて女の子が「こっちへおいでよ」と声をかけてきた。なぜか、付いていかなければならない気がして、女の子へ付いていった。


 すると、どこかのビルへと辿り着いた。そこで、またもや女の子は言う。


「ねぇ、空を飛ぼうよ。君と飛ぶの、夢だったんだ」


 その言葉を投げかけられてから、僕のぐらぐらとしていた頭は治り、一気に夢心地になった。だから、いつの間にか「いいよ」と答えていた。

 一緒になって階段を駆け上がる。なぜか、とても心躍る気持ちになっていた。それがどんどん膨らんでいき、不安な気持ちは一切なくなっていった。その調子でビルの一番上まで階段で辿り着き、屋上へ続く扉を開けた。


 ビルの上で、欄干を乗り越える。上手く乗り越えられなかった彼女を手助けしながら、これからどうなるんだろうという気持ちで一杯になっていた。二人で一緒に並び立つ。ビル風に煽られながら眼下を見る。行き交う車がまるでミニチュアのように感じられた。不思議と怖さはなかった。


 そして、せーので一緒にジャンプして空に飛び出した。鳥のように綺麗には行かなかったが、彼女と一緒に羽ばたくことなく空に浮かぶ。

 そのまま上昇していく。まるで気流に乗っているみたいだった。髪の毛がバサバサする。気持ちいい。


 離れ離れになりたくなかったので、二人で手を繋いだ。空は肌が凍えそうなほど寒かった。彼女の手も冷たかった。思えば、異性と手を繋ぐのは久しぶりなので、少し気恥ずかしかった。そんなこと、何でもないことのように、彼女は笑顔を向けてくれた。


 こうして空を飛んでいると、まるでアニメのワンシーンだと思った。下から見れば、きっと僕たちは青の中を漂っているように見えるに違いない。とはいえ、実際にはそんな綺麗に受け止められることなどなく、こんな姿を見られれば、きっと明日の朝刊どころか今日の夕刊の一面を飾ることになるだろう。


「見て! 鳥がいるよ!」


 本当だ、と見て思った。目線の高さが、完全に鳥と同じ高さになっていることに驚く。もしかして触れられるんじゃないかと思って、手を伸ばし、宙を泳ごうとあがいてみる。隣にいる彼女も、一緒になって宙を泳ごうとあがいてくれてる。こちらに合わせてくれる彼女の姿を愛おしいと思った。


 ただ、鳥は素早かった。触れる間もなくどこかへと行ってしまった。だけど、鳥に追いつこうと夢中になれた時間は、とても充実していた。空を飛ぶというのは、こんなに楽しめるものなんだ。


 段々と、高度が上がっていく。とうとう、ミニチュアに例えることもできないほど、車が小さく見えてきた。スリルによる高揚感が僕を包む。地面から少しずつ離れていくこの感覚。何事にも代えがたいものだった。

 やがて、雲と同程度の高さになり始める。雲を掴んでみたい。


 雲が近付いてくる。雲に触ろうと手を伸ばす。だが、触れなかった。学校で習った通り、水蒸気の塊だったみたいだ。実際に触れてみてそれが分かって、ちょっと残念な気持ちになる。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけちぎってみたかった。


 雲の傍を泳ぐ。風に吹かれながら、山々を見下ろしながら。流石に雲の中に入る勇気は無かったが、雲と一緒に空を漂っているなんて、まるで夢のようだった。


「ねぇ、このままどこに行くの?」


 空を飛ぶのはとても楽しい。彼女もきっとそう思っているだろう。これから色々なことを彼女と一緒に楽しむんだ。そう思った。彼女は言う。


「ふふ、良いところよ。とってもいいところ」


「? それって――」


「もう、離さないわ」


 手を繋いでいたのは片方の手だけだったのだが、彼女は無理矢理近寄ってきて、もう片方の手もがっしりと掴んでくる。そして、また笑顔を僕に向けてくれた。そこで、目が覚める。


 どうして僕はここにいるのだろう。なんで今まで何の違和感も抱かなかったのだろう。急に体の内側が寒くなる。彼女の笑顔に、まるでときめきを覚えることができなくなる。


「一緒に行きましょう」


 どこへ、と聞きたかった。だけど、高度がぐんぐんと上昇していく。それが答えになっていると思った。


「い、嫌だ! 帰りたい! 帰して!」


 手を振りほどこうとあがく。なのに振りほどけない。相手の力は女の子とは思えないほど強かった。まだまだ、まだまだ高度は上がっていく。


 そんな時だ。彼女の体が、ぐわんと動いた。


「な――に?」


 彼女の腹部が、じんわりと紅く染まり始めた。血? 幽霊なのに血が出るのか。それに気付いて、思わず下を見て人を探そうと思った。

 いた。僕らがいたビルの上に、スナイパーが。あの不審者、スナイパーだったんだ!

 再び、三度、彼女の体がぐわん、と動く。それと同時に、胸から、二の腕から、血が弾けた。


 やがて、腕を掴んでいる力が弱まってきた。それと同時に、思いきり彼女の手を振りほどく。すると、僕はゆっくりと下降し始め、彼女はゆっくりと上昇していった。

 何が起きているのかは分からなかった。けれど、本能的に助かったのだと理解した。彼女は僕のことを、そしてスナイパーのことを、憎らしげに見つめてくる。


 僕はそのままゆっくりと、別のビルへと着地できた。スナイパーを目で探したけれど、もうあのビルの屋上からはいなくなっていた。

 何が起きたのか。それを説明してくれる人は、誰一人としていなかった。

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