第5話 眠れない 眠らない 眠りたくない


 何かあっても、何もなくても、日々は滔々と過ぎていく。


 昨日はありすぎた日だった。

 でも周囲はそんな事情など知るはずもなく、今日も授業は進む。


…ただし、「ありすぎた」当の本人たちはいつも通りとはいかない。


 今日の鈴瀬さんは、何もないときは始終唇をきゅっと小さく喰んでいて、指揮の時もいつも以上に一生懸命になるあまり肩に力が入って、普段にないミスを2、3回程してしまっている。

 あまりの不自然さに、普段から彼女と一緒にいる女子たちから探るような視線を向けられることさえある。


 恐らく鈴瀬さんの気持ちを知っていて、僕と何かあったのではないかと疑っているんだろう。もしかしたら、既に何があったかを本人から結果だけは聞いていて、その過程で僕が何をしたのかを訝しんでいるのかも。


 図星ではあるけれど、そんなに分かりやすい目をむけなくたって…

鈴瀬さんを振った僕が悪いのは間違いない。だから、僕に対する周囲の視線が絶妙に痛いのは黙って耐えておくことにするし、なるべく周囲の感情を変に煽らないように行動にも気を配るようにしている。

 ただ、偽った気持ちで彼女と向き合うことは、僕も、彼女も後悔すると思った。

 振ったことに罪悪感がないわけじゃないけれど、自分の軽率な行動で誰かを傷つけるようなことは絶対にしたくない。…それすら言い訳がましいだろうか。


 そして僕以上に周囲の視線が向かうのは、四宮だった。


 歌声も、歌い方も、何ら変わらないのだけれど、今日の四宮は僕とすら話さない。借りてきた猫よりも大人しくて、表情の起伏は皆無。まるでアンドロイドみたいだ。


 ちなみに、昨日、四宮には授業が終わってすぐに何があったのかを問われたので、僕の決断の理由も含めつつ言葉も選んで既に報告している。でも僕に真っ先に聞いてきた割には、さほど興味がなさそうな無気力な返事が返ってきた。


 「…そうか。君が熟考を経て出した答えなら、それが一番最善に近いんだろう」


 その日の四宮との会話はそれが最後だった。


 「今日の四宮君…いつもと違わない?練習中、一言も進言しない日はないのに…」

 「具合悪いのかな…」

 「なんか…調子狂う」

 「実力者たちが本調子じゃないと、土台のパフォーマンスまで下がっちゃうよ…」


 休み時間、そんな声がちらほらと耳に入る。気になるのは分かるけど、そこまであからさまに言うのは違うんじゃないだろうか。

 皆にとっての「普段の四宮」のイメージと違うと言うのなら、四宮の「普段の自分」がようやく得られただけかも知れないのに。他人に押し付けられた定型で決まる自分のイメージというものが、僕はどうしても好きにはなれなかった。



 「な…なあ、四宮」


 昼休みまで様子が変わることはなく、結局四宮本人に何があったのか確認を取ることにした。悩んでいてあの態度になってしまっているとしたら、安心毛布だの親友だのといった肩書きを捨てて、僕として聞いてあげたいと思った。

 しどろもどろになりながら彼を呼ぶと、四宮はゆるりと振り向く。一瞬陰りを帯びた双黒は、僕の姿を捉えるなりすぐさま灯をともした。


 「…佐倉か。どうした?」

 「今日…四宮の様子がいつもと違うから、ちょっと気になって…何かあった?」


 僕の問いかけにきょとんとした様子を見せ、それから納得したように「ああ、そういうことか」と一言呟いた。

 四宮は僅かに眉尻を下げて微笑む。


 「相談があるんだが…いいか?」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 「僕は、人でなしなのかも知れない」

 「え…?」


 屋上について開口一番、四宮はそう言った。


 「な、何があったんだ!?そんな、四宮がそう思うだなんて…」

 「人の不幸を…ほんのちょっとだとしても、喜ぶような奴なんだぞ?」


 それを聞いて、僕は一瞬押し黙ってしまう。

 同時に、僕には思い当たる節があった。


 「もしかして…鈴瀬さんのこと?」


 僕が出した答えに、彼は哀しそうに微笑わらった。


 「やっぱり…君には敵わないな。いつも一歩先で、僕を良くも悪くも待ち受けてくれる。佐倉…君が僕の親友で、安心毛布であってくれて、ほんと、良かったよ」

 「急にどうしたんだよ…僕だって、四宮が親友で嬉しいし、誇らしいし…」


 本来であれば僕がたくさん彼を慰めたり、話を聞いてあげたりするべきなのに、なぜかこちらが四宮に多く言葉をかけてもらう状況になってしまっている。

 口ごもりそうになった自分をどうにか奮い立たせて、四宮の相談に話の軌道を戻そうとしてみる。


 「四宮は、その…鈴瀬さんのことが好き、なんだな」


 僕の確認にぽっと顔を赤らめた四宮は、ゆっくりと自分の中を整理するように、答えてくれた。


 「そう…かも知れない。いや…そうだ。僕は、鈴瀬さんのことが、好きだ」

 「じゃあ、昨日の、僕が彼女の告白を断ったって聞いた時、どう…思った?」


 彼は俯きがちに視線を左右に彷徨わせ、答えづらそうにしている。それでも意を決したように一度ぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと開いて僕の目を見た。


 「彼女が君に告白したと、最初聞いたときは正直落ち込んだ。でも、君は彼女の告白を断った。だから…今の佐倉に対する自分の感情と、彼女への気持ちに整理がつかなくて」


 四宮は再び目を伏せる。彼の長い睫毛がそっと秋の空気をかきわけた気がした。静えかに、困ったように頭を掻くと、今度は自嘲気な表情へ変わる。


 「自分に好機が廻ってきたことへの嬉しさ、君が断った事への感謝のような不思議な感情、想い人の気持ちを沈ませたことへの若干の怒り…もう良くわからないんだ。ただ、今の気持ちのままじゃ、僕は君とも、彼女とも、これまで通りに接することはできない気がした」


 四宮の心の底で蠢いていた感情が、彼自身の言葉で、僕に伝わってくる。


 四宮を応援したいという気持ちは勿論ある。でもそれ以上に何か、彼に対して申し訳ないような気持ちも込み上げてきた。この湧き出してきた扱い方の分からない感情、最早感覚の一つとも呼べるようなそれが、今、僕の体に秋風と共にじんわりと染み渡っていく心地がしていた。


 「一度、想いを素直に伝えてみたらいいんじゃないか?四宮の鈴瀬さんに対する想いや感情を余すことなく伝えてみなよ。僕もできるだけ協力するから」

 「そうか…ありがとう。自分なりにやってみる」


 迷子が母親を見つけたような安堵の表情で礼を告げると、四宮は足取り軽く屋上を去っていった。その後ろ姿を見送り、思わず一つため息が出る。

 四宮の慕情を知らないまま、僕は鈴瀬さんに返事をした。もう少し、慎重になるべきだったのかも知れない。悔いても仕方ないのは解っているけれど、それでも何も思わないわけにはいかなかった。


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 僕はまた、あの画の前にいた。


 サインが潰れているその画は、画家自身が敢えて消したようにも見える。

 一回でいいから、この画の作者と話してみたいと思う。


 何をテーマにしたんですか。

 画の中の二人は何を表しているんですか。

 どんな着想を得て、この画を描いたのですか。

 僕の夢に、実はとても似ていて…あなたもそんな夢を見たんですか。


 そっと差し込む西日の色を含んだ金木犀は、見ているだけでその馥郁が蘇る。


 金木犀も、桜も、花弁の一つひとつが異なる色彩の点描で、幹は厚塗りによる立体的な描かれ方をされていた。


 「…佐倉君?」


 脱力しきった柔らかい声が鼓膜を揺らす。

 振り返ると、そこにいたのは芹澤先輩だった。


 しっかりと画の前にいるのが僕であることを確認すると、彼女は少し前のめりになりながら僕の方へ歩み寄る。その歩みは僕からちょうど1mくらいの間を置いて止まった。


 「芹澤先輩、こん…」

 「佐倉君は、この画に興味があるの?」


 食い気味な質問に戸惑うが、意識が画に吸い寄せられたままの先輩の不思議な表情に返事が先に口を突く。


 「あ、あります。あるというか…この画を初めて見る前に、夢に似た情景を見たことがあって、それで、気になって」

 「そう…」


 意外とあっけない先輩の反応に、此方も拍子抜けしてしまう。

 暫く僕の隣で画を見つめたまま、先輩は何も言わず、身動ぎもしなかった。


 取り憑かれたように画を見つめ続ける彼女の姿は、僕に僅かな戦慄を抱かせる。


 「あの…先輩」

 「ん…?」


 先輩は此方を向こうともしない。僕の中で可笑しな苛立ちが湧く。


 「先輩は…この画をどう思うんですか」

 「…私はね、この画、嫌い」


 きゅう、と心が竦む音がした。

 嫌い。その三文字を言ったきり、先輩はまただんまりになる。


 「僕はこの画、好きです。この画も、この画を描いた人の感性センスも」


 張り合うように言ってのけた僕の言葉に、先輩は目を丸くして僕を見る。

 その丸い目は、ゆっくりと一つ、膨らむ歓喜を必死に抑えるように瞬きをした。


 「…そっか。それはそれで、良いね」


 おかしい。この一連の先輩の様子は、そうとしか言いようがない。でもそのおかしさは、僕の中にも、知らないだけで潜んでいるような気がした。


 「ありがとう。佐倉君…ばいばい」

 「え、あ…はい。さようなら」


 くるりと回って去っていった先輩の後ろ姿に、寂しそうな残照が後を追った。




 家に帰っても、四宮への罪悪感と先輩に抱いた可笑しな苛立ちは消えなかった。考えないように、忘れようとすればするほど、濁った名前のつけようもない靄が肥大化していく。


 何を不快に思っている?


 この前名前を知っただけの相手に、何故こんなくだらない感情で弄ばれている?


 地球何周分巻いても巻ききれない感情と理性の糸が、ちっぽけな僕の中で派手に絡み合っては結ばって、僕の中の僕を滅茶苦茶に縛り上げる。


 普段ならこの糸は、歌う中で鮮やかな織物になるのに。

 糸端すら分からない。

 あんなに整然と織られていたはずの「歌」が綻びていく。


 寝台ベッドから飛び起きて、ベランダに出る。寝間着で秋の夜風に触れると、風にすべてを見透かされたような気がして身震いがした。


 何かを歌いたかった。歌おうとして外に出たんだ。知っている曲はたくさんあるのに、ドレミを口ずさんでも、どの歌の歌いだしにもたどり着けない。かといってこのまま大人しく部屋に戻って寝付けるのかというと、戻れないし、戻りたくなかった。


 静かに悶える僕を嘲笑うように、鈴虫が羽を震わせて鳴く。


 都会らしい排気ガスがうっすらと残った中に、何処かから一緒に運ばれてきた金木犀の香りが漂っている。

 昼間の、人工物と自然が混ざって出来上がる日常の匂いが、まだ「今日」として街の中に居座っていた。


 今日はどうやら、歌えない。でもこのままじゃ眠れないし、眠りたくない。


 夜を持て余した僕は部屋へ戻り、今日一日使いすぎた思考を寝台に投げ出すと、満月になりそびれた照明をぼーっと眺める。


 意固地な情けない僕を宥め賺し、僕は無理やり目を閉じて「今日」を終わらせた。

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