第4話 既視感


 まだ大学の門の金木犀は蕾をつけたばかりなのに、僕の鼻腔には千里を超えてなお鮮やかに届くほどのあでやかな香りが咲いている。


 周囲はありふれた雑踏の音で満ちているのに、特別な静寂と、一片ひとひら花弁はなびらが人知れず散る音が僕の鼓膜を不意に揺らす。


 その色彩は知っているそれよりも繊細で、ひとつとして同じものはなく、僕は心地よいいろそらに揺蕩う。


 白昼夢、いや…これも夢か?



 「…ら、…さくら。おい、佐倉ってば!」


 慌てて目の前にピントを合わせ直すと、四宮が僕の肩を掴んで揺さぶっていた。

かなり長い間返事をしなかったのか、怪訝というより心配と不安が彼の顔に色濃く滲んでいる。それまで普通に話していた僕が急にぴくりとも動かなくなったので、それが余計に不安を煽ったらしかった。


 「大丈夫か…?」

 「…ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」


 正直に伝えつつ半笑いでその場をとりなすと、四宮の傍から顔を出した鈴瀬さんにまで心配された。


 「無理しない方が良いんじゃない…?私の相談は、後日で全然構わないから…」

 「いや、どんな内容であれ相談に乗るって言ったのは僕だし…大丈夫だよ。じゃあ、行こうか」


 白昼夢の源泉をもう一度一瞥して、僕は再び歩みを進めた。数歩分の間をおいて、二つの足音がまばらに追いかけてくる。


 今日、鈴瀬さんが一緒にいるのは、彼女に相談があると言われたからだ。



―「さ、佐倉君!その、ちょっと…良いかな。昼休み、相談したいことがあって…」


 この前僕と四宮のことを聞いた時と同じ表情が、そこにはあった。



 どんな内容かは検討も心当たりもない。…ただ断ると良くないとだけ、感じた。

今向かっているのは、音楽部棟の屋上。鈴瀬さん曰く、学食では少し落ち着かないのでできれば静かな場所でとのことだった。

 ちなみに四宮は途中で別行動になる。彼も彼で、来る文化祭で行われる器楽科との合同演奏会の実行委員になっているらしく、そろそろ準備を始めたいと言っていた。


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 屋上への扉を開ける時の気持ちは、小学生みたいだ。未知数の世界に好奇心一つで飛び込んでしまえるような、そんな思い切りの良さと高揚感がある。


 平然を装って開け放った扉の向こうは、秋だった。

 本体と一緒に去りきれず残った夏の欠片が、ぐっと凝縮されて、少しだけ背伸びした、高く澄んだ蒼穹。その天井を遥か遠くで撫でるように秋風がひゅぅっと吹き上げた。 

 今ここでなら、どのホールでよりも上手く歌える気がした。


 「…涼しい風」

 「そうだね…」


 フェンスの側まで寄って並び、どちらからともなくそんな会話が起こる。


 「…そう言えば、相談って」

 「あ、そうだよね。それが…本題だったね」


 小さく苦笑してみせると、鈴瀬さんは話し始めた。


 「相談は二つあってね、一つ目が、学指揮のことなんだけど。今さらかも知れないけど私、ちゃんと務まってるのかなって…指揮もろくにできてなくて、歌でもみんなの足引っ張ってたらどうしようって不安で…」


 彼女は1年の時から僕らの学指揮を担ってくれている。2年に進んでから新たに決め直すことはしなかった。その時は多分鈴瀬さん自身も含め、皆この現状が一番やりやすいと感じていた。それに、集団内で変化は起こしづらい。


 歌に関しては、ソプラノとして恐らく申し分ない戦力なのだけど、指揮をしていると歌う側として練習する時間がどうしても減ってしまうために、彼女の過度な謙遜も相まって思い詰めてしまっているようだった。

 そして何より、彼女の歌という音楽に対する本能的な執着が言葉の奥でじっと息を潜めている。


 『歌いたい。指先の仕草なんかじゃなく、自分の声で皆と1つの音楽になりたい』


 今はまだ何とか飼い慣らせているそんな衝動が、いつか暴れ出すのではないかという恐怖。それで指揮が蔑ろになることは、彼女自身も望まないことだろう。


 練習の時のみとは言え、指揮者になった鈴瀬さんは非常に熱心に追究していた。ピアノで全パートの音をさらって全体のイメージを自分なりにいち早く模索したり、音楽記号の意味や作曲者、曲ができた時代の背景まで調べてきたりしたこともあった。

 こういった彼女の努力を皆知っているからこそ、これまで僕らは彼女の指揮についてこられた。


 「えっと、特段何もできない僕が言えたことじゃないけど…鈴瀬さんは、すごく努力家だから、本番の指揮者みたいに一つひとつの曲に向き合おうとしてて…それって僕、簡単にできることじゃないと思うんだ」


 少しでも多く、ズレなく伝わってほしい。ちゃんと、届け。


 「歌い手としても頑張ろうとしてる鈴瀬さんの努力の姿とかそういった真摯な姿勢も含めて、僕をはじめ皆、鈴瀬さんのことを指揮者としても認めて、尊敬している人だっているんだよ。だから…思っているよりも、気負わなくていいと思う」


 「そっか…ありがとう」


 綿毛がほわりと咲くように、鈴瀬さんは微笑む。しかしまだ2つ目が控えているからか、その微笑はすぐにくすんでしまった。


 高い秋空の上の上から、午後のはじまりを知らせる光が降りそそぐ。彼女の横顔を縁どる綺麗に切り揃えられたショートボブが光をめいっぱい取りこんで、自らの柔和な輝きに変えていた。その微かな眩しさと、届きそうで届かない所にふんわりと浮かんだ雲のふくらみに、僕は僅かに目を細めた。


 僕と鈴瀬さんの間にある絶妙な距離をちらと目配せするように確認し、ゆっくりと彼女は僕の方を向く。ただ、顔は下に向いたまま、目は合わない。


 「突拍子もないこと、聞くけど、佐倉君は…好きな人、とか…いる、の?」


 何ともたどたどしいフレーズだったけど、彼女は確かにそう言った。喉元まで出かかった驚きの声を、何とかして飲み込む。ここで変に「え?」とか言ってしまうと、彼女を変に傷つけてしまいそうだった。


 「…いない、けど」

 「そう…」


 安堵とも落胆とも取れる、丁寧に置かれた声。


 「私は、いるよ」


 徐ろに顔を上げた彼女は、歌手の表情をしていた。この場の主役は彼女なのだと、舞台なら観客の誰もがそう本能的に感じるような、有無を言わさぬ雰囲気。それが喜劇のであれ悲劇のであれ、今のこの瞬間、最も美しいのは彼女に違いなかった。

 さっきまでの辿々しさや幼さはとうにどこかへ置いてきたのか、それともこれが、日頃の彼女の怯えや不安を取り去った鈴瀬さんの本来の姿なのか。そう思わずにはいられないほど、目の前の彼女はある種凛とした佇まいで僕を見ている。


 僕は真顔を保とうと決めた。大袈裟な緊張、あるいは驚き、戸惑い、その他正負に関わらずどんな感情を乗せても、この場には相応しくない気がした。


 僕らの間を、さっきよりは少し肌寒いくらいの風がさぁっと吹き抜ける。


 「佐倉君。1年の頃からずっと、佐倉君のことが好きです。私と、お付き合いしてくれませんか…!?」


 僕は困った。でも顔には出さない。彼女が傷つかないように。自分の気持ちが流れていかないように。


 振る理由は、多分どこにもない。それでもいつか論で確固たる恋愛感情を持たないまま付き合ってしまえば、どちらも、あるいはどちらかが極端に深い疵を負うことになってしまうのが、単純に怖かった。


 彼女の好意を断る事への罪悪感より、計り知れない疵の大きさが恐ろしかった。


 「鈴瀬さん」


 ほんの微かに声が震える。直視できなくなりそうになる2つの瞳を、首に力をいれてきちんと向き合うように固定する。


 「…ごめんなさい。今の僕じゃ、鈴瀬さんに対してはっきりとした感情が持てない。だから多分、貴女を失望させて、傷つけてしまうかもしれない。その、嫌いだとか、そういうのじゃなくて…単純に、僕の問題で」


 先刻の固い決意とは裏腹に、今の自分がどんな表情をしているか分からなかった。


 鈴瀬さんは僕の言葉を一言ずつ噛みしめるように咀嚼した後、瞬きをひとつした。どこまでも深く広がっていそうな宇宙の入り口は輪郭がぼやけて揺らいでいたが、瞬きの前後で心なしか、後の方が澄み切って安定しているように見えた。


 「…わかった。ありがとう、佐倉君」


 それだけ言って彼女は、これまで僕が見た数少ない中でも最も「綺麗に」微笑んだ。どんな画匠も描くことはできない、聖母が最期に浮かべるような笑みだった。

 それを見て息が詰まりそうになった。美しすぎるが故に、彼女がどれだけ上手く取り繕っているかをありありと見せつけられているみたいだった。罪悪感よりも重たくて痛い、鋭利な針のようなものを地味にしつこく抜き差しされている感覚がした。


 「私…これからも指揮、頑張ってみるね。本当に、ありがとう。…それじゃ」

 「うん…おつかれ」


 鈴瀬さんは何事もなかったように、正確にはそう装って、静かに屋上をあとにした。たまらなくなって空を仰ぐと、小さな鳥が一羽、脇芽も振らずに真っ直ぐ飛んでいった。


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 今日の授業を終え、僕は再び、あの白昼夢の源泉の前に立っていた。


 「それ」は音楽学部棟と美術学部棟の連絡通路がある階で、大学に入って初めて通った場所だった。今日の昼に鈴瀬さんの相談に乗るべく移動している途中でそこを通った時、「それ」は否応なしに目に入ってきた。

 そして「それ」は、僕から例えようもない強さと勢いで心を奪った。


 …一枚の大きな油絵。

他の人からすれば、取るに足らないもの。作者だってサインじゃ判別できないけど大学の関係者であることくらい分かるし、芸大なのだから絵の技量が高いのはほぼ当然のこと。せいぜい描かれているモチーフに多少興味が湧くか湧かないか、それくらいだろう。


 「Mnēmosynē 〜誰かの記憶〜」


 その画はそう題されていた。作者名は記されていなかった。

画面を上下に二分する構図に、上は桜、下は金木犀の花で埋め尽くされている。そのそれぞれの花の海の中から桜からは少女が、金木犀からは青年が、互いに手を伸ばし合っている。埋もれかかっている二人の顔は憂いを帯びつつもどこか安らかで、見ていると切なくなる。


 何より驚いたのは、その金木犀側の景色が、僕のあの夢そのままであること。寧ろ夢よりも美しく、鮮やかに描かれているくらいだ。

 勿論、この作品を描いた画家が僕のことを知っているとは思わない。モチーフが桜と金木犀なのも、芸大を象徴する門前のあの2つの木を音楽学部と美術学部になぞらえているのだろう。


 そして不思議なことに、桜の方の少女にはなんとなく見覚えがあった。


 この絵の男女が何を意味するのかは分からない。特別な意味は全くないかもしれない。

 でももし、作者がこの作品に自らの夢を投影しているとしたら…?


 …考えすぎか。


 僕はもう一度、筆跡ひとつひとつさえも目に焼き付けるように眺めて、そっとその場を離れた。












 後にこの絵が僕の人生にとって重要な鍵になることを、僕はまだ知らない。



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