第3話 その子秀才、ただし個性派につき

 晩夏とはいえ、まだ刺すような勢いを保ったままの陽光が朝から注がれている。風があれば少し涼しくなるが、普段着を長袖へ切り替えるにはもう少しかかりそうだ。


 今日もいつものように講義へ向かう準備をしていると、後ろから声がかかった。


 「佐倉じゃん。おはよ」

 「ああ、おはよ。四宮」


 四宮しのみや冬弥とうやは、僕と同じ声楽科でテノール歌手。彼は同学年のテノールの中で、いや、この大学のすべてのテノールの中で、最も上手い歌い手だと思う。織田先生とは流石にまだ一線を画す所があるけれど、僕の一番身近な憧れであり、最初に到達すべき目標でもある。ちなみに牧田教官もべた褒めするから、彼の実力は折り紙付きだ。…参考にしたくない指標ではあるけれど。


 彼の歌声を一言で表すなら、「キャラクターテノールとヘルデンテノールのハイブリッド」と言った所か。分かりやすく言うと、「ヘルデン」がドイツ語で「英雄」を表す通り、力強さとドラマティックな声質が特徴で、ヴァーグナー作の歌劇や歌曲ではかなり重宝される声。キャラクターテノールは、独特な声質故に特殊なキャラの役になることが多い。とにかく「独特の深み×稀有な質感」の声質を自分で細部まで理解した上で、表現に繋げることができる強い武器を持っている。


 まさに天才と呼ぶべき四宮なのだけど、天才あるあるで歌以外のことはてんで抜けている。その上性格のクセが強く、自分の中に堅い信条を持つとことん個性派だ。


 僕からすると四宮は親友。彼からすると僕は「安心毛布」らしい。入学してから気づけば仲良く、というか一番この科で絡む回数が多くなっていたのは僕だった。四宮自身の諸々の困難を乗り越えるには、僕の力が必要だと言われた。


 彼の困難が何なのかは分からないし、常識くらいしか彼の役に立てないであろう僕だけど、とりあえず友達兼安心毛布をやらせてもらっている。


 「どんなに凄い偉人たちを足し合わせて一人の全能人間を作ろうとするよりも、僕と佐倉を足して2で割った方がずっと良いと思うんだよな」

 「四宮が天才なのは最早自明の理だけど、浅学非才の僕を足しちゃったら元々の四宮よりも劣ることになると思うよ?」

 「いや、マイナスになることは絶対にないよ。佐倉の声にはまだ潜在能力がある。そして僕と君の人間性も加味した上で出した結論だ。…これは間違いない」


 そんな会話をしたこともあったっけ。

四宮は僕以外の人をまるで相手にしない。教官との会話も事務的で、唯一この前の織田先生との会話で初めて、僕と話す時の表情を見せたことに驚いたばかりだ。


 入学当初、いやその前から、四宮は異彩を放っていた。

 入学時の実技試験ではその伝説が残っている。


 実技試験は、コラールと、日本語の曲と外国語の曲をそれぞれ一曲ずつ課題曲として選択して歌うという内容だった。四宮のコラールは、それまで大方並大抵の生徒の実力に退屈していた試験官の涙腺を刺激し、最後の外国語の歌曲を歌い終える頃には、試験官たちの顔は涙で大変なことになっていたらしい。

 四宮は最後ではなかったのでその後も試験官たちは審査を続けなければならなかったのだが、評価の基準が四宮のおかげで見るも無惨に崩れてしまい、その年は、例年満数になることのない定員が数十年ぶりに達したという。



 「え、ちょっと、四宮君!?何を急に…」

 「このアンサンブルをより崇高にするための必然的なアイデアが浮かんだんだ」


 今日も早速、四宮が何か揉め事を起こしたみたいだ。学指揮の女子が、急に指揮台の下へ来た四宮に困惑している。こういうときは大体、僕が仲裁に入る役目を頼まれている。1年の頃から、…教官の間でも公認だ。


 「ここ、もっとノスタルジックにしたほうが良い」

 「楽譜に書いてある指示は十分に守れてるよ…?」

 「…それじゃあ『ただの』合唱だろ」

 「え…」

 

 「四宮」


 僕に止められて振り返った四宮は、少し俯いて不服そうな顔をする。僕とも目を合わせてくれない理由は、何となく察せた。自分はそのチームのパフォーマンスを高められる最適解を編み出せる。でも、周囲の実力とそれぞれの表現の衝突は、その最適解を簡単に受け入れてくれる訳ではない。最適解は最善解じゃない。それは本人が一番解っているだろう。


 「具体的に僕らがどうすれば良いのか、四宮の考えと言葉で良いから説明してくれないか?みんな四宮の実力が高いのは分かってる。四宮の考えを真っ向から否定するつもりはなくて、急すぎて吃驚してるだけだから…一旦落ち着こう」

 「…すまん。佐倉」


 事実、大抵こういった揉め事の後は僕らの歌は格段に良くなる。歌う側の好みに合う合わないはあるけれど、芸術は鑑賞側が本位。表現者としてだけでなく聴く側としての耳も持つ四宮の意見は、突発的だが確実に効く良薬なのだ。だから結果的にはみんな四宮の意見を実践しようと努めるし、教官も四宮にはあまり小言を言わない。


 もう少し彼も言葉を上手く使えたら…と思わなくもない。でも無理にそうなってほしいとは思わない。歌う時の四宮の雄弁さ、説得力、表現の高みが、彼のすべてを保証してくれている。僕が四宮と周囲の間の潤滑油になれていたら今はそれでいいのかも知れない。


 授業の後、学指揮だった鈴瀬さんがトコトコと歩み寄ってきた。


 「佐倉君、今日もありがとね…」

 「いや、大したことはしてないよ。四宮は少し不器用なだけだから…」

 「うん、それは重々分かってるよ。でも、正直大変じゃない?その…四宮君との付き合いって」


 声が段々と窄んでいき、きまり悪そうに聞く彼女から、罪悪感が聴き取れた。この話をすることで僕と四宮の関係に支障をきたさないか、心配で聞くのを躊躇いつつもとうとう聞いてしまった…という感じだろうか。


 「僕が四宮を気にかけるというか…一緒にいることに対して、親友ってこと以上の理由や特別な感情はないよ」


 自分が思っていたよりも小さい声になったのには気づかないふりをした。


 「これが僕の…『普通』だからかな。逸材で個性派の四宮が、彼なりに僕を何らかの形で認めてくれている以上、僕はそれに応えるべきでもあるからね」

 「そう…なんだ」


 どこかアンニュイな響きをもった彼女の返答に、僕は少し首を傾げた。


 「叶歩かほ〜、次の講義の場所大講堂だって〜!早く行こ〜!」

 「あ…うん!今行くから、ちょっと待ってて!」


 先程の返事とは打って変わって鈴を転がしたような明るい返事をしたものの、再びこちらを振り返った彼女はやはり物憂げな表情だった。


 「…じゃあ、行くね。あの、とにかく、ありがとう」

 「あ、ああ。おつかれ……っわぁ、四宮。そこにいたんだ」


 鈴瀬さんを見送り僕も準備をしようと後方を振り向くと、四宮が真後ろに立っていた。その顔は神妙な面持ちで何か言いたげにしていたが、僕の目を見るなり彼の息と共に吸い込まれて、深いところまで飲み込まれたように見えた。


 「四宮…どうした?」

 「いや…」


 しばらく俯いて視線を左右させた後、四宮はがばりと顔を上げて、僕の瞳の奥まで射通すように真っ直ぐ見つめた。


 「僕は…変わり者で、そのくせ頑固者で、自身の実力でしか自分に対する批判を抑え込めないくらい弱い。佐倉がそんな僕と一緒にいる義務や理由は、まったくない。僕がもし、君のお荷物になっていたら申し訳…」

 「それはない」


 四宮の迷いを、不安を断ち切りたくて、僕はあえて彼の言葉を遮った。豆鉄砲を食らった鳩みたいに、四宮は押し黙る。その見開かれた瞳には朝よりも丸みを帯びた柔らかい陽光が溶け込んでいた。


 「君は僕の憧れで、親友だよ、四宮。お荷物になんか、なるわけない」

 「そうか……ありがとう」

 「ああ。ほら、次の授業に行こう」




 その子秀才、ただし個性派につき、世渡りが不器用。

 

 それでもその不器用で天才な親友と、不器用でありきたりな日常の中で、僕ららしい音楽を紡ぐのを楽しいと思えてしまうのが、僕という人間らしい。









 金木犀が咲く季節まで、あとすこし。

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