第2話 先輩


 今、僕、佐倉颯斗は苛立ちを抑えきれずにそこかしこを動き回っている。

立っていても座っていても落ち着かない。授業は終わったが帰る気も起こらない。尊敬するテナー歌手の歌を聴いても気が休まることはなく、始終頭の中で、僕の気分を害した原因がぐるぐると巡っている。


 …事の発端はかれこれ20分前に遡る。


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 「お、佐倉じゃないか。丁度いいとこに来たな」


 そう快活に声をかけて来たのは僕が取っている授業の担当教官だった。


 「…こんにちは。牧田教官」

 「そう分かりやすく嫌そうな顔するなよ…まあ俺は、お前に好かれていようがいまいが気にしないからな。はっはっは!」

 「別に、そういうつもりでは…」


 …ある。ものすごく嫌だ。

その開き直る見事なポジティブ精神の塊と、陽気な性格とは裏腹に歯に物着せぬ、いいことも悪いことも本音丸出しの生徒への評価の弁は、学生の間でも良くて賛否両論、この教官に対して好意的な意見の方が多いことは滅多にない。

 無論僕も、アンチ牧田教官の1人である。この人とは多分…分かり合えるまでに人生を何周繰り返しても足りない気がする。


 「まあいい。ところでだ、佐倉。この前織田さんが来た授業あったろ?あの後織田さんと一酌した時にな、彼の人、お前を褒めてたんだ。『いいモノを見つけた。燻らせるにはもったいない』って。お前に渡すよう連絡先まで貰ったよ」


 織田先生は僕が尊敬する男声歌手の一人である。国内外のコンクールで数々の賞を取る実力は勿論、深みのある重厚な低音と軽くならない朗々とした高音が魅力で、この前の授業で生まれて初めて先生の生歌を聞いた時は、感動で打ち震えて泣きそうになりながら、興奮のあまり跳び上がりそうになるという情緒不安定な醜態をさらしかけた。思い出してみると、我ながら恥ずかしい。でもそれだけ僕を狂わせるほど、先生は凄い人だ。


 本当ですか!?と素直に喜ぼうとして、牧田教官の「ただ」という一声が入った。

 出た…と瞬時に僕は身構えた。


 「ただ俺的にはこの織田さんのご厚意は、今のお前にはもったいない気がするんだよな…連絡先まで渡すってことは、いずれは指南したいわけだろ?それは…2年の今じゃなくて4年とか、せめて3年の半ばくらいにすべきだと思うんだよな」

 「はぁ…」


 牧田教官はいかにもそれらしく、納得がいかないというように腕を組んだ。


 「お前の母さんが傑出したアルトの歌い手だから、子のお前にもと目をかけてくださっただけかも知れんぞ?お前はまだ2年で、ダイヤの原石になれるかなれないかの境目にいるようなものだ。母親の方は才能にも恵まれていたようだったが…いや、お前に才能がないと言ってるわけじゃない。お前の場合はまだ伸び代があるっていう話だ」

 「…精進します」


 僕すらよく知らない母を、赤の他人のあんたが知ったような口を利かないでくれ!それに『伸び代』って…才能がないから努力しろよって遠回しに言っているようなものじゃないか!…そう一思いに叫んでしまいたかったが、僕は必死に口を固定しようと努めた。


 「きつい事を言うようで悪いが、伸び代があるってのはまだ未熟ってことでもあるからな…そんなお前をすぐ織田大先生に送るのは…う〜ん…でも織田さんの厚意を無下にもできないし…まあ、ほれ、とりあえず渡しといてやるから…励めよ」

 「…はい」


 あからさまに渋る顔をして、折りたたまれてくしゃくしゃになったメモ用紙を僕の手に押し付けると、教官は面倒くさそうに僕へ背を向けて歩いていった。


 一瞬ゴミを押し付けられたのかと思ったが、紙をそっと開くと、牧田教官が絶対に書かないであろう秀逸な字で織田先生の連絡先と、あろうことか僕への激励の言葉まで記してあった。先生からの言葉に目を通すと、尊敬と歓喜で胸が熱くなると同時に、この紙をこんな扱いにした教官の僕に対する軽視の酷さと先生に対する不敬な仕打ちの怒りで腸が煮えくり返りそうになった。


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 そんなわけで、僕は今、大学の音楽部棟にある大講堂のピアノの前に来て、やっと気持ちを落ち着かせている。校内を彷徨うろついたり中庭で頭を抱えたりするよりも、ピアノを弾くのが一番今の憎悪と悔恨を宥めることができる気がした。


 この大講堂は、器楽科が発表会や実技試験で使う場所で、普段は殆ど誰も立ち入ることはない。それでもピアノの管理や室内の清掃が怠られることはなく、ピアノはいつでも歌う準備ができている。そんなピアノが、音を奏でる時間よりも孤独でいる時間が長いと思うと、僕の中では少しの同情とある種の憐情がじわじわと心を満たしていくのだった。


 弾くのは、シューベルトの「魔王」。特段好きでもないし、何なら伴奏側は素人が手を出すと痛い目を見る作品で、歌う側も一人で語り手を含め四役というかなり繊細な歌い分けが必要な曲。それでも今の僕の鬱憤の不気味さと悍ましさと勢いが、この曲にあっている気がした。

 器楽科の人達とは比べてはいけない力量差があるが、それでも幼稚園から高校の最初までピアノは習っていたし、大学に入ってからもちょくちょく弾いていた。


 “ Schnell ” ドイツ語で「速く」。

右手はオクターブで「ソ」の連打。左手の音階音型で、荒天の中を駆ける馬のスピード感と暗く淀んだ不気味な感じを表現する。


 熱に浮かされて苦しみ喘ぐ子ども、それを宥めつつ、必死に医者の館へ急ぐ父親。

そんな中狡猾な魔王は子どもを誘惑し、黄泉の世界へ連れ込もうとする。魔王を見た子は恐れ慄き父親に助けを求めるが、父親は魔王の存在を認められず、幻覚だと言って聞かせる。


 魔王が語りかける部分はベースのト短調から転調し、平行調の変ロ長調、ハ長調、変ニ長調と回数を重ねるごとに転ぶ調も上昇する。そして魔王の子どもへの言葉は徐々に甘い誘惑から力ずくの魂の誘拐に変わっていく。


 『可愛や いい子じゃのう坊や じたばたしてもさらってくぞ』


 『お父さん お父さん 魔王が今 坊やをつかんで連れてゆく』


子どもの悲痛な叫びは激化していき、父親はさらに馬を急がせる。しかし…


 『辛くも宿につきしが 子は既に息絶えぬ』


 一瞬の隙を突いた主和音による終焉。レチタティーヴォ風の処理がなされていて、つまりは語り手の「歌いつつ話してもいるような独白」で物語は幕を下ろす。


 ペダルを離し、鍵盤からそっと指を引き上げると、突然拍手が聞こえた。

ぱっと入口の方を見ると、拍手の主はかなり慌てた様子で扉の陰へ隠れた。

 いや…隠れられてもこちらも困るんだけどな。


 「あ、あの!」

 「ごめんなさい!」


 思い切って僕が声をかけたのと、その女性が扉の陰から出て、謝罪を叫び頭を下げたのはほぼ同時だった。僕が席を立ってその人の方に向かうと、頭を上げた彼女はおろおろと慌てふためく。まずは彼女を落ち着かせる必要がありそうだ。


 「あの、落ち着いてください。観客がいるとは思っていなくて、ひどい演奏だったら気を悪くさせたんじゃないかって…すみません。吃驚しただけなんです」

 「あ、え…私の方こそ盗み聞きするつもりはなかったんですけど、感情むき出しの音楽というか芸術を、久しぶりに浴びた気がして…全然酷くなんかないです。寧ろ惹かれたんです、貴方の演奏に」


 ストレートな感想に、かっと頬が火照る。握る拳にほのかに熱いものを感じた。

 「わ…あ、ありがとうございます」


 本職じゃないピアノで惹かれたと言ってもらえた上に、自分の音楽にもならないような音楽が誰かの心に響いたという事実自体が、さっきまでの曇天みたいに重苦しい心のわだかまりを綿菓子よりも軽く消し去ってくれた。


 「その…僕、実は器楽科じゃなくて」

 「え、あの演奏で器楽科じゃないの!?」

 「はい。声楽科2年の佐倉颯斗です」


 余計な自己紹介までしてしまったが、器楽科ではないことは伝えておきたかった。彼女はかなり驚いたらしいが、我に返ったのか僅かに僕との距離を取ると、つっかえながらも自己紹介を返してくれた。


 「ごめんなさい。さっきからがっついちゃって…私は、芹澤せりさわあかり。えっと、美術学部…絵画科の3年生です」

 「え、あ、せ、先輩!?」


 芹澤先輩は僕の動揺っぷりを見て小さく含み笑いをした。

 それにしても…これはかなり図々しい態度をとってしまったのではないだろうか。初対面。先輩。しかも他の学部の…。あわあわとせわしくそこまで考えて、僕は一つの疑問に思い当たる。どうして他の学部の先輩が音楽部棟ここに?

 特に立入禁止になっているわけでもないが、この大学は学部間の交流が他と比べて少ない。教官が呼び出すか、余程の用事があるか、迷子になった新入生でない限り、他の学部の棟へ私的な用事で立ち入ることは滅多にないのだ。

 思考が顔に出ていたのか、芹澤先輩はばつが悪そうに頬をかくと、少し苦笑いをしつつ説明してくれた。


 「私…元々器楽科志望だったんだけど、色々あって絵の方に進むことにしてね。入学してからは楽器への未練も断ち切ったつもりだったんだけど、1年の夏、たまたまここを通りかかる用事があって。その時に見た、ここにある、このピアノの持つキャラクター…個性に、磁石みたいに吸い寄せられちゃったの。その時から、描く意欲が湧かないときとか、上手く描けない時にここに来て初心を思い出す…みたいな、そんな感じで通っていたら、今日は佐倉くんという先客がいた、というわけです」


 そういうことだったのか。確かにここのピアノは古株で、今も調律師の手によってこまめに調えられてその美貌と音色が保たれている。そんなピアノに惹かれる先輩の気持ちは、かなり分かるかも知れない。


 「佐倉くん」


 先輩が僕の名前を呼んだ。


 「…はい」


 どういう声で返事をするべきなのか分からず、僅かに上ずった。


 「これも何かの縁かもしれないからさ…また会ったら、よろしくね」


 そう言って先輩の表情がほんの僅かに切なく歪む。その変化に、僕はまだ気付けなかった。


 「はい…?」


 僕の曖昧な返事にしっかりと頷いた先輩は、残照のような微笑みを残してゆっくりと去っていった。






 僕が講堂を出る前に戯れに鳴らした最後の「ド」の音は、ペダルを踏んでもいないのにやけに長く残った。

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