金木犀の残り香に、今日も眠れぬ僕は啼く
紫丁香花(らいらっく)
第一章 金木犀の蕾が膨らみ始める頃の話
第1話 優しい夢
…甘い、あまい、夢を見た。
金木犀の、幼気な花が一つ、またひとつと、寝転がっている僕の上に積もる。埋もれそうになる僕を、金木犀は愉しそうにひとつ、また一つその可愛らしい
ふと、耽美で優艶な橘色の海へ沈む僕の耳が、花が散る音にすらかき消されてしまいそうな幽かな声を拾った。
「…またいなくなっちゃうの?」
あまりにか弱く、切ない声に我に返る。
そうだ。僕は、何かを、探して…
声の主を探そうと夕焼け色をがむしゃらにかき分けてみるが、今度は下から引力とは別の何かにゆっくりと引きずり降ろされて一向に上がれない。口に少しずつ花が侵食し、視界が本当にオレンジ一色になっていく。僕からは抵抗の声も出ない。
まるで美しい嘘で声帯が麻痺したみたいだ。
「…ごめんね」
もう一度同じ声をどうにか聴き取った刹那、甘い、あまい橙は僕をそっと沈めきってしまった。
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「んぅ…あさぁ?」
まだ覚醒しきらない頭を、無理やり通常稼働させて今の状況を理解する。
苛立ちを隠そうともせずにけたたましい音を放つ目覚まし時計を止め、カーテンを勢いよく開け放つと、少し高く昇った日がふわぁっと差し込んだ。
とりあえず着替え、顔を洗い、朝食を作り始める。
僕は佐倉颯斗。X芸術大学音楽学部声楽科に通う2年生だ。変声期を経てもそれほど低くはならなかったので主にテノール、あとほんの時々、普通のテナーより高い音域のカウンターテナーを担当している。
今日は授業が午後からだからか、思いっきり気が抜けてしまっているみたいだ。
また…あの夢も見たし。
時々見る、甘い、あまい、優しい夢。
言ってしまえばただ金木犀の海に沈んでいくだけ。でもその世界の美しさとそこで幽かに聴こえる「歌」には、理性も感情もすべてぼやけて消えてしまう不思議な効用があった。
はじまりも、結末も、展開も、全部一緒。
それでも僕は何度も同じ夢を見る。その度に思い出さなきゃいけないような、重たくも
一度こうなってしまえば、僕の頭は日常へ順応せざるを得ない。ビロードの奥に隠れた何かには気を遣る隙もなく、目まぐるしい量の情報と思考の濁流の交通整理で手一杯になる。
あと、その夢を見た日の朝は、自分が一番清らかな状態にある気がする。心の底にある邪険な気持ちも、朝方の
とにかく不思議で、美しく甘い、優しい夢だ。
あれこれしているうちに、気づけば家を出る時間になっていた。
一人暮らし故に「いってきます」のような挨拶をする相手はいないが、玄関の棚に置いている母の写真に「いってきます」を必ず言って家を出るようにしている。
母はアルト歌手だった。
小さな劇場で、そこ一番の美声を奏でていたという。主演も、主役になることが少ないアルト歌手にしてはそこそこの数の作品で務めていたらしい。
自分の母であるのにこんな人づての言い方になるのは、僕が幼い時、そして彼女が全盛期だった時に亡くなってしまったからだ。…他殺で。
犯人も分からず、殺されるような動機にも心当たりのないまま、その事件は母の遺骨ごと闇に葬られてしまった。父は事件の前に失踪し、今も消息は不明のまま。警察も父の事を怪しんだが、証拠や手がかりの少なさに早々に音を上げた。
その後の僕は父方の叔父の家に預けられ、実の親よりも溺愛する勢いで育ててもらった。芸大に通えているのも、叔父さんが惜しみなく援助してくれるおかげである。
僕にとって歌は、母の面影をたどるための手がかりなのかも知れない。
あの夢で聴こえる幽かな声も、ひょっとしたら母のものなんじゃないかって、もがいて橙色の外に出ようとする。自分もあんな風に澄んだ声で、光を凝り固めたような清らかな歌を歌えたら…と願うだけ無駄だろうか。
神様は慈悲深く、それでいて意地悪だ。
自分が一番やりたい事をさせてくれる代わりに、それをするために一番欲しいものをくれはしない。恵まれた環境を与えてくれても、それに維持する力は付いてこない。
現実は、甘くない。
電車に乗った。
朝の満員電車ほどはなくとも、座る席を確保するのは難しい午前の終わりごろの電車。つり革に掴まらずにバランスを取ろうとして、失敗するのはお決まりの流れだ。いつもの駅で降り、改札を抜けて、大学前の大きな通りに出る。
ここはよく整えられた楠並木が、左右対称に綺麗に改札の出口から大学の門の前まで続いている。その枝葉が陽をいっぱいに照り返して道行く人を密かに照らすスポットライトみたいになっているのが、僕は好きだ。思わずスキップしたくなる。でも小学生でもない大の大人が道端でしかも公然とスキップなんぞしていたら、頭のおかしい奴だと思われる。だから空想の中に留めて、スキップに回せないエネルギーを、少しやる気の乗らない授業を乗り切るための力に回すのだ。
大学に着いた。
芸大に相応しい凝ったデザインの門は、一期生の一人が卒業後に建造して寄付したものだという。その門の両脇にそびえるのが桜の木と、金木犀の木。
春は桜、芸術の秋には金木犀が彩り香る校舎は、歴史を感じさせる風格ある佇まいと正面玄関の上に設置されたステンドグラスが特徴的で、創立当時から維持工事を経つつ変わらない姿を保っている。今は晩夏でどちらも青々とした葉をまだ残しているけど、もうすぐ金木犀の季節が来る。そう思うと、ふわふわした不思議な高揚感が淡く心を染めていく。
門の前で僕は立ち止まり、あの夢の世界にもう一度浸る。目を閉じて、一瞬だけ。
そうすると、肩書きの大学生は「僕」に変わる。透きとおった清らかさが僕の緊張を和らげて、始まりの気持ちにさせてくれる。
…さて、今日も
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