鉄槌
井藤希が緊急逮捕された。
柴崎亜由美、長谷川真理子、水谷信二の三件の殺害について、井藤希は犯行を認めている。井藤希は柴崎亜由美に騙され、自殺した井藤健太の母親だ。動機は息子の復讐だ。柴崎亜由美は結婚を餌に息子を騙して金を巻き上げた張本人、水谷は金を返せと息子に迫り、自殺に追い込んだ張本人だ。だが、井藤健太の自殺と長谷川真理子がどう結びつくのか不明だった。
竹村と吉田が取り調べに当たる。それを阿佐部が、隣の部屋からマジックミラー越しに見守った。
「あの子は居酒屋のアルバイト以外に家庭教師のアルバイトをしていました」と希は言う。「学費のことなんて、気にしなくて良いと言ったのですが、大学生になったら、もう母さんに迷惑はかけられない。子供じゃないんだからと言って、アルバイトを掛け持ちしていました」そう言って希は涙を拭った。
当時、井藤健太が家庭教師のアルバイトをしていたのが渡辺家だった。
「不動産会社の社長さんだそうで、奥様が有名な女優さんだそうです」
調べてみると直ぐに分かった。渡辺英明という実業家で、妻はあの森友由香だった。盗難事件では、森友由香の知名度が高いことがあって森友家と呼ばれていたが、実際は渡辺家だった。井藤健太は渡辺家の長女、萌音の家庭教師をやっていた。
「お金の返済を迫られた時、健太の脳裏に渡辺家のことが浮かんだはずです。健太の知り合いの中で、最もお金持ちなのが渡辺さんだったでしょうから。ところが――」
例の盗難事件だ。
折しも、渡辺家で盗難騒ぎがあって、家族以外の人間の屋敷への立ち入りが制限された。自宅の周りに報道陣が押しかけ、家で勉強をするような環境ではなかった。萌音の家庭教師のアルバイトは一時、中断してしまった。渡辺夫妻と会って借金を申し込むなど、とても出来る状況ではなかった。
「あの時は、それこそ、上へ下への大騒ぎでしたから。渡辺さんご夫妻は、健太と会って話を聞く余裕なんて無かったでしょう」
絶望した井藤健太は電車に身を投げて自殺してしまった。間接的にだが長谷川真理子は健太の自殺に関与していたことになる。長谷川が盗難騒ぎを起こさなければ、井藤健太は渡辺夫妻から金を借りることができたかもしれない。
事情を聞きに、渡辺英明のアパレル会社を訪ねた。
豪華な社長室を想像していたのだが、ありふれたオフィスの一角で渡辺英明は仕事をしていた。刑事の来訪を知ると、機能的だが飾りの無い会議室に通された。
スリムで背が高い。吉田と変わらない背丈だ。髪の毛は白髪が目立つが、皺の多い彫りの深い顔立ちで、大女優の森友由香が結婚相手に選んだのが頷けた。
挨拶の後、「社員と同じ目線で仕事をされているのですね」と竹村が聞くと、「いえいえ。そんな立派なものではありません。この会社が上手く行くまで随分、苦労をしましたから、豪勢な社長室をつくる金が惜しいだけです。無駄な投資はしたくない」と渡辺が苦笑しながら答えた。経営者として有能なのだろう。
井藤健太のことを聞くと「健太君! 亡くなった、それも自殺したと聞かされた時には驚きました。将来有望な若者だと思っていたのですが残念です」と顔をしかめた。「彼、たった二、三十万円の金で自殺したのでしょう。 一言、一言、我に言ってくれれば、それくらい、直ぐに用立てたのに。あんな良い子を騙すなんて信じられない」と眉を吊り上げた。
激情家なのだろう。感情が顔に出てしまう。そして、渡辺は意外なことを教えてくれた。
井藤健太は素直で優秀な若者だったが、大事な娘の家庭教師として雇ったのは他にも訳があったからだと言うのだ。
「訳ですか?」
「はい。親しくさせて頂いている方から是非にと頼まれたからです。それも、自分が頼んだことは本人には伝えないで欲しいという条件で。無論、大事な娘を預けるのです。会ってみて気に入らなければ断ってもらって構わないと言われました」
「どなたから頼まれたのですか?」
「それは・・・」と渡辺が口ごもる。
会議室に沈黙が訪れる。沈黙を破って阿佐部が言った。「成田孝臣さんですか?」
「えっ⁉」と渡辺が目を見張る。
「ナリタ・エンタープライズ会長の成田孝臣さんでしょうか?」
「どうしてそのことを?」
確たる裏付けがある訳ではない。感で言ったのだ。だが、そうは言えないので、阿佐部は「井藤希さんを拘束しています」と誤魔化した。
渡辺は納得した様子で言った。「希さんから聞いたのですね。やはり、健太君は成田さんの隠し子だったのですね。成田さんから紹介があって、健太君を始めて見た時、成田さんにあまりに似ているものだから、もしかしたらって、ずっと思っていました」
阿佐部は驚きを隠しつつ尋ねた。「二人は似ているのですね」
「似ていますね。直ぐに親子だと分かるくらい」
「何故、健太君の存在を秘密にしていたのでしょう?」
「それは――」と渡辺は成田家の事情を教えてくれた。
一代で町の不動産屋を大手開発業者へと育て上げた成田孝臣は入り婿で夫人に頭が上がらなかった。二十年前、成田孝臣は若い秘書と親密な関係になった。だが、二人の関係が夫人に知れ、秘書は会社を辞めさせられ、浮気は終止符を打った。
「知る人ぞ知る話です。その時の秘書というのが、井藤希さんです」
どうやら別れた時に子供を身籠っていたようだが、希はそのことを成田に伝えなかった。成田孝臣は長い間、井藤健太の存在を知らなかったようだ。
一方、成田孝臣と夫人の間には子供が出来なかった。
「成田さんは希さんがシングルマザーとなって子供を育てていることを知った。年恰好から自分の子供ではないかと思ったのでしょうね」
渡辺が知っているのはそれだけだった。後は希を直接、問い詰めるしかない。
だが、井藤希は成田孝臣との関係については勿論、健太の父親が誰であるかについても口を閉ざしたままだった。
三人を殺害したことについては認めていた。
「健太を騙した柴崎亜由美、自殺に追い込んだ水谷信二、そして、逃げ道を塞いでしまった長谷川真理子、この三人がどうしても許せなかった」そう、井藤希は証言した。
「どうやって三人もの人間を殺害したのですか?」
竹村が尋ねる。三人の人間、しかも一人は男だ。華奢に見える希が三人もの人間を殺害したなど信じられなかった。
「人材派遣会社のスタッフだと偽って、長谷川真理子さんと共に黄鶴楼に向かいました。黄鶴楼に着くと部屋で彼女を絞殺し、彼女に成りすましました」
「えっ! 最初に殺されたのが長谷川だったのですか⁉」
「そうです。柴崎さんたちが黄鶴楼に到着する前です。私たちが最初に屋敷に着き、翌日、水谷さんと日野さんが屋敷に来ました。柴崎さんたちが屋敷に着いたのは、その翌々日になります。部屋で彼女を絞め殺し、入れ替わりました。屋敷の人は皆、彼女と面識がありませんから、入れ替わってもバレる心配はありませんでした。それでも、念のために眼鏡とマスクで顔が分からないように変装していました」
確か柴崎がそう証言していた。長谷川真理子は何時も大きなマスクをしていて顔が分からなかったと。柴崎の供述に出て来た長谷川真理子は井藤希がなりすましたものだったのだ。
「長谷川真理子の遺体は部屋に放置したままだったのですね?」
「はい。私は隣の空き部屋を使っていました」
ハウスキーパーとして黄鶴楼の中を自由に動き回ることが出来たからだ。そのことを希に尋ねると、「そうです。長谷川さんを殺した後、柴崎さんたちが黄鶴楼にやって来ました。隙を見て柴崎亜由美さん、水谷信二さんを殺害するつもりでした。彼らが寝静まった後に、合鍵を使って部屋に忍び込み、殺害するつもりでした」と答えた。
ところが、予定が変わった。黄鶴楼に着いて直ぐ、外に出た柴崎亜由美が一人で戻って来た。塔に登って行く後ろ姿を、偶然、見かけたのだ。後を追うと、柴崎亜由美は展望スペースに行き、手すりから身を乗り出して、屋根の上に落ちていた何かを拾おうとしていた。
「絶好のチャンスだと思いました。背後から忍び寄り、背中をとんと、押すだけで転落してしまう。そう思いました。実際、背後から近づいて、彼女の背中をちょっと押しただけで、あっ! と悲鳴を上げながら、彼女は落ちて行きました」
「柴崎亜由美を突き落としたことを認めるのですね」
「はい。彼女を突き落とした後、屋根の上を見ると、丸いナットのようなものが落ちていました。彼女、それを拾おうとしていたみたいです。指輪か何かだと勘違いしたのでしょうかね。目が悪かったのですね」
「欲に目が眩んだのでしょう」
「欲に目がくらむとナットが指輪に見えてしまうのですね」と言って、希は「ふふ」と笑った。
「長谷川真理子、柴崎亜由美を殺した方法は分かりました。後は水谷信二です。女性のあなたが、どうやって水谷を絞め殺すことが出来たのですか?」
「それは・・・」と希が口を濁す。そして、「最初の計画通り、彼が寝静まるのを待って合鍵を使って部屋に侵入し、絞め殺しました」と吐き捨てるかのように早口で言った。
「違うだろう!」隣の部屋でマジックミラー越しに見ていた阿佐部が声を荒げた。
「それは変ですね」竹村にもちゃんと分かっている。阿佐部の声が聞こえた訳ではないだろうが直ぐに反応した。「柴崎の証言によれば、水谷が殺害された夜、村田、いや鈴木と言った方が良いでしょう。鈴木がマスターキイを他人に持たせておきたくないとゴネて、空き部屋の金庫にマスターキイを保管したはずです。あなたが使っていたマスターキイも一緒に金庫に仕舞われた。違いますか?」
「ふふ」と希が笑う。「皆さん、何故、部屋の鍵がひとつだけだったと思い込んでいらっしゃるのかしら?ひとつの部屋をお二人で使用することもあります。部屋の鍵がひとつ以上あって不思議ではないでしょう。鍵さえあれば部屋に忍び込むことができます」
「部屋の鍵がもうひとつあったということですか?」
「そうです。各部屋、ふたつずつ鍵があって、スペアキイは事務室にあるキイボックスに保管されていました」
「そんなこと水谷は言っていませんでした」
「スペアキイのことは誰にも言わないでおいてくれと、水谷さんに頼まれました。そして彼、私にこう言ったのです。切り札は最後の最後まで取っておくものだと」
どうやら自分の首を絞める切り札となったようだ。
「なるほど。鍵のことは分かりましたが、あなた一人で、一体、どうやって水谷の遺体を丸池まで運んだのですか? 水谷はがっしりとした体形だったと聞きました。女性のあなたに大の男の体を運ぶなど無理なような気がします」
「あら、こう見えて結構、力持ちなのですよ」と希がうそぶく。
「ドアロックは? 部屋にドアロックは掛かっていなかったのですか?」
「ドアロックは掛かっていませんでした」
「そもそも、遺体をわざわざ丸池に運ぶ必要なんてなかったのではありませんか?何故、苦労をして遺体を丸池まで運んだのですか?」
「それは・・・外に出ると危険だと警告する為です」
「住人の恐怖心をあおり、部屋に籠城させるつもりだったと。住人は逃げ場のない孤島だと思い込んでいた。殺人鬼がうろついているとなると部屋に籠城する方が安全です。しかし、生き残ったやつらを屋敷に閉じ込めておいて何をするつもりだったのですか?」
「それは・・・」また希が口ごもる。
言いたくないことが幾つかあるようだ。
「屋敷を爆破して一網打尽、彼らを抹殺するつもりだったのでしょうか?」
「そんな・・・ひどいこと・・・」
急に歯切れが悪くなった。
「では、柴崎、日野、鈴木の三人をどうするつもりだったのですか? そもそも何故、彼らを島に、いや島じゃなかった。黄鶴楼か。黄鶴楼に呼び寄せたのですか? 殺す為だったのではないのですか?」
「違います」
水谷信二殺害後、井藤希は築山の塀を乗り越え歩いて町まで出て東京に戻った。屋敷を離れた後のことは何も知らない。屋敷に残った住人によって殺し合いが始まったことや、屋敷が倒壊してしまったことは知らなかった。詳しいことは分からないが、地下の発電施設が暴発したか何かの原因で爆破が起こったのではないか、希はそう証言した。
「どうやって彼らを黄鶴楼に呼び寄せたのですか?」
「それは・・・」
「そもそも誰が何の目的であの屋敷を建てたのですか? あんな人も呼べないような場所に宿泊施設をつくる意味があったのでしょうか?」
「あら、景色の素晴らしい場所ですよ。療養施設として使えると思います」
「道路を塞いで孤島に見せかけ、港は崩壊していて船も近づけない。そんな場所に療養施設をつくっても誰も行かないでしょう」
「そうかもしれませんね」と頷いた後、希は「私が三人を殺しました。長谷川真理子、柴崎亜由美、水谷信二を殺したのは私です。それで十分でしょう。刑事さん、さあ、さっさと私を死刑にして下さい」と言った後、一言もしゃべらなくなってしまった。
黙秘だ。事件の背後に福永昌弘と名乗った牧野の存在があることは確実だったが、牧野についても「牧野さん。成田の秘書をしていましたから、当然、存じ上げております。会社を辞めてからは一度もお会いしたことはありません」と事件への関与を否定した。
無論、成田孝臣については、一切、語らず、井藤健太の実の父親が誰なのかについても貝のように口を閉ざしたままだった。
「成田を庇っているのでしょう」
「事件当時の、成田孝臣のアリバイを探ってみましょう」
ナリタ・エンタープライズに成田を訪ねることにした。
再びナリタ・エンタープライズを訪れた。
吹き抜けの天井の高いロビーで、阿佐部は「私みたいな田舎者は、何度来ても、圧倒されてしまいます」と感嘆の声を上げると竹村が言った。「成田孝臣がこの入れ物に相応しい人物であれば良いのですけど」
「先輩、良いことを言いますね~先輩も警視庁に相応しい刑事になって下さい」と吉田。
「俺は既存の枠組みに収まりきらない男なのだよ。吉田君」
「もっと大きな檻が必要だってことですね」
「人を動物園の猛獣みたいに言うな」
「はは。すいません」
この賑やかさにも慣れて来た。
受付で警察バッジを見せながら「成田会長にお会いしたい」と伝えると、「ご予約はおありですか?」と聞かれた。「ありません」と答えると、受付の女性は当惑した様子で「突然、いらっしゃっても・・・会長はご多忙ですから・・・」とゴネられた。
「取り敢えず警察が来たと会長に伝えて下さい」と粘ると「連絡がつきました」と言われ、暫くホールで待たされた。
やがて牧野が姿を現した。
「刑事さん。お久しぶりです」牧野は笑顔を浮かべたが、目の奥が笑っていない。「さあ、こちらへ」と高層階行きのエレベーターに案内された。
最上階、役員フロアの会長室へと案内された。
「凄いですね」阿佐部は勿論、竹村と吉田も、その豪華さに驚かされていた。
フロア全体が高級ホテル並みだ。ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩いて行く。一番奥に会長室があった。成田孝臣が待っていた。意外に小柄だ。細身で細長い顔、ネズミを思わせる風貌だ。豊臣秀吉の肖像画を思い起こさせる。
壁いっぱいに広がった窓があり、その窓際にデンと据えられたデスクから「成田です」と小男が軽快に立ち上がり、革張りの応接ソファーにやって来て座った。
成田に対面する形で阿佐部たちが腰かける。牧野は座らずに成田の背後に立った。
「お忙しい中、お時間を頂きまして、ありがとうござます」
「なあに。会長に退いてからは時間に余裕が出来ました。暇にしていますよ」
だからこうして刑事に会っているのだということだろう。
「さて、御社が愛媛県に建てた黄鶴楼についてお聞きしたいのですが――」
竹村の尋問が始まる。だが、黄鶴楼については「さあ、幾つもプロジェクトを抱えているものですから、全て把握している訳ではありません」と答えてから、背後の牧野に「どのクラスの案件だ?」と尋ねた。
「Cクラスです」と牧野が答えると「私の決済が不要な案件ですね。何処かの部署の誰かが企画して実施したプロジェクトでしょう。ご不明な点があれば牧野に調べさせましょう」と逃げられてしまった。
「花里公房に前掛けを注文されているようですが――」と五戒の前掛けについて質問してみると「ああ、花里さん。先代の頃から贔屓にさせてもらっています。前掛け? さあ、そんなもの頼みましたかね。覚えていません」とはぐらかされた。
事件当時のアリバイを確認すると「どうだったかな?」と牧野を振り返った。
「こちらにいらっしゃいました。出退勤システムに出退勤の記録が残っていますので、後で提出いたしましょう」と牧野がスケジュール表を見せてくれた。
一日の内、午前か午後、或いはその両方に会議が入っており、会議以外の時間は会長室にいたということだった。
余裕綽々でかわされてしまう。こうなれば直球勝負だ。
「井藤希さん、ご存じですね? 黄鶴楼で起きた三件の殺人事件、長谷川真理子、柴崎亜由美、水谷信二の殺害について罪を認めています」と告げると、成田は「えっ⁉」と驚いた後で「何故?・・・」と絶句した。
「牧野!」と声を上げて頭上を振り返る。
「すいません。会長にお伝えするには、まだ早いと思い、黙っておりました」と牧野が頭を下げる。
井藤希が捕まったことを成田は知らなかったようだ。
「うむ・・・」と成田は唸った。
「動機は復讐。息子さんを殺されたことが殺害の動機だと言っています。井藤健太さん、ご存じですよね?」
「あれが会社を辞めてから、何処で何をしているのか知らなかった。いや、知らない振りを、思い出さない振りをしてきた」唐突に成田がしゃべり始めた。井藤希のことのようだ。「ある時、ふと気になって、あれが何処に住んでいるのか、ここにいる牧野に調べさせた。それから、近くを通る度に、あれが住んでいる場所の最寄り駅の辺りを通ってもらった。あれの姿を何度か見かけた。元気そうで安心した」
こういう時はしゃべりたいだけしゃべらせた方が良い。竹村は成田がしゃべるに任せた。
「ある日、あれが男と並んで歩いているのを見た。新しい男が出来たのかと思って寂しいような嬉しいような気持ちになった。随分、若い男だと思ったが、顔を見て驚いた」
そこで言葉を切ると、竹村、阿佐部、吉田と三人の顔を見回してから言った。「私だった。若い頃の自分を見ているようだった。あの子の顔を見た途端、私は全てを悟った。あれが未婚のまま私の子供を産み、シングルマザーとなって育てていることを。いや、違う。そうじゃない。あれは私の子供を身籠ったからこそ、黙って身を引いた。姿を消したのだ」
「どうしてです? どうして、あなたに何も言わずに姿を消したのですか?」
「あれは家内を怖がっていた。癇の強い女でな。妊娠のことが家内に知れたら、それこそ子供を堕ろせと言い出しかねなかった。だから、姿を隠したのだと思う。子供を守る為に、私の前から消えたのだ。私の子供がいる。会えなくても、あれが私の子供を育ててくれている。あの時は、それだけで満足だった」
「会いたいと、親子の名乗りを上げたいと思わなかったのですか?」
「先年、家内が亡くなってね。頭の上に載っている重石が取れたような気がした。もう憚るものはないと、あれに会いに行った。君の言う親子の名乗りを上げさせてくれと頼みに行った訳だ。健太を私の子供として認知したかった。だが断られた」
「断られた?」
「あれは気丈な女だ。健太は私の子供じゃないと会わせてくれなかった。健太の顔を見ろ。どう見ても私の子供だ。そう言ったが、私の子供じゃない。父親は事故で死にました。あの子にもそう言ってある。私たちを放っておいてくれと、あれはそう繰り返すだけだった。私も根負けした」
「今は親子鑑定、DNA鑑定で親子かどうか確かめることが出来ますよ」
「そんなことくらい分かっている。健太とこっそり会って、確かめることも出来た。だが、あれの気持ちも分からないではなかった」
「と言いますと?」
「私は若い頃に苦労をした。家内と出会って結婚するまで浮浪者同然の生活をしていた。まあ、私の場合は自業自得だが、あれはもっと悲惨だ。母子家庭で母親の育児放棄に合い、養護施設で育った。頭の良い子でね。うちは子供がいなかったので、あれのように経済的な理由で進学できない向学心の強い子供の支援をしていた。金を出しただけだが、大学を卒業して私の会社に面接に来てくれた時に初めて会った。恩返しがしたいと言われた。そんなつもりで金を出したのではないと言ったが優秀な子だ。人事が採用してしまった。取ったからには働いてもらう。私の秘書になってもらった」
希のことを話す成田は楽しそうだった。「出会いの話はさておき、あれも若い頃に苦労した。若い頃の苦労は将来の肥やしだと、あれは考えていたようだ。いや、若いころの贅沢は毒にしかならないと考えていた。だから、健太が成人するまで、甘やかしてもらっては困る。そう考えていたのだろう」
「だから陰ながら健太君の成長を見守ることにした。でも、健太君に渡辺家の家庭教師の口を紹介したのはあなたですよね?」
「はは。お見通しか。あれも知っておったかもしれないな」
「渡辺さんが言っていました。健太君を一目見て驚いた。あなたにそっくりだと」
「なるほど。裏で手を回してあったが、あっさり決まったのは、そんな事情があったからだね。私に恩を売っておくつもりだったのだろう」
「健太君からお金の相談があったら、いくらでも用立てるつもりだったと言っていました」と竹村が言うと、途端に成田が顔を歪めた。そして、「健太が成人した暁には、二十歳になれば、堂々と親子の名乗りを上げさせてもらう。それだけが私の生きがいでした。後、半年、いや一か月もすれば、その機会が訪れたはずだった。その生きがいが奪われてしまった・・・」と呻くように言うと「刑事さん、そろそろ宜しいでしょうか? これから会議がありますので、他に話が無ければ、今日はこれくらいにさせて下さい」とソファーから立ち上がった。
牧野がずいと前に出て来て、「どうかお引き取り下さい」と丁寧にお辞儀をした。出て行けと言わんばかりだ。
「そうですか。もう少しお話をお伺いしたかったのですが」
三人は渋々、立ち上がった。
成田は窓際のデスクの椅子に腰を降ろすと、三人に向かって「刑事さん。また会いましょう」と笑顔で言った。
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