不邪婬戒
内村亜由美の身元が意外なところから明らかになった。
行方不明者リストの中に内村亜由美という名前の人物はおらず、身元が分からないままになっていた。ところが、事故死した柴崎高尚の戸籍を調べてみると、柴崎が結婚していたことが分かったのだ。戸籍上の妻の名前は亜由美、旧姓を内村と言った。内村亜由美は柴崎の妻だった。
柴崎と亜由美は他人同士ではなかった。夫婦だ。道理で親しかった訳だ。だが、何故、妻の亜由美を他人だと偽っていたのか謎のままだった。
そこで、阿佐部と竹村、吉田は柴崎夫妻が住んでいたアパートを訪れることにした。
出頭した牧野は福永昌弘の名刺を作成し、花里公房に地蔵の前掛けの製作を依頼したことを認めている。だが、黄鶴楼の事件については完全黙秘を続けた。
和田家と東口良治に牧野の顔写真を確認してもらったところ、牧野と福永が同一人物であることが分かった。牧野が福永昌弘を名乗り、事件に関与していたことは間違いなかった。
福永昌弘という人物は実在していた。
かつて品川区に在住しており、町工場で働いていた。十数年前に町工場が倒産してから、行方が分からなくなっている。当時、住んでいたアパートは家賃を滞納し追い出されていた。岡山に母親と姉が健在だが、ここ十年、福永からの連絡はないという。
生きているのか死んでいるのか分からないと言うことだった。
牧野は浮浪者となった福永昌弘から戸籍を買い取ったのではないかと考えられた。
だが、黄鶴楼で事件が発生していた時期、牧野は都内から動いていない。毎日、規則正しく会社に出社しており、それを裏付ける証人に事欠かなかった。
名刺の偽造にしろ、偽名で花里公房に前掛けを発注したことにしろ、成田実業は勿論、ナリタ・エンタープライズは当然、被害届を出していない。犯罪ではないのだ。これ以上、拘束を続ける理由はなかった。
牧野は釈放された。牧野を追い詰める新たな証拠が必要だった。
住民票では亜由美は夫の高尚と大田区のアパートの二階に同居していることになっていた。アパートを尋ねてみたると、年季の入ったアパートだった。当然のようにアパートは無人だった。管理人に鍵を開けてもらって中に入った。
人が暮らしていた形跡が見られたが、室内は散らかっていた。女物の服や靴がなく、若い夫婦が住んでいたようには見えなかった。
管理人に尋ねると、「夫婦?いえ、若い男の人が一人で住んでいました。仕事をしている様子がなく、何時もぶらぶらしていましたね。彼、結婚していたのですか?」と逆に質問される始末だった。
部屋には、竹村も知っているブライダル会社のパンフレットと柴崎の名前の入った名刺があった。無職だったと言うが、過去にブライダル会社で働いていたことがあったのかもしれない。
押入れの中には荒れ果てた部屋に不似合いな高級そうなスーツにネクタイ、革靴が一式、仕舞われていた。
机の上に山積みになっていたダイレクト・メールを確かめると、中に少なからず柴崎亜由美宛のものがあった。亜由美がここに住んでいたことは間違いないようだ。
近所の住民に柴崎のことを尋ねて回ったが、アパートで暮らしていたのは柴崎高尚、一人だけだったと、みな、口を揃えた。ただ、時折、部屋を訪ねて来る若い女の人がいたと証言した住民がいた。
「どうやら柴崎亜由美は、別の場所で暮らしていたようだな」
そこに犯罪の匂いを感じた。
「竹村さんは鼻が利きますからね」
「人を犬みたいに言うな」
「そんな、犬だなんて滅相も無い。僕は竹村先輩のことを心から尊敬しています。だから、そんなにキャンキャン吠えないで下さい」
「お前な・・・俺のこと、馬鹿にしてないか?」
相変わらず賑やかな二人だ。
「そんな、滅相もない。さて、どうします?」
「職場を当たってみるか。良いですか? 阿佐部さん」
「ええ、勿論」
柴崎亜由美の社会保険の記録から職歴を洗ってみた。亜由美は職を転々としていたが、現在は都内の商業施設にある化粧品売り場で販売員をしていることになっていた。
都内商業施設の化粧品売り場を尋ねた。
売り場の責任者らしい、やや年嵩の売り子の話では、先月、突然、辞めたいと言い出し、職場に顔を出さなくなったということだった。
「綺麗な子で接客も上手かったし、急に辞められて困っています。身勝手な子でしたけど、ここまで勝手な子だとは思いませんでした」
年嵩の売り子はお冠のようだったが、亜由美は優秀な販売員であったようだ。亜由美が結婚していたことを告げると、「えっ? あの子、結婚していたのですか?」と驚いた表情だった。
売り場の同僚は誰も亜由美が結婚していたことを知らなかった。履歴書を見せてもらうと名前は柴崎ではなく内村亜由美となっており、住所は武蔵小杉のマンションになっていた。
「あの子と一番、仲が良かったと思います」と年嵩の売り子が紹介してくれた若い女性から話を聞いた。「大田区? いいえ、あの子は武蔵小杉のマンションに住んでいました。何度か泊めてもらったことがありますから、間違いありません」と女性は答えた。そして、意外な事実を打ち明けた。
「あの子が結婚していたなんて、何かの間違いじゃありませんか? だって、あの子、IT会社の社長をやっている青年実業家と付き合っていて、近い内に結婚するって言っていましたから」目元に剣のある若い売り子が言葉尻に妬心を滲ませながら言った。
そのIT会社を経営する青年実業家について尋ねてみると、「ダメダメ、彼を紹介してよって頼んだんですけど、あの子、絶対に私たちには会わせてくれませんでした。私たちに取られては大変だとでも思っていたんじゃないですか。名前も知りません」と顔の前で手を振った。
「どうも、ありがとうございました」
化粧品売り場を後にすると亜由美が住んでいた武蔵小杉のマンションへ向かった。
大田区のボロ・アパートとは違い、小奇麗なワン・ルーム・マンションで当然のように亜由美の姿はなかった。
管理人に鍵を開けてもらって部屋に入った。
最近は部屋を片付けられない女性が増えたと言うことだが、部屋の中は殺風景なくらい片付いていた。
部屋中、隈なく調べたが、亜由美が付き合っていたという青年実業家に関するものは何も見つからなかった。
と言うか、生活をしていた痕跡はあるのだが、家族や恋人と一緒に撮った写真や葉書、手紙、学生時代の卒業アルバムと言った人間関係が分かるものが、まるで見つからないのだ。
人間関係が希薄な女性であったようだ。だが、それにしても異様だった。故意に、人間関係が分かる物を置いていなかったのではないかと思われた。
家具が少ないことも妙だった。
家で調理をしなかったのか、台所には鍋や包丁と言った調理用具が全くと言って良いほど見当たらなかった。炊飯器は勿論、今時、必須とも言える電子レンジすら置いてないのだ。
部屋を捜索していた阿佐部が「何時でも逃げ出せる用意をしていたのかもしれませんね」と独り言を言った。
「流石は阿佐部さん。その可能性大じゃないですか。犯罪の匂いがしますね」と竹村が言うと、「先輩は鼻が利きますからね」と吉田が嬉しそうに言った。
「鼻だけじゃなく、腕も利くのだ」
「聞かないのは人の話くらいですものね」
「上手いこと言うねえ~その才能を捜査に生かしてもらいたいものだ」
「痛いところ突きますね」
相変わらずだ。見ていて飽きない。
手掛かりとなりそうなものが見つかった。リビングのテーブルの上にあったメモだ。電話で話をしながらメモを取る癖があったようだ。メモには手持無沙汰で書いた図形のような殴り書きが多かった。「明日」や「渋谷」と言った文字が読めた。名前と思しききものや、数字を羅列したものがあった。電話番号かもしれない。
竹村と吉田は手分けして、亜由美が働いていた職場を回ることにした。亜由美の過去を洗い出すのだ。
「阿佐部さんは吉田と組んで回って下さい」と竹村が言う。
土地勘の無い阿佐部だ。「すいません。戦力になれないばかりか、足手まといになってしまって」と恐縮すると、「なあに。吉田のこと、見張っていて下さい」と竹村が笑う。
「至らないところがあれば、何でも言って下さい。色々、勉強させて下さい」と吉田も腰が低かった。気の良い若者たちだ。
阿佐部と吉田は化粧品売り場から職歴を遡って行き、竹村は反対に亜由美の過去から順に調べることにした。
「俺は電車で動く」と竹村が地下鉄駅に向かったので、阿佐部は吉田の運転で次の職場に向かうことになった。
次の職場は不動産屋だった。化粧品売り場の前に働いていた職場になる。不動産屋の事務員として働いており、化粧品売り場とは打って変わって地味な仕事だ。ここでも内村亜由美の名前で働いていた。
「内村さんねえ~」と若禿でひょろひょろと細長い、不動産屋に見えない社長は暫く考えた後で、「綺麗な子でしたね。うちに居たのは一年未満だったと思います。仕事に慣れて来たなと思ったら辞めるでしょう。最近の若い子は・・・結婚すると言うので、仕方ないかなと」と言った。
「結婚ですか⁉」
ここでも結婚を理由に会社を退社していた。
「それがどうもお相手はうちのお客さんみたいでね。結婚相手を探しに、うちに来たみたいなものです」
亜由美が結婚していたことを伝えると、社長は「あれ~? じゃあ、聞き間違いかな。まあ、見かけは良かったけど要領の悪い子でね。辞めてもらって、こちらとしては助かりました」と言って笑った。
「もう処分してしまいました」と亜由美に関する書類は何も残っていないと言う。不動産屋を後にした。
次の職場は全国展開しているレストランだった。不動産会社の前に働いていた職場だ。ここでも一年少々、働いただけで結婚を理由に退職していた。
いずれの職場でも亜由美は結婚を理由に退職している。結婚相手は不明で、同僚たちに婚約者のことは一切、明かしていなかった。無論、結婚式に招待された同僚など、一人もいなかった。
「結婚詐欺を働いていたんじゃないですかね?」レストランを後にした時、吉田が思わず呟いた。
「その疑いは濃厚ですね。あのマンションは何時でも引き払えるように、わざと荷物を少なくしてあった」
「何時でも夜逃げできる状態だった訳ですね」
恋多き女で、恋愛を繰り返したとも考えられる。だが、亜由美は戸籍上、十代の若さで柴崎と結婚しているのだ。その後、離婚したという記録はない。亜由美の行動は明らかに変だった。
レストランの前に勤めていた職場は町工場だった。ここで事務の仕事をしていた。
「内村さん? ああ、あの子。うちで働いていたのは一年くらいかなあ~結婚すると言って辞めたよ」と当時の上司であったという男性から、また同じような台詞を聞かされた。
だが、今回は収穫があった。「結局、上手く行かなくて破談になったみたいだけどね。あれじゃあまるで結婚詐欺だ、彼が可哀そうって、皆で話していたのよ」と相手の男性を知っている様子だった。
ようやく被害者らしき男性を探し当てることができた。
相手は大手企業に勤める加藤というサラリーマンだった。工場近くの支店に勤務しており、会社を尋ねると刑事だと聞いて当惑した様子で会ってくれた。
「僕が何かしましたか?」
小柄で小太り、冴えない風貌の三十男だ。
「内村亜由美さんについてお聞きしたいことがあります」と吉田が伝えると「ああ、彼女・・・」と眉を寄せた。
内村亜由美とは一年程前、彼女が町工場で事務の仕事をしている時に知り合ったと言う。町工場は加藤が勤める会社の下請けをしていた。新製品の部品制作の打合せで町工場に行き、そこで事務をしていた亜由美と知り合った。
一目で気に入ったが、自分のような男は相手にされないだろうと、はなから期待していなかった。それが、ある日、彼女から「食事に連れて行って欲しい」と声をかけられた。
「それまで、女の子と付き合ったことなんてなかったので、びっくりしました。もう、それからは彼女に夢中で――」
亜由美のような美人に見染められて、すっかり舞い上がってしまった。とんとん拍子に話が進み、付き合い始めて三か月目には結婚が決まっていた。
「今、思えば全てが順調過ぎました」
亜由美に急かされるようにして婚約指輪の購入代金と結婚式の費用を準備した。そして、亜由美から紹介されたブライダル会社の男に金を渡すと、亜由美は急に冷たくなった。
「原因はほんの些細なことだったのです。食事中に、僕の食べ方が汚いと言われて、そんなことないだろうと言い返してから、彼女との仲がどんどん険悪になって行きました」
結局、婚約解消となり、指輪と結婚式の費用は戻って来なかった。そして、亜由美は町工場を辞めた。
「被害届を提さなかったのですか?」吉田が尋ねると「被害届?」と加藤は意外そうな顔をした。「僕は別に亜由美さんに騙された訳ではありません。悪いのは僕なのです」
加藤には亜由美に騙されたという意識が無かった。
「その内村亜由美さんから紹介されたブライダル会社の人間というのはどなたですか? 名前は分かりますか?」と聞くと「確か・・・柴崎さんという方です」と加藤が答えた。
ここで柴崎の名前が出て来た。
「亜由美さんがどうかしたのですか?」と最後まで加藤は亜由美の心配をしていた。「事件に巻き込まれたようだ」としか言わなかった。黄鶴楼で起きた連続殺人事件の被害者として名前が公表されるのは時間の問題だろう。
柴崎の名刺が残っていると言うので見せてもらうと、果たして柴崎高尚の名があった。加藤に礼を言って会社を後にした。
「経験を積んで段々、手慣れて行ったようですね」
阿佐部が亜由美の巧みな手口に舌を巻きながら言う。
「夫婦で結婚詐欺を行っていたのでしょう」
亜由美は働きながら獲物を見つけると爪を隠して獲物に近づき、頃合いを見計らって一気に牙を剥くのだ。
柴崎のアパートにブライダル会社のパンフレットや名刺があった。上等なスーツが押入れにあったのは詐欺の仕上げで必要だったからだ。最後に金を騙し取る役が柴崎だった。夫婦で結婚詐欺を働いていたのだ。被害者に騙されたと気が付かせないところなど、かなりの腕前と言えた。
加藤の場合、被害総額は三百万円弱だった。
「不邪淫戒・・・内村亜由美に向けた戒めでしたね」
「犯人は被害者を罰することが目的だったのでしょうか?」
「被害者を罰して戒めを書いた前掛けを掛ける。正義のヒーローでも気取っていたのでしょうかね」
「さて、一旦、警視庁に戻りましょう。竹村さんも捜査を終えている頃です」
「そうしましょう。しかし、東京は何処まで行っても都会ですね~」と感心すると、「ビルとか建物が多いだけですよ。その分、人が多くて大変です」と吉田が言う。
「人が多ければ犯罪も多い。ここで刑事をやるのは大変ですね」
「慣れました。本当は慣れちゃダメなんでしょうけど」
「確かに」
警視庁に戻ると、竹村が戻って来ていた。
「ご苦労様です。吉田が迷惑を掛けませんでしたか。すいません。しつけが悪くて」と二人を迎えてくれた。
「いいえ。優秀な部下をもって、竹村さんは幸せですね」と返事をする。
「流石は阿佐部さん。よく分かっていらっしゃる。先輩には僕の素晴らしさが分っていないようですから、まだまだです」という吉田の言葉を無視して、「さあ、情報交換しましょう」と竹村ががらがらと椅子を引いて来た。輪になって座る。
「柴崎と亜由美の結婚詐欺の原点となったと思われる事件を探り当てました」と竹村から報告が始まった。
「内村亜由美の実家に電話したところ、妹さんが都内で働いていると言うので会って話を聞いて来ました」と竹村は言う。
柴崎と亜由美は群馬県の高校の同級生で、地元では有名な不良少年と不良少女のカップルだった。高校を卒業すると同時に家出し、駆け落ちに同然の形で東京に出て来た。初めは二人共、真面目に生きて行こうとしていたようだ。柴崎はコンビニでのアルバイトに明け暮れ、亜由美は都内にある私大の傍の喫茶店でウェートレスをしていた。
慎ましやかだが、幸せな生活を送っていた。やがて亜由美は子供を妊娠し、ぎりぎりの生活が妊娠により更に苦しくなり、二人を追い込んで行った。
仕事と生活のストレスから些細なことで大喧嘩をしてしまう。安定期に入る前だった。亜由美は家を飛び出し、町を彷徨い歩き、場末の飲み屋で酔っぱらった。店にたむろしていた性質の良くない男たちに連れ出され、ラブ・ホテルに連れ込まれた。そこで、集団暴行を受けてしまう。亜由美は流産し、子供が産めない体になってしまった。
「内村亜由美は自暴自棄になってしまったようです」
「それで犯罪に手を染めてしまった訳ですね」
「妹さんは姉夫婦が結婚詐欺をやっていることを知りませんでした。夫の柴崎がブライダル会社勤務で給料が良いと聞かされていたようです」
「それで、彼らが結婚詐欺を始める原点となったのは、どんな事件だったのですか?」
「はい。それは――」竹村の話が続く。
美人の亜由美は喫茶店の看板娘だった。亜由美目当てに店に通ってくる大学生が少なくなかった。
「当時、熱心に喫茶店に通っていたという男性を見つけました。あんな女に熱を上げていたなんて、どうかしていましたと言っていました。そして、同じように亜由美に熱を上げていた恋敵の話をしてくれました。井藤健太という学生です。同級生で、何故、亜由美さんがあんな冴えない男を選んだのかと不思議がっていました」
青白い顔で、仕事に復帰した亜由美は、彼女目当てに喫茶店に通って来る若い大学生に目を付けた。それが井藤健太だ。
小柄で色黒、目が細く、お世辞にも良い男とは言えなかった。
「日頃、女性と話をする機会が多くなかったのでしょう。喫茶店に通いつめ、亜由美に声をかけられるだけで舞い上がっていたそうです。最初は気のある素振りを見せて井藤を誘い出して食事や遊行費をたかる程度でした」
「それが段々、エスカレートして行った訳ですね」
「はい」井藤の家は、母子家庭だ。豊ではない様子だった。だが、井藤はアルバイトに精を出し、亜由美の期待に応えようと一生懸命だった。アルバイトを幾つも掛け持ちしていたようだ。
だが、亜由美の要求はエスカレートする一方で、アルバイトで稼いだ金だけでは足りなくなった。井藤は家から金を持ち出すようになった。
そして、ついに、亜由美が牙をむいた。
「大学を卒業したら結婚してあげるから、今は婚約指輪を買って」
そう要求した。井藤は魔が差した。家にはまとまったお金などない。つい、アルバイトで働いていた居酒屋のレジの現金に手を出してしまった。
「馬鹿なやつです。自分が騙されていることに気がつかなかった」そう同級生は言ったそうだが、自分が標的だったなら果たして気がついていただろうか。亜由美の色香に迷って、指輪を差し出していたのではないだろうか。
「若いということは愚かだということでもありますからね」
阿佐部が言う。
「吉田君、よく聞いておきなさい。君も若いだけで、十分、愚かなのだから」と竹村が言うと吉田は「先輩。それでどうなったのですか?」と話の先を促した。
井藤から現金を受け取ると、亜由美は姿を消した。
やがて、レジの金を着服したことがバレて居酒屋から被害届が出された。井藤は恋人を失った上に犯罪者となってしまった。絶望したのだろう。井藤は地下鉄のホームから転落し、列車に跳ねられて死亡してしまった。死亡時、まだ十九歳、二十歳の誕生日は目前だった。
目撃者によれば自ら身を投げたように見えたという。
「何も死ななくても・・・若いということは愚かだということでもありますね」
同じ台詞を繰り返した阿佐部がため息をついた。
そして亜由美は喫茶店を辞めた。亜由美がいなくなってから、喫茶店で一緒に働いていた同僚の女の子が「ここだけの話よ」と喫茶店に来た学生に語ったことで噂が一気に広まった。
「良かったです。あんな女に目をつけられなくて」
同級生はそう呟いた。その口調には安堵感と嫉妬が入り混じっていた。実際、井藤健太以外にも亜由美の標的になっていた学生がいたようなのだ。
無論、噂である以上、全てが事実ではないだろう。だが、全てが作り話とも思えなかった。
「この事件を機に味を占めた亜由美は柴崎と共に夫婦で結婚詐欺に手を染めて行ったようです。結婚詐欺を重ねる毎に、手口は巧妙に、且つ、手際よくなっています」
「柴崎夫婦が共謀して結婚詐欺を行っていたことは分かってきましたが、それが黄鶴楼の事件と、どう係わっているのか分かりません」
阿佐部の言葉に、竹村は「ええ」と頷いた後で「なんか引っかかるんですよね」と言った。
「引っかかる?何が引っかかるのですか?」
「何かを見逃しているような気がして仕方がありません。色々、調べている内に、これは怪しいと思ったのですが、それが何だったか思い出せなくなってしまいました。胸の中で、もやもや~としているものがあるのですが、その正体が分からないのです」
「ああ、そういうこと、よくありますよね」
横から吉田が「先輩。旅行に出る時は、朝起きてから夜寝るまで、何をするのか考えながら順番に旅行荷物を準備して行けば良いそうですよ。同じように、柴崎亜由美に関して調べたことを行った場所順に、思い出して行けば良いんじゃありませんか?」と言った。
「行った場所順?最初に行ったのは、大田区にある柴崎のアパートだよな。あそこは、亜由美が住んでいた形跡がほとんどなかった。それから、百貨店の化粧品売り場で話を聞いたな・・・そこで、結婚を理由に仕事を辞めたという話を聞いた。新しい詐欺相手を釣り上げたってことだろう。おお、そうだ! その相手が誰なのか、調べる必要があった。亜由美のカモが黄鶴楼の事件に繋がっているはずだ・・・うん⁉」竹村は何か思い出したようだ。
「先輩、何です? 何を思い出したのですか?」
「はは~!吉田君、思い出した。やっぱり、俺は天才だね」
「先輩は僕のような凡才と違って天才です。それで、何を思い出したのですか?」
「ふふ。吉田君、気にするな。君のような凡才でも、何年も手入れをすれば、素晴らしい盆栽になるよ」
「はいはい。凡才に盆栽を掛けている訳ですね。それで?」
「亜由美のマンションのリビングのテーブルの上にメモがあっただろう。あれ、どこにある? 確か一式、持って帰ったはずだ」
「ああ、あれ。ちょっと待って下さい・・・」
吉田は机の上の書類の山から、証拠品袋を取り出した。「ありました。これです」と竹村に渡す。竹村は証拠品袋からメモ帳を取り出すと、ページをめくりながら確認を始めた。
「汚たない字だな。読めやしない・・・」
竹村がメモ帳を縦にしたり、横にしたりして、一枚、一枚、メモをながめる。やがて、「おっ!」と声を上げると「ああ、これだ」とメモ帳を阿佐部と吉田に見せた。
字だか絵だか分からないような線や図形が殴り書きしてある。「ここです」と竹村が指さす箇所を、目を凝らして見ると文字らしきものが見えてきた。カタカナだ。
「フフナカ――って書いてあるように見えます」
「二番目の“フ”は“ク”だよ。フクナカ――そう書いてあるように見えないか?」
「確かに。あっ! そうか、福永! 福永ですね」
柴崎亜由美が電話を掛けながら走り書きしたのだ。咄嗟に、カタカナで「フクナガ」と書こうとしたのだ。同じページに数字が羅列してある。
「これが福永だとすると、この数字は電話番号だな」
「竹村さん。福永の名刺、持っていましたよね? 電話番号、どうなっていましたか?」
「待て、待て――」と竹村は和田から証拠品として預かった福永の名刺を胸ポケットから取り出す。メモ帳の数字を名刺の電話番号と比べてみた。
「同じですね」
「ああ、これは福永の電話番号だ」
柴崎亜由美は福永と連絡を取り合っていた。福永は牧野の偽名だと思われる。
「牧野に繋がりましたね」
吉田の言葉に、竹村は「おう」と大声で頷いた。
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