不飲酒戒
瓦礫の山から内村亜由美の遺体が見つかった。
亜由美の遺体は裏庭にあり、塔の倒壊に巻き込まれた。塔の下敷きになったとは言え、地盤が西側に傾斜していたことから、比較的、瓦礫が少なかった。重機を使って瓦礫を取り除き、遺体を発見することが出来た。
これで残すは長谷川の遺体だけとなった。
長谷川は二階の客室部分に遺体があったはずだ。建物が崩壊し、その上に塔が倒れ込んだ形になっている為、大量の瓦礫の山に埋もれており、遺体発見までに、まだ時間がかかりそうだった。
いくつか遺留品が回収されていた。その中に村田宗次郎の免許証があった。
黄鶴楼の玄関ロビーで見つかった遺体は鈴木雅哉のもので、鈴木は村田宗次朗という偽名を使っていたと考えられている。運転免許の顔写真も年齢も、鈴木とは別人のものだった。
運転免許証に記載の生年月日から計算すると、村田宗次朗は六十歳を超えており、現住所は高松になっていた。香川県警に身元照会を行ったところ、村田宗次郎は運転免許証に記載された住所に住んでいて健在だった。
ズボンの後ろポケットに財布を入れて市内の商店街を歩いていたところ、気が付いたら財布が無くなっていたそうだ。財布には銀行カードやクレジット・カードは入っておらず、多少の現金と運転免許書が入れてあった。直ぐに最寄りの警察署に紛失届を提出している。
鈴木がすり取った可能性が高かった。
こうして、鈴木雅哉が村田宗次郎を名乗っていた理由が分かった。
新たに日野修に犯罪歴があることが分かった。日野は都内在住、五年前に人身事故を起こして服役していた。飲酒運転だ。
料理人らしく頑固なところはあったが腕の良い調理師だったようだ。都内で名の知られた和食レストランの厨房に立っていたこともあった。だが、酒癖の悪さが災いし、職場を転々としていた。
腕は良いのに認められない――という現実が日野をアルコールへと走らせたのかもしれない。
ある日、自宅で夜通し酒を飲み続け、明け方、車で出勤途中に居眠り運転をしてしまった。気がついた時には登校途中の小学生の列に突っ込んだ後だった。
一人が死亡し、二人が怪我を負った。
飲酒運転で事故を起こしたことから極めて悪質であると判断され、自動車運転死傷行為処罰法により危険運転致死傷罪が適用され、実刑判決を受けている。刑期を終えて、出所したばかりだった。
この人物が黄鶴楼で死亡した日野修ではないかと考えられた。
「前科者だった訳ですね」
捜査会議を終えて、席に戻った。
「飲酒運転による人身事故だ。不飲酒戒、酒は飲むな、だな」
「ああ、そうですね。日野がどういう経緯で黄鶴楼の厨房に立っていたのか気になりますね」
「また警視庁だな。黄鶴楼の所有者、クルーザーの持ち主、柴崎、日野、恐らく水谷も長谷川も都内在住だろう。鈴木だって千葉県だ。都内みたいなもんだ。誰か警視庁に行った方が良いんじゃないか」という話をしていると、「阿佐部~ちょっと来い!」と篠原に呼ばれた。
篠原のもとに飛んで行くと「阿佐部~お前、捜査協力で警視庁に行ってくれ」と言われた。
「えっ⁉ 東京に行くのですか」
「当たり前だ。警視庁と言えば桜田門だろう」
「私がですか」
「他に誰がいる」
「それは・・・」と絶句すると、「何だ。行きたくないのか? あちらさんにおんぶに抱っこじゃ格好がつかない。情報交換だ。こちらの捜査状況を伝えて、出来ればあちらの捜査を手伝って来てくれ。ここで警視庁の捜査結果を待っているだけじゃあ、埒があかない。しっかり結果を出して来い!」と怒鳴られた。
「はい」と答えるしかなかった。
這う這うの体で席に戻ると篠原の大声が聞こえたのだろう、「東京に出張ですか。良いですね~僕も行って見たいな、東京」と高橋が羨ましそうに言う。
「東京は詳しいのかい?」と聞くと、「詳しいって程じゃありませんけど何度か行ったことがあります」と答えた。
「俺は高校の修学旅行以来だからな。桜田門ってどうやって行けば良い?」
「どうやって行きます。飛行機ならひとっ飛びです」
「あんなもの乗りたくないな」
「へえ~飛行機嫌いですか。でしたら、新幹線なら、警視庁なんて東京駅から目と鼻の先ですよ」
「そうかのか? それでも大都会だと方向感覚が狂うっていうからな。迷子になり易いって聞いたぞ」
「阿佐部さんって、何でも出来そうに見えるのに。東京が怖いのですか?」
「いいから詳しく教えてくれ。全く、俺みたいな田舎者、東京に派遣したって役に立たちゃしないのに」
阿佐部が愚痴る。
心配は杞憂に終わった。
東京駅まで警視庁捜査一課の刑事、竹村聡が出迎えに来てくれたからだ。警視庁への捜査協力が決まると、直ぐに竹村から電話があった。「課長から阿佐部さんと捜査情報を交換するように指示を受けました。こちらにお越しになると聞きました。駅でも空港でも、出迎えに参りますので、日時が決まりましたなら、この電話にご連絡下さい」と言われた。有難かった。
そこで、事前に東京駅の到着時間を連絡してあった。
「遠路はるばるお疲れ様です。竹村です。時間がかかったでしょう」
竹村が白い歯を見せながら言う。
「ええ、まあ」と阿佐部は疲れ切った表情で頷いた。
飛行機で行った方が早くて楽だと高橋に教えられた。だが、足が地についていない飛行機になんか乗りたくないと、列車を乗り継いで来た。
怖くて飛行機に乗れなかったとは言えなかった。
竹村は学生時代に野球部で活躍していたそうだ。百八十センチを超える長身でガタイが良い。学生時代は類まれなる膂力を生かして、四番打者としてチームを牽引し、アマチュア野球で名の知られた存在だったと聞いた。目が細い上に、やや額が突き出ているので、目を一層、小さく見せていた。団ごっ鼻に厚い唇と、いかにも男臭い風貌だ。中堅どころの刑事だ。
「ああ、こっちは吉田です」と竹村が隣の若者を紹介してくれた。
「吉田です。吉田健吾です」と綺麗にお辞儀をする。
竹村と並ぶと小さく見えるが、なかなかの長身だ。細身で目付きが鋭く、見るからに頭が切れそうだ。一重瞼でぐっと吊り上った眉毛がりりしい。笑うと目が線のように細くなった。
「高知県警捜査一課の阿佐部です。お忙しいところ、ご迷惑をお掛けします。よろしくお願いします」
阿佐部はきっちり敬礼で返した。恐縮したようで、竹村が「先にホテルにご案内しましょうか?」と背筋を伸ばして尋ねて来た。
「いえ。聞き込みに行くと聞きました。差し支えなければ同行させて下さい」
「分かりました。では、車の中で話を聞かせて下さい。我々への敬語は不要ですので、何でも命令して下さい」
東京駅の地下駐車場で、竹村たちが乗って来た警察車両に乗り込んだ。運転は竹村、助手席に吉田、阿佐部は後部座席に陣取った。三十分、停めただけだと言うが駐車場代の高さには驚かされた。
「すいません。お忙しい中、私のお守りなんか命じられて、本当、申し訳ないです」と阿佐部が言うと、助手席から吉田が振り返りながら「そんなことありません。これだけの大事件です。担当できるだけで光栄です。阿佐部さんのパートナーに指名されて嬉しかったくらいです」と答えた。嬉しいことを言ってくれる。
「俺の日頃の行いが良いからだよ」と竹村。
「ああ、神様も意外に人を見る目がないなあ~」吉田が憎まれ口を叩く。
「天網恢恢疎にして漏らさずって言葉を知らないのか? 神様はちゃんと俺たちのことを見て下さっているんだ」
「竹村さんって肉体派のくせに、時々、難しいことを言いますよね」
「俺はな。知性を隠して生きているんだ。隠しても、隠しきれないところが、俺の悲しさだな」
「いえ。しっかり隠れていますよ。何処にも知性の欠片なんて見つかりません」
「はは」阿佐部は思わず笑ってしまった。
二人、仲が良さそうだ。軽口をたたき合う二人を見ていて羨ましくなった。何時か近藤と軽口を叩き合う日が来るのだろうか。
「すいません。無駄話ばかりで。さて、情報交換と行きましょうか。愛媛県警での捜査状況、教えて下さい」情報交換が始まった。
葛飾区にあった日野のアパートを訪れた。
二階建ての小奇麗なアパートに、日野は一人で住んでいたようだ。戸籍によれば、一度、結婚しており、娘が一人いる。飲酒運転で事故を起こす前に、妻と離婚していた。
事故を起こす前から、酒癖が悪かったのだろう。
アパートの管理人から話を聞いた。吉原という男で、四十代、額が広く、丸い頭にかつらのように頭髪が乗っている。父祖伝来の畑を潰してアパートを建て家賃収入で生活しているようだ。
「日野さんですか。真面目で大人しい方ですよ。飲酒運転? 事故の話なら聞きました。でも、まあ、強盗や殺人とかじゃなくて自動車事故ですからね。悪いことはしないでしょう。そう思って部屋を貸しました。
実際、うちに来てから騒ぎを起こしたことは一度もありませんでした。お酒? さあ、家で晩酌くらいやっていたのかもしれませんけど、飲んで騒いだっていう苦情はありませんでした。
娘さんですか? いいえ、家族は誰も、尋ねてきたところを見たことはありませんね。娘さんがいるっている話すら、今、初めて聞きました。
愛媛? へえ、愛媛に行っていたのですか? 知りませんでした。実家? 埼玉か群馬か、どこかその辺だったはずですよ。
ああ、そうだ。学生時代は柔道をやっていたそうで、かなりの腕前だって聞いたことがあります。駅前に武道教室があって、そこに出入りしていました。武道教室の人なら、何か知っているかもしれません」
管理人は日野が亡くなったと聞いて、「大変だ。ご家族の方と連絡を取って、家財道具を処理しなきゃなりません。頭が痛いな。うちで亡くなったのではないことが不幸中の幸いですけど」と不謹慎なことを言って笑った。
部屋が事故物件にならないで良かったと、胸を撫でおろしているのだ。
近隣の住人との付き合いはなかったそうで、アパートで日野に関する有益な情報を掴むことはできなかった。
アパートを出たところで、竹村が申し訳無さそうに言った。「役に立ちそうな情報はありませんでしたね」
「アパートの管理人なんて、こんなものでしょう。借家人のことなんて、そんなに詳しく知らないのでは」
「まあ、そうですね。ところで、見つかった遺体は変わった服を着ていたとか?」
「前掛けです。仏教の五戒を書いた前掛けをしていました」
「五戒?」
「信者が守るべき五つの戒のことだそうです」
「へえ~で、日野は何だったのですか?」
「不飲酒戒です。酒を飲むなという戒めです」
「日野にぴったりの戒めですね」
「亡くなった五人、全てがこの前掛けをしていました。村田と偽名を使っていた鈴木雅哉は不殺生戒、人を殺すな、です。犯人は五人、それぞれにぴったりの戒めを選んでいたのではないかと思っています」
「サイコな野郎ですね。ところで次はどうします?」
「私にお気遣い無く。竹村さんの思った通りやってもらって結構です。私は横で聞いているだけで十分ですから」
「そうですか。では――」と管理人が言った駅前の武道教室へと向かった。
車の中で吉田が言う。「謙虚になれっていう戒めはありませんか? 先輩にぴったりだと思うのですけど」
「はは」と阿佐部が苦笑いする。
すかさず竹村が言った。「じゃあ、お前は口を慎めっていう戒めだな」
駅前の六階建てのオフィス・ビルの地下に武道教室はあった。
柔道、合気道、空手など、畳の上で行う武道を一通り教えている。教室に通ってくる生徒の中には日野のような有段者がいて、武道を学ぶというより腕を磨くために通ってきている強者がいた。
そんな強者の一人、平田という男が日野と親しかったというので話を聞いた。
平田はまだ二十代、高校時代に柔道部に所属していたという。丸坊主の頭に細い目、筋肉質でたっぷりと重量のある体は重機を思わせる。
それでも、竹村の立派なガタイの前では霞んで見える。「何か、武道をやっていたのですか?」と平田がいきなり聞いてきた。
「野球です。学生時代はずっと野球部でした」と竹村が答えると、「なるほど~」と納得した様子だった。竹村の長身が羨ましい様子だ。早速、日野のことを尋ねる。「日野修さん、ご存じですよね?」
「はい。ここで一緒に武道に励んでいました。僕の方が体格は良いのですが、ちょっとでも油断すると背負い投げを食らっていました。結構な腕前ですよ。暫く顔を見せていませんが、日野さんがどうかしたのですか?」
「最後に会ったのは何時頃ですか?」
「さあ、二、三か月前だったと思います。もっとかな? 四国に働きに行くと言っていました」
「四国? 四国の何処ですか?」
「何処だったかなあ・・・ああ、そうだ。道後温泉のあるところですよ。ついでに温泉に行きたいって話をしましたから」
黄鶴楼で死んだ日野修で間違いないようだ。
「愛媛県ですね。日野さんが何故、愛媛に行ったのかご存じでしょうか?」
「昔の知り合いから連絡があって、割の良い仕事があるって言っていました。どうしても日野さんに来てもらいたいと、ご指名だったそうです。ちょっと遠いけど、一月、住み込みで働けば百万近くになるって言っていました。
危ない仕事なんじゃないかって言ったんですけどね。朝昼晩、三食、飯を作るだけの俺にとっちゃ楽勝の仕事だと言っていました。日野さんがどうかしたのですか?」
愛媛で日野が亡くなったことを伝えると、「ああ、そうですね。刑事さんが日野さんのことを聞きに来たんだから、やっぱり危ない仕事だったんだ。虫の良い話は気を付けた方が良いって言いますもんね」と驚いた様子だった。
「昔の知り合いから紹介されたということですが、誰からの紹介だったか分かりますか?」
「いえ、そこまでは・・・昔、一緒に働いた料理人仲間みたいな言い方でした」
「日野さんは、どういう人でしたか?」
「無口で練習熱心な人でしたよ。人付き合いが苦手なようで、この教室で会えば話をしましたが、外で一緒に食事をしたりしたことはありませんでした」
「誰かとトラブルになっていたようなことはありませんか?」
「さあ、誰かとトラブルになるような、そんな深い人間関係はなかったんじゃないですかね。人嫌いでしたから――」
「他に誰か親しい方はいませんでしたか?」
「さあ、僕以外だったら、後は安さんと親しかったみたいです。でも、多分、僕と一緒で、教室で話をする程度の仲だったと思いますよ」
安というのは、安井という名の武道教室に通ってきているもう一人の強者のことだ。平田同様、柔道の腕を磨きたくて通ってきているという。生憎、今日は教室に顔を出さない日だった。
「人付き合いを避けていたのですね?」
「一度、食事に誘った時、外で食事をすると酒を飲みたくなるのでダメだ――みたいなことを言って断られました。酒がダメだったんでしょうかね」
日野の飲酒運転による事故のことを知らないようだ。日野が過去に結婚していて、娘がいるということも初耳だと驚いていた。
「金に困っていた風には見えませんでした。大金を稼いで、別れた奥さんや娘さんに渡すつもりだったんじゃないですかね~」平田がしみじみと呟いた。
平田からの事情聴取を切り上げ車に戻った。
「運転しましょうか?」と吉田が言うと「俺が運転する。お前の運転だと眠くなるからな」と竹村が言う。
「僕が運転している時は、助手席でいびきをかきながら寝ているくせに。先輩。次、どこに行くんですか?」
そう言えば近藤もハンドルを握りたがる。
「川崎だ。日野の飲酒運転事故の被害者遺族が住んでいる」
「被害者遺族? 今回の事件に関係しているのでしょうか?」
「考えてみろ。日野はわざわざ人を通して愛媛の片隅にある屋敷に呼び寄せられて殺された。日野に恨みを持つ人間が怪しいことになる」
「先輩。愛媛の片隅って言い方、ちょっと失礼じゃありませんか?」
「ああ、そうだ。すいません、阿佐部さん」
「構いませんよ。実際、愛媛の片隅みたいなところですから」
「とにかく、日野に恨みを持つ人間で、一番、最初に頭に浮かぶのは誰だ?」
「それはもう被害者の遺族でしょう。日野の飲酒運転の犠牲になったのは小学生の子供だったのでしょう。可愛い盛りだったことでしょう。日野のこと、殺しても飽き足らないほど恨んでいたとしても不思議ではありません」
「うん。吉田君。よく出来ました」
「しかし、日野を殺す為に、わざわざ愛媛の片隅に呼び寄せて屋敷を爆破して殺すなんて、スケールがデカ過ぎませんか?」
「おいおい。愛媛の片隅はないだろう」
「竹村さんを真似しただけです」
賑やかな車内だ。
事故が起こった時、日野は川崎市に住んでいた。日野の飲酒運転の被害者である和田家は川崎市内の高層マンションにあった。在宅を確認してから和田家を訪ねた。日野の飲酒運転により死亡した小学生を和田慎太郎といい、父親の智が二人を迎えてくれた。
「和田さん。日野が亡くなりました」と竹村が口火を切る。
和田は「えつ!」と驚いてから、「ああ・・・それで、ここに来たのですか。それで、誰に殺されたのですか?」と悟ったように言った。
「殺された?私は日野が死んだと言っただけで殺されたとは言っていませんよ」
何か知っているようだ。
「ああ、そうでしたね。じゃあ、どうやって死んだのですか?」
「我々は殺されたと考えています。あなたが言ったように」
「その犯人に感謝したいですね。あの男が、慎太郎を殺したあの男が、のうのうと生きていることに耐えられませんでしたから」和田は怒りを露にした。
「日野がどこで何をしていたのかご存じでしたか?」
「あの男がどこで何をしていたのかですって? さあ、知りません。どこで何をしていようが私の知ったことではありません。刑務所を出たことは知っていました。その後、どこで何をしていたのか、知りたいとは思いませんでした」
「なるほど。ご家族や親戚はどうです? 日野の動向について、知っている方はいませんでしたか?」
「家族? 家族たって、妻と娘です。娘はまだ小学生ですし、日野のことなんて知りません。親戚は・・・どうですかね。聞いたことがありませんが、むしろ、知っていたら、あれこれ私の耳に入れてくると思うんです。何も言ってこなかったということは、日野がどこで何をしていたのか知らなかったということでしょう」
「何故、日野が死んだと聞いて殺されたと思ったのですか?」
「それは・・・」竹村の質問に、和田は躊躇っていたが、やがて覚悟を決めたように言った。「この間、ちょっと変わった人が尋ねてきたのです」
「変わった人?」
和田の話によると、ある日、一人の男が「話がある。聞いて損はない話です」と和田家を訪ねて来た。うさん臭い気がしたが、上等なスーツをパリっと着こなしていて、変な人間には見えなかったと言う。
男は仏壇の前で息子の位牌に手を合わせると和田に向かって言った。「息子さんの恨みを晴らしたくありませんか? 日野が憎くないですか?」
「そりゃあ、日野のことが憎いですよ。刑期を終えて自由の身となったようですが死んだ慎太郎は戻って来ない。あいつが大手を振って町を歩いているかと思うと、八つ裂きにしてやりたいくらいです。でも、どうしようもない」と和田は答えた。
和田の言葉に男は満足そうに頷くと、「あなたに代わって、私が恨みを晴らしてあげましょう」と言った。
流石に気味が悪くなった。
「そんな・・・いくら何でも、それは・・・」と和田は男の申し出をやんわりと断った。
「あなたに代わって恨みを晴らすと言っても、見返りとして大金を要求したり、無理難題を押し付けたりなど、一切、しません。無論、あなたに罪を着せたりなんかしません。そうですねえ・・・恨みを晴らす見返りとして、あなたが大事にしているものをひとつ、私に下さい。他人にとってはどうでも良いもの、何の価値もないものであったとしても、あなたにとって大事なものであれば、それで結構です。それで、あなたの恨みを晴らして差し上げましょう」
男は柔和な微笑みを湛えながら言った。
試に、大事にとってあった息子が書いた父親の絵を見せて「こんなものでも良いのですか? この絵は、慎太郎が私にくれた宝物です」と尋ねたところ「もちろんです」と男は頷いた。
悪魔に魅入られたように、絵を手渡してしまった。
男は宝石を取り扱うように大事そうに慎太郎の絵を鞄の中に仕舞った。厳かな所作に好感が持てた。
「私が・・・私が恨みを晴らして欲しいと、あの男に頼んだから、日野は殺されたのでしょうか?日野が殺されたとなると私は何か罪に問われるのでしょうか?」
全てを告白した後、和田は縋り付くような目で尋ねた。
常識的に考えて、金銭の授受が行われた訳ではない。殺人教唆で罪に問うことができるかどうか微妙なところだ。
「罪に問われることはないでしょうね」と竹村が答えてから、ちらと阿佐部を見た。自信があった訳ではないだろうが、阿佐部は軽く頷いて見せた。
和田はほっとした様子だった。
「その男に関して、何か知っていることはありませんか?」
竹村が尋ねると名刺をもらったという。「名刺があるのですか!」
「はい。名刺をもらいました」と名刺を見せてくれた。
――成田実業株式会社企画本部本部長、福永昌弘
と書かれてあった。
「知っている人ですか?」
「いいえ、初めてお目にかかりました」
「名刺にある成田実業というのはどうです? 知っている会社ですか?」
「いえ、知りません」
名刺を預かりたいと言うと、和田は「どうぞ――」と竹村に手渡した。そして、「刑事さんは犯人を捕まえるのが仕事でしょうけど、私にしてみれば、福永さんが日野を殺してくれたのなら警察には捕まらないで欲しいというのが本音です」と真顔で言った。
和田から福永の人相を聞き取ると和田家を辞した。
竹村は「一旦、警視庁に戻りましょう」と阿佐部に言ってから「お前が運転してくれ」と吉田に言った。
「僕がハンドルを握っても良いのですか?」
「ちょっと考え事をしたい」
「珍しい。知恵熱が出ますよ」
「お前こそ、運転していて、運動不足で足がつったりするなよ」
「鍛えていますから大丈夫です。でも、どういうことですかね?」
「どうもこうも、俺にも分からん」竹村がぶっきら棒に答えた。
阿佐部が二人の間をとりなして言った。「でもまあ、金を持っていそうな人物が浮上してきました。この福永っていう人物、大企業のお偉いさんのようですので、こいつなら、日野を愛媛にまで呼び寄せて屋敷を爆破することが出来たかもしれません」
「なるほど。今回の事件の犯人は財力のある人間だということですね。この福永っていう男、徹底的に洗ってみることにしましょう」
「お願いします。微力ながらお手伝いさせて下さい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます