柴崎高尚の証言(六)

 そこからは無我夢中だった。

 あまり覚えていない。どうやって部屋に戻ったのか記憶がなかった。まるで泥の中にいるかのように記憶が混濁していた。気がついた時には、バスルームの中で両足を投げ出し、壁を背に座り込んでいた。

 頭の奥で、きーんという耳鳴りが鳴り止まなかった。

 立ち上がろうとすると体のあちこちが痛んだ。

 左腕の上腕部から、かなりの出血があった。バスルームにあったタオルで傷口を縛ろうとして右手に包丁を持っていることに気が付いた。

 包丁は血に染まっていた。

 包丁を持った手にも血がこびりついていた。うわっ! と包丁を投げ出そうとしたが、強張っていて手が開けなかった。

 痛む左手で包丁を握りしめた右手の指を一本一本、丁寧に開いて行った。

 村田との対決がどうなったのか聞かせて欲しいって? 思い出したくもないが仕方がない。細かいことは思い出せないが、あれから少し、あの命をかけた死闘に関する記憶が断片的に蘇ってきた。特に村田の腹を抉った時の不快な感触と、胸の奥から湧き上がって来た勝利の快感、いや違うな。安堵感かな。それが鮮明に蘇った。

 圧倒的に村田が有利だった。

 村田は包丁、俺は金属バット、どちらも十分な殺傷力を持っていた。俺が手にした金属バットは攻撃範囲が広いのだが、動作が大きく、一度、かわされてしまうと隙だらけになってしまう。致命的な欠点があった。バットを振った後、体勢を立て直すのに時間がかかってしまう。

 一歩、村田の包丁は攻撃範囲こそ狭いが、小回りが利き、一撃で致命傷を与えることができた。

 最初の攻撃で、あいつはタイミングと間合いを確認したようだった。俺にバットを振り回させ、疲れを待つ作戦に出た。

 間合いを詰めて俺に攻撃させる。一撃を交わすと、懐に飛び込んで来る。そして、至近距離から包丁を突き出す。この攻撃を繰り返した。

 こちらは攻撃をかわされると無防備になってしまう。絶好の標的だ。包丁は軽く触れただけで相手にダメージを与えることができる。接近戦に圧倒的に有利だ。俺は体中、傷だらけになった。

 左腕を深々と切りつけられて慎重になった。迂闊にバットを振り回せば、攻撃の後、無防備になったところを狙われてしまう。しかも体力の消耗が激しい。

「どうした?来いよ!怖気づいたのか?このクソ野郎」と村田が挑発して来た。あいつは「うへへへ~」と気持ちの悪い笑い声を立てながら、ぐるぐると俺の周りを回った。

 完全に狂ってやがった。

 死闘を、殺戮を楽しんでいた。

 上体を盛んに動かして間合いを詰めてくる。俺が反撃の姿勢を見せると飛び下がる。ボクシングの経験でもあるのか、軽やかにステップを踏む。飛び込む素振りを見せては立ち止まり、フェイントを仕掛けてくる。俺はどんどん体力を奪われて行った。

 殺されてたまるか、そのことばかり考えていた。

 村田に有利に展開していたが、やつの難点は俺の攻撃を避ける為に、常に動いていなければならないことだ。俺は足を停め、村田の隙を伺いながら、体力を温存する作戦に出た。

 持久戦になれば俺が有利だ。これが功を奏した。

 村田に疲れが見え始めた。やつの足が止まり始めていた。

 勝敗を分けたのは偶然だ。運命の女神が俺に微笑んだ。

 焦った村田は勝負が長引けば自分が不利になることを悟ったようだった。「そろそろ、終わりにしよう」と大きく一歩、前に踏み出した。

 この野郎とバットを一閃させた。

 渾身の一撃を村田に見舞った。村田は踏み出した足に力を込めて、上体を逸らし、俺の一撃をかわそうとした。バットが、村田の鼻先をかすめた。

 勝ったと村田は勝利を確信したはずだ。

 体をかがめ、包丁を構えて懐に飛び込んで来た。やつの勝利は目前だった。

 もう、ダメだと半場、諦めた。

 次の瞬間、俺は体勢を崩して、駒のようにくるりとその場で一回転した。遠心力で金属バットが一回りし、懐に飛び込んで来ようとしていた村田の頭部に、ものの見事にヒットした。

 ごんと鈍い音がした。

 視界に尻餅をついた村田の姿が飛び込んで来た。チャンスだ。夢中で体勢を立て直すと村田の頭部目がけて力任せにバットを走らせた。

 今度は抜群の手応えだった。村田の体が吹っ飛んだ。

 村田の手を離れた包丁が、からんと音を立てて足元に転がった。

 俺はホームランを打った打者の様にバットを放り投げると足元に転がった包丁を拾った。生存本能の赴くままに行動していた。包丁を握ると廊下に伸びた村田に駆け寄った。そして、力一杯、振り下ろした。

 へぎゃって、あいつ、妙な声を上げたね。あいつの断末魔の悲鳴が頭から離れない。

 村田は「人を殺したことがある」と言っていた。村田が殺人犯だと言うことに亜由美が気付いたのだろう。だから、口を塞ぐ為に村田は亜由美を塔の展望スペースに誘い出して突き落とした。そして、そのことに気がついた長谷川を殺し、水谷を殺し、日野を殺した。最後に、俺を殺そうとして返り討ちにあった。

 あいつは殺人鬼だった。俺があいつを殺したのは正当防衛だ。殺らなければ俺が殺されていた。違うか? そうだろう?

 その時、ふと思った。

 何をかって? 村田が「日野を殺した」と言ったのを聞いただけで、実際、日野が死んでいるのを見た訳じゃないってことだ。やっぱり一連の事件の犯人は日野で、村田は日野に脅されていただけかもしれないってね。日野に命じられて俺を殺そうとした。その可能性だってある訳だ。

 それを確かめるには、厨房に降りて、日野の死体を確認しなければならない。

 俺はゆっくりと立ち上がった。もう怖いものなんて何も無かったよ。

 洗面台に立った。シンクの中には血まみれの包丁が転がっていた。蛇口をひねると、水が出た。洗面台で手を洗った。水が真っ赤に染まった。手を洗い終わるとフェイス・タオルで左腕を縛った。

 激痛が走った。

 洗面台に放り投げた包丁を握りなおした。

 鏡に自分の顔が映っていた。土気色の顔色に削げ落ちた頬、目だけが異様にぎらぎらと輝いていた。鏡の中の顔は他人の顔に見えた。

――これが人を殺した男の顔だ。

 自分の顔がまるで自分でないようで怖かった。

 バスルームを出ようとするとドアに鍵がかかっていることに気がついた。自分でかけたのだろう。まるで覚えがなかった。村田を殺して、一人切りになったのなら鍵をかける必要などなかった。だが、日野が生きているとなると、バスルームに鍵をかけて閉じこもったのは正解だったかもしれない。お陰で命拾いした。そう思った。

 ゆっくりとバスルームを出た。

 真っ暗だった。黄鶴楼に戻って来たのは日暮れ前だったが、部屋は夕闇に塗りこめられていた。どのくらい、バスルームで気を失っていたのか分からなかった。

 包丁を手に廊下に出た。

 廊下に灯りがついていた。考えて見れば、無線は通じないが電気は来ていた。地下にある自家用発電機がちゃんと動いていたようだ。水も来ていた。地下水をくみ上げるポンプが動いている証拠だ。

 階段を降りた。ドキリとした。廊下の隅に村田の遺体が見えた。慌てて目を逸らした。今にも村田が起き上がってきて、再び襲い掛かって来そうな気がした。足早に階段を降りた。

 床に転がっていた金属バットを拾った。武器はひとつでも多い方が良い。

 食堂に入った。厚い絨毯の上に、血痕が落ちていた。村田が手にしていた包丁から滴れ落ちた血だ。厨房に向かった。厨房へは食堂からしか入れない。

 厨房の前まで来ると息を整えた。えい! と勢いよくドアノブを回した。

 床に日野の顔があった。

 日野は入口に顔を向け、仰向けになって床に倒れていた。かっと目を見開き、口を半開きにして、への字に歪めていた。口角から血泡を吹いていた。血だまりの中に浮いているようだった。背後から刺されたからだろう。背中から出血したのだ。首筋から顎にかけて、飛び散った血潮が張り付いていた。

 想像以上に凄惨な殺害現場だった。だが、俺は別のことに気を取られていた。

 何に気を取られたのかって? 日野の死体は不飲酒戒と書かれた前掛けを掛けていたからだ。俺にだって分かる。それがどんな意味を持っているのか。

 俺は地蔵から近道を通って黄鶴楼に戻って来た。地蔵は前掛けをしていた。黄鶴楼に戻った時には、日野は死んでいたはずだ。村田が日野を殺したのだとすると、一体、何時、前掛けを取りに行ったのだ? 前掛けを取りに行ったとすると俺とすれ違っていなければおかしい。俺が帰ってくる前に前掛けを取りに行ったのだとすると、地蔵が前掛けをしていたのが変だ。

 つまり、日野に前掛けを掛けたのは村田ではないということになる。村田との死闘の後、俺がバスルームで気を失っている間に、誰かが地蔵まで行って前掛けを取って来たのだ。

 まさか。まさか。俺は厨房を後にすると、村田の死体のもとに走った。確かめなければならない。村田が前掛けをしているかどうか。階段を降りて来る時、村田の死体から目を逸らしたのではっきりと見ていなかった。

 玄関ロビーに出る。隅に転がった村田の死体に目を向けた。何がどうなっているのだ⁉ 村田の死体は前掛けをしていた。前掛けには不殺生戒と書かれていた。

 混乱した。俺か? 無意識の内に俺がやったのか? そんなはずない! もう何が何だか分からなかった。

 四十年前に島に逃げ込んだという殺人鬼が一人、また一人と黄鶴楼の住人を殺害していったのか? もう沢山だ。全て、どうでも良い。こんなとこにいられるか⁉ 薄気味の悪い屋敷とはおさらばだ。この屋敷は海賊の怨霊に祟られている。そう思った。

 玄関を駆け抜け、外へ出た。

 食糧補給の船が来るのは水曜日だと水谷が言っていた。今日が何曜日なのか分からなくなっていたが、もう屋敷には居たくなかった。

 港に向かった。そこでフェリーを待つつもりだった。夢中で駆けた。途中で、手に持っていたバットと包丁を叢に投げ捨てた。必死に駆けた。

 一気に坂を駆け下りた。港に駆け込むと、足がもつれてどうと転んだ。激しく二度、三度、回転がった。もう少しで海中へ転落するところだった。

 俺は仰向けになって、ぜいぜいと荒い息をついた。そして咳き込んだ。体中を痛みと疲労が襲って来た。

 と、その時、

――ごおおおお~!

 と大地が震えた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。地震だと思った。港を破壊した、地震がまた来たのだと思った。

 急に、辺りが明るくなった。

 振り返ると、黄鶴楼から火花が上がるのが見えた。

 ぐわぐわと不気味な轟音を建てながら黄鶴楼が崩れて行く。

 古びたビルを爆破して解体する映像を見たことがあるだろう? 丁度、あんな感じだ。巨大な塔が重力に引っ張られるように地面へ吸い込まれて行った。

 亜由美、長谷川、水谷、日野、そして村田の遺体を飲み込みながら。

 やがて、全てが暗闇に包まれた。その後、少し遅れて、ぶわと砂塵が襲ってきた。砂嵐のようだった。あっという間に俺を包み込んだ。

 ゲホゲホと咳をしながら、蹲った。

 砂塵が通り過ぎ、再び、静寂と暗闇が辺りを支配した。俺はのろのろと立ち上がると、近くの廃屋に向かった。

 もう嫌だ。こんなところにはいたくない。こんなところにいたら、殺されてしまう。間一髪だった。もう少し、黄鶴楼を飛び出すのが遅かったら、今頃、瓦礫の下に埋もれていたはずだ。危なかった。地下にあった自家用発電機が爆破したのかもしれない。とにかく、この島にいては危険だ。本能がそう訴えていた。

 空き家に行くと戸板があった。俺は戸板を抱えたまま埠頭の先端まで歩くと、ざんぶと海に投げ入れた。そして、海に飛び込んだ。少しでも島から離れたかった。

 戸板に摑まり、体を乗せて、サーフィンのパドリングのようにして沖へ沖へと漕ぎ出して行った。

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