その4 「ビーチでシャトルラン」
まだ人がまばらな、息が白く曇る朝の浜辺。
バイクに寄っかかっている俺をよそに、熱海で出会ったアキラさんは走る準備を整えると、手に握ったスマホで「あの曲」を再生し始めた。
学生時代なら一度はトラウマになったであろう、シャトルランの音源だ。
「これって、シャトルランの音源じゃないすか!」
「あら、もしかしてトラウマ? 家の近くの公園でいつもやってるけど、音感と持久力のトレーニングが一緒にできていいのに」
ド、シ、ラ、と音階に合わせ、今度は浜辺の向こう側からこちらに走ってくるアキラさん。宿では確かに「昔は歌手だった」なんて言っていたが、まさか音楽のことを運動に取り入れようとした結果、シャトルランに行きつくとは、誰がそんな発想に至るのだろうか。
そして、歌手だったのは昔のことなのに、なぜ歌手を辞めた今でも音感を鍛えているのだろうか。持久力の向上や健康のために走るのなら、わざわざシャトルランじゃなくてもいいと思えてしまう。
ド、レ、ミ、の音とともに走り離れてゆくアキラさんへ、こんな質問を投げかけてみた。
「お姉さんって、歌手だったのは昔の話なんですよね? なんで今でも音階を鍛えるんですか?」
「なんでって、確かに。 今まで考えたこともなかったわ。 君の言う通り、歌手はやめてるから音階を鍛えなくてもいいのに、どうしてだろ」
俺の質問に答えながら走っているからなのか、息を切らし、細く、冷えて白くなった息を吐き始めた。
いろいろ気になることがあったが、何はともあれアキラさんは今、シャトルランを頑張っているのだ。それに応えるべく、俺は懸命に応援してあげようと頭の隅で考えた。
「がんばれ! アキラさん!」
「え? 今アキラさん、って?」
「あっ」
心のうちでアキラ呼びしていたのが、ここで漏れ出してしまった。アキラさんも自分のことを馴れ馴れしいと自覚していたとはいえ、果たしていきなり下の名で呼ばれて、認めてくれるだろうか。
「いいね、下の名前呼び! 気に入った!」
良かった。むしろ、もっと距離が近くなった気がする。
その後もアキラさんの手元から出る音源にかき消されないよう、がんばれとか、すごいよとか、バイクの傍に立ちながらずっと応援していた。
砂浜のうち、アキラさんが往復したところにはいつの間にか、何回も何回も踏まれた足跡が残り、大きな溝を作っていた。ちょうど深さが15cmになったころだろうか。
「あ~間に合わなかったぁ! 終わったぁ~!」
アキラさんがシャトルランを終えた。
「さっき音源が97って言ってた時に終わったってことは、アキラさんの記録は96じゃないすか!普通50とかでバテちゃうのに、すごいっすよ!」
「あら、いつも以上にいい記録じゃん。 これも、もしかして君が応援してくれたからかな?」
そういうと口元を曇らせて息を整えながら、こちらに近づいてくると
「応援してくれて、ありがと。」
頭頂部が俺の胸元までしか来ないほどの身長差の中、上目遣いでささやいてきた。
俺に言うそのしぐさと、大人っぽいショートヘアや声のせいだろうか。アキラさんと目を合わせるのが不思議と恥ずかしくなってきた。
熱海の朝日に照らされ、陰影が濃くなった表情は、アキラさんの魅力をより強く、深く目に映してくる。
「あれ君、顔がさっきより赤くなってるよ?」
対してアキラさんはさっきのシャトルランで顔がしもやけているものの、宿で出会った時のおおよそ普段通りな調子を保っていた。
「もしかして、あたしに惚れちゃったの?」
言い当てられてしまった。しかし、アキラさんは冷静なまま。
この感じ、初めてではない。記憶の中では、学生時代にもこんなことがあったのだ。
今「恋愛」としてではなく、友達感覚で面白おかしく、年下をからかうような形でお姉さんは楽しい時間を過ごしているみたいだ。
俺は「恋愛」として楽しい時間を過ごすために、ナンパをしたはず。
それならば今から、年下扱いされるような流れを変えていかなければと、小さく決心した。
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