その2 「俺の『走る』はハンドルをひねるだけ」

 お風呂の壁が薄かったばかりに、女湯から聞こえた演歌っぽく艶やかな鼻歌。声の主に男湯から壁を介して、お風呂上がりに会う約束をした。熱海のお湯につかっていたとはいえ、我ながらこれだけのことをリラックスして行えたのは、前回の横須賀からのよい成長だった。


 しかしいざお風呂から上がると、大人っぽい印象だったその主は金髪ショートの、身長140㎝ほどの小柄な女性だった。


 これは、頭がどうにかなりそうだった。


「どう? あたしのこと、見たことあった? ってもう、分かりやすく頭がパンクしてるじゃない」


「いや、パンクしてないって」


 お姉さんの話し方を聴いていると、軽微ながら違和感を感じた。お風呂で話していた時は敬語だったような気がするが、今はなんだか友達っぽい感じになっている。


「ってお姉さん、お風呂で話していた時は敬語だったのに、言葉遣いが変化してるっていうか」


「やっぱりちょっと馴れ馴れしいかな?」


「あ、いや、そんなことないっすよ! むしろ大人の余裕を感じます!」


 そのとき、お姉さんが少し照れくさそうに、サイズが若干大きい浴衣の、大きな袖で顔を隠した。もしかして大人っぽい、と言われるのが好きだろうか。


「大人っぽい、といえば、お姉さんの金髪の感じもキレイじゃないですか!」


「あら、カッコいい金髪の君が言ってくれるとは、相当素敵なのね」


「カッコいい、だなんて……」


 今度は自分の額が、真っ赤に熱くなるのを感じてくる。普通ならとても小柄なその身なりから、幼さを強く感じるはずなのに、声色に髪色、一挙手一挙動が滑らかで、不思議な包容力を感じる。


「ねえ、明日の朝に浜で走ろうと思うんだけど、一緒にどうかな?」


「もちろん、ぜひ!」


「じゃあ明日、宿の入口のところに7時ね。おやすみ」


 自分が誘う側のはずなのに、逆にあちら側が誘ってくれた。これは「ただの人助け」なんかではなく「恋愛」だと感じる何よりの証拠だった。


 明日の約束を交わした後、お姉さんの進行方向とは反対へ歩き、自分の部屋に戻ると、眠りについた。


 その布団はパリッとしていて、じんわり温かかった。まさかお湯以外に温められるとは。それとも、自分の体温が高いだけだろうか。


 翌日。まだ日の出前に目を覚ますとともに、あることに気が付いてしまった。


 ランニング用のスポーティーな服なんて、持っていなかったということに。


 眠気のせいで岩みたく重くなった体を立たせ、自らの黒リュックサックへ歩みを進めると、その中身を確認してみる。あるのはライムグリーンの革ジャンと、ナンパした女性に着てもらうためのモスグリーンのジャンパー、一週間分の長袖の黒シャツに黒ズボン、二人分のヘルメットとプロテクターのみ。そこにスポーツ用品なんて一切無かった。


 風呂上がりでのぼせており、頭が冴えていなかったとはいえ、準備もないのになぜ行きたいだなんて返してしまったのだろうか。


 いや、あの時の俺はいい判断をしたのだ。もしランニング用の準備は持ってないなんて言ってしまったら、あら残念とかでがっかりさせてしまい、繋がりが無くなっていたかもしれない。


 とはいえ、朝早くからやっている服屋さんやスポーツ用品店なんてないだろう。ましてや観光地の宿の近くに、そんなものがある訳ない。


 ならば、どうしようかと悩んでいると、カーテンの裏より、登り始めた日の光が差しだし始めてしまった。もう六時ぐらいなのだろう。約束の時間まで一時間を切っていることになる。しかし今やっているのは、昨日からの浴衣姿のまま、荷物とにらめっこするのみ。


 しかし、ここで奇妙なとんちに気づいてしまった。あれを使うこともまた「走る」ということじゃないならば、少し屁理屈かもしれないが、浜で走るという約束を破っているわけではない、と。


 そう決心するとある服に着替え、部屋から階段駆け下りて宿の入口へ向かった。


 むしろこの服装なら、この「走る」なら彼女を驚かせられそうな気がする。


 そう思えば、まだ彼女に会う前なのにすでに宿の中で走ってしまった。


 駆けた先に居たのは、お姉さんだった。ピンクのアクセントが入った黒の半袖半ズボンより、長袖インナーとレギンスに黒光りしてぴっちり包まれた腕や脚が出ていた。とても小柄な体格がより強調されている感じがする。


「おはようお姉さん!」


「おはようってそれ、ランニングとか走る用の服、じゃないわよね?」


「いや、この服こそ俺にとっての『走る』だからさ」


 一方、俺はいつも通りライムグリーンの革ジャンに身を包み、駐車場から相棒のバイク「Ninja 250 Special Edition」を押していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る