晴れた日も、一緒に…… (1)

 思春期にはよくあるコト、だとか。

 一過性のものだとか。

 100人に一人くらいはいるらしい、だとか。


 私が彼女を好きになったということ。

 女の子が、女の子を好きになるということ。


 図書館でも、ネットでも、情報はいくらでもあった。体験談もたくさん読んだ。ニュースの記事も読んだ。外国の話も読んだ。

 実感が、いまいち湧いてこない。やっぱり私はまだ子供で、そういうコトをきちんと実感できるまでにはまだ時間が必要なのかも知れない。

 だけど……


 見藤絵里香とは幼なじみで、小さい頃はずっと一緒だった。

 目が合うだけで考えてるコトがわかったり、大切だと思えるものや嫌だと感じることが似通っていたり、何となく「他の友達とは違う」って思っていた。

 あの頃から続く絵里香への感情……これは何と呼べばいいんだろう?


 思い返しても、男の子っていうかそもそも最近まで他人に恋愛感情を持ったことがなかったし、気がつくと女の子が気になって……っていう記憶もない。

 中学生になって、習った通りに心も体も変わってきて、自分が「思春期」の中にいることはわかるけど、そのことが絵里香への想いとどうつながっているのかも、さっぱりわからない。

 ぐるぐる。色々考えるけど、やっぱり答えは出なかった。

 私が絵里香を好きだというこの感情は、間違ってるの──?


*


 7月が終わり、うだるような夏と夏休みが過ぎていった。

 私は普通の中学生らしく、そこそこ真面目に勉強をやり、夏期講習に通い、時々は図書館のお手伝いに通ったりして過ごした。

 授業が終わってしまうと、近所に住んでいても絵里香に会う機会はほとんどなかった。だから、自分の想いは自分の心の中だけでぐるぐると回り続ける。

 どうして、絵里香なんだろう……?

 好きになるって、どういうことなんだろう……?

 誰にも相談できず、答えが出ないまま夏休みが明け、それから9月が巡ってきた。


「いってきまーす」

「あー待って麻衣。今日はお父さんもお母さんも遅くなるから、ご飯は先に食べててね」

「しょうがないなあ。何か作っとくよ。買い物は?」

「そっちもお願い。いい子で助かるわ」

「はいはい。じゃあ、行ってくるね」


 仕事の準備に忙しいお母さんとそんなやり取りをして、私は家を出た。

 果実に白い袋がかかり、収穫を待つばかりになった果樹園を抜けて学校への道を急ぐ。

 車通りの少ない交差点。ぽつんと佇む歩行者用の信号機と、それから──


「……あれ、絵里香?」

「おはよ」

「どしたの? 今日なにかあったっけ……?」


 久しぶりに見る絵里香は、夏休み前より少しだけ大人びて見えた。

 前はキツく脱色していた髪も落ち着いた茶色になって、一足早く高校デビューしたみたいだ。

 夏休みも外で遊んだりはしなかったのか、肌は相変わらず真っ白だし、細くてスタイルもいいし……。

 やっぱり、キレイだなあ。絵里香。

 絵里香に近づくと、自分の鼓動がはね上がるのがわかった。


「何もないけどさ。ちょっと麻衣の顔が見たくなって」

「えー!だったら電話してくれれば良かったのに」

「いや、まあ、急に思いついたから……」


 並んで歩きながら、絵里香がちょっと恥ずかしそうに顔をそらす。

 そんな顔されたら、私も期待しちゃうじゃん……。

 気持ちがふわふわしてしまって、何を話したのかほとんど頭には入ってこなかった。学校に着くまでの時間も、いつもよりずっと短かったような気がする。


 学校の時間に体がまだ慣れてないのか、一日はあっという間に過ぎた。

 ホームルームでは席替えがあって、ちょっと期待しちゃったけど……。やっぱりそんなに都合よく、隣同士とか近くにはなれないよね。しかも、絵里香の方が私よりも後ろの席になっちゃったし。

 ホントは絵里香、前の方の席で私とも近かったんだけど、背の小さな子と代わってあげたんだよね。

 うーん。さり気なく優しいなあ。でも、残念。

 授業中、絵里香から私は見えるかも知れないけど、私からは見えないじゃん……。なんて、不純な考えだけど。


 ホームルームが終わって、教室の空気がほっと緩む。

 部活。おしゃべり。帰宅。クラスのみんなも思い思いに、教室を離れていく。


「麻衣、これから図書館行く?」


 背後から、絵里香が声をかけてきた。教室の中ではあんまり話せてなかったから、ちょっとびっくり。


「えっ……? ああ、行く。行くよ図書館」


 わたわたして、何か変なコトを口走ってしまった。すかさず絵里香に突っ込まれる。


「行くよ図書館って、へんなの」


 くすくすと自然に笑う絵里香に見とれそうになって、私はあわてて荷物をカバンに詰めこんだ。


「へ~、見藤さんって柳原さんと仲いいんだ。ちょっと意外~」


 教卓の近くでおしゃべりしてた木崎さんたちが、びっくりしたって顔で私たちを見てる。おしゃれ好きの木崎さんは、この間から絵里香とはだいぶん仲が良くなって、メイクのコトとか色々話すようになっている。

 地味な図書委員との組み合わせは、やっぱり意外なんだろう。私はやけに緊張してしまって、思わずうつむいた。


「キャラ、全然違うでしょ? でも幼なじみだからねー」


 そう言うと、絵里香は後ろからするっと腕を絡ませてきた。

 絵里香が…後ろから腕を…

 腕! 組んでるし!

 心拍数がまた跳ね上がる。夏服からすらっと伸びた絵里香の細い腕は、ひんやりとしてて肌もさらさらだし、木崎さんたちが見てなかったらこのままずっと触れていたいかも……。

 いかんいかん。

 私はきっぱりと雑念を振り払って……なんてできるわけもなく、「あ、そうなんです……。じゃあこれで、失礼しま~す」っておどおどしながら教室を出てきた。

 「じゃあね~」って、すんなり放してくれる木崎さんの距離感が、今はちょっとありがたかった。


「も~。急にあんなことするから、びっくりしたよ」


 図書館に向かいながら、私は絵里香に形ばかりの抗議をしてみた。


「だって面白かったんだもん。迷惑だった?」


 ぶんぶん。私は絵里香に伝わるように、首を思いきり振った。


「そんなことない。ちょっと驚いただけ……」

「なら、良かった」


 ホントは、嬉しくて仕方がない。

 絵里香とこんな風に、また話せるようになるなんて。

 二人で並んで、歩けるようになるなんて──。

 あ……でも1コ残念なことを思い出しちゃった。私はちょっとだけ肩を落とす。


「それはいいんだけどさ。席、離れちゃったね」

「ああ、さっきの席替えのこと? しょうがないじゃん。橋爪は背がちっちゃいから、後ろだと黒板見えないし」


 うう、正しい……だけど絵里香、クール過ぎない?


「そうなんだけど……せっかく同じ班になれると思ったからさ……。でも絵里香は偉いよ……橋爪さんのコト考えてあげて……」


 話しながら、どんどん声が小さくなっていく。中学生にとっては、クラスの中で誰と同じ班になるかはけっこう重要だ。だから、くじ引きで絵里香が近くの席になった時には心の中で小躍りしたんだけど……


「そんな顔しないで。ゴメンね、麻衣」


 ぽんぽん。絵里香の指が、私の肩に優しく触れる。

 4月には、並んで歩いたり、こうやって話すことだって考えられなかった。やっぱり人って、どんどん贅沢になっていくんだなあ。そんな風に思いながら、私たちは図書館の扉を開けた。


*


 夏休み明けだからか、放課後の図書館はいつもより人が多い。返却本が山ほどあったし、これから書架に並ぶ新刊本もけっこうたくさんある。

 私はカウンターへ。絵里香は大机の端っこへ。図書委員の仕事と、宿題と。

 絵里香が気をつかってくれてるのが、今ははっきりわかる。仕事の邪魔にならないように、おしゃべりで周りに迷惑をかけないように……って。

 作業をしながら、静かに宿題に向かう絵里香の姿がときどき視界に入る。ていうか、気がつくと絵里香の姿を目が追ってる。

 何度も見てるせいか、ふと絵里香が顔を上げると視線がぶつかる。

 一瞬、あれって顔して、それから絵里香が小さく手を振る。表情があんまり変わってないのが、絵里香らしい。

 かわいいなあ。

 私もおずおずと手を振り返したら、そういう時に限って司書の岡林先生が「柳原さん、ちょっといい?」って声をかけてきた。

 「えー、はい大丈夫です」って、手が凍り付いたままで応える私。岡林先生は怪訝そうな表情を浮かべ、それから絵里香の方に目をやって「ああ、そういうこと」って何か納得してるし……。


 あー、これは相当はまってる状態だ。どこかに冷静な自分がいて、自分のことをそんな風に見ている。

 夏休みにほとんど会えなかった分、心の中で絵里香への想いが大きくなってることに気付かなかったのかも知れない。

 それでもここは図書館、私は図書委員。

 私にとって、学校で一番大切な場所に、絵里香と一緒にいること。ドキドキは止まらないけど、これまでには無かった安心感もあった。

 私と絵里香は、そんな風にしてそれぞれの放課後を過ごした。


*


 ──全校のみなさん、下校時刻となりました。活動を中止し、すみやかに下校するようにしましょう。

 くり返します、下校時刻となりました……


 傾きかけた夕陽が、西の空を少しずつ、少しずつ赤く染めていく。西日よけに下ろしたブラインドから漏れる光が、窓際の本棚を夕暮れ色に染めている。


 グリーン・スリーブスのもの悲しい調べが、放送委員のアナウンスに重なって流れ始める。


 時刻は夕方の5時半。真面目な中学生も、不真面目な中学生も帰りなさいって、そんな時間。

 図書館で放課後を過ごすのは、どちらかというと真面目な中学生が多いのかも知れない。下校時刻の校内放送が流れる前から、一人帰り、二人帰り……で、ほとんどの生徒は姿を消していた。

 校内放送を合図に、残っていた数人の生徒も席を立って図書館を後にする。

 絵里香もゆっくりと、読んでいた本を本棚に戻して自分の荷物を片付け始めた。

 (宿題はとっくに終わらせてたらしい)

 閉館のチェックで本棚の間を回り、カウンターに戻ってきた私と、そこで目が合う。絵里香はカバンを椅子に置いたまま、私の方にゆっくりと近づいてきた。


「──もうちょっと、一緒にいてもいい? 外で待ってた方がいい?」


 誰もいないのに、ささやく様な絵里香の声。

 アナウンスの声は途切れ、グリーン・スリーブスの旋律だけが図書館に満ちる。

 私は声もなく、ただ頷いていた。


 夏休みに図書館の蔵書整理を手伝ったご褒美なのか、岡林先生からは「閉館後の作業、見藤さんにも手伝ってもらっていいわよ」ってOKをもらっていた。今日も岡林先生は何かの会議に出るみたいで、「鍵、いつものトコ、よろしく」って暗号みたいに言って図書館を後にしていた。

 放課後の先生たちは、忙しいなあ。


 さすがにカモミールティーまで入れてくれたのは、絵里香のコトを真正面から相談した7月の一度きりだったけど、十分に特別扱いだと思う。きっと岡林先生たちが色々考えた結果が、今なんだ。

 カウンターに座り、机の上に置かれた木の箱から貸し出しカードを取り出す。絵里香には、集計作業を手伝ってもらおう。そう思いながら、本の分類ごとにカードを並べていく。


「ちょっと待っててね、絵里香。カード分けたら、手伝って……」

「……」


音もなく背後に立った絵里香が、無言のまま私の髪に触れた。


「……絵里香?」

「……麻衣の髪、触ってもいい?」

「ええっ!? い、いいけど……」


 これは気のせいなんかじゃない。今日の絵里香は、いつもと雰囲気が全然違う。

 ──私が、期待しすぎてるのかも知れないけど……。


 絵里香はポケットから櫛を取り出すと、おもむろに私の髪をとかし始めた。

 作業の手は、さすがに止まってしまった。夏休み前はショートボブにしてたけど、けっこう伸びてたんだ、私の髪。

 絵里香の指が器用に髪の束を作っては、櫛でそれをすいてゆく。

 指先が首筋に触れる度に、体温が一度くらい上がってる気がした。エアコンは効いてるのに、頬が熱い。

 意識しすぎて緊張しっぱなしだけど、懐かしさも覚えていた。


 ──絵里香、そういえば小さい頃から私の髪をいじるのが好きだったなあ。

 次はきっとこうだ。麻衣の髪、さらさらで……


「いいな、麻衣の髪。さらさらで羨ましい」


 絵里香に触れられて、早鐘のように鳴り続ける心臓と、心が大切な場所に戻っていく様な不思議な感覚。


「えー、別に普通だよー」

「麻衣はくせっ毛じゃないから、そう言えるんだよ。毎日、大変なんだから」

「はいはい。絵里香の髪型もいいと思うけどねー」


 軽口を叩きながら、心臓がどこかに飛び出しそう!

 無意識のうちに胸を押さえる。なんかバレバレな気がしてるんだけど……


 不意に、沈黙が訪れた。絵里香は無言で、私の髪をとかし続けてる。

 夏休み前とはまるで違ってしまった空気に耐えきれず、私は絵里香をふり返る。手を止めた絵里香と、視線がぶつかった。

 「なあに?」って言うみたいに、柔らかく目を細める絵里香。今日は本当にどうにかなりそう。だけど一つ思い出す。そうだ、右頬の傷……。


 7月、誰かに付けられた絵里香の傷は、だいぶん目立たなくなっていた。絵里香が私の視線に気付いたのか、髪から手を放して自分の頬を指さす。


「コレ? まだ目立つ?」

「ううん。ほとんどわかんないや」

「そう、なら良かった」


 グリーン・スリーブスのメロディはいつしか消え去り、生徒たちの時間も終わった。


 先生のいない、放課後の図書館。こんな機会はもう、来ないかも知れない。

 絵里香の表情に賭けて、私は一つの決心をした。──正確には二つだけど、最初のが片付かないと次に進めない。だから最初の一つを。


 あの頃の記憶が、急によみがえってきた。


 ──カレシが暴力男なのかな

 ──高校生だっけ? あの高校、やばいって聞いた


 クラスの子たちが教室で何度も交わしていたヒソヒソ話が、耳の奥にこだまする。岡林先生も、絵里香の周りにいるやっかいな人……みたいな言い方してたっけ。


「……デートDV、って言うんだって」

「何が?」

「こ、恋人とかに暴力ふるわれるの、最近はそう言うんだ……。あのね、どんなに見た目が良くても、普段は優しいやつでも、本当に絵里香を大切に思う人なら絶対に暴力は振るわないんだよ! だから……」


 決心が逃げないように、私は一気に言葉を吐いた。顔にアザを付けられ、暗い表情を浮かべていた絵里香を思い出すと、止まらなかった。


「だから、もし絵里香のか、カレシがそういう人なら、それはやめた方がいいって……むぐぐ」


 思いと一緒に走っていた私の言葉は、絵里香の手が私の口をふさいだことで強制終了させられていた。


「あー、そういうことか」


 絵里香がゆっくり手を離しながら、ひとりで納得している。


「ちょっと、絵里香……」

「麻衣には、そういえば話してなかったね」


 ふわっと、絵里香の両手が私の肩に回された。

 ――これ、抱きしめられてる!? 体に変な力が入るのがわかった。


「え、絵里香……?」

「そのまま聞いて。ああ、最初に一つ」


 絵里香はそこで、ほっと息をついた。


「彼氏じゃない。恋人なんていない」


 ──恋人なんていない。

 その言葉の意味がじわじわと、自分の中に広がってくる。二つ目の決心への扉は、開いたらしい。

 絵里香はその姿勢のままで、静かに話し始めた。私と同じ方を向いて、窓の外に向かって話すみたいに。私の知らない場所と、知らない人たちとのコト……。


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