とまどい、その行き先 (2)


 放課後が来るまで、午後の時間は本当に長かった。

 教室に絵里香がいないことは、当たり前だけどみんな気付いてた。でも、5時間目の古典の先生が出欠を取って「見藤は…今日はいないのか」で終わりだった。

 先生たちにとっては、授業中に面倒を起こさなければ、別に問題ないのかも知れない。授業の始めの頃は、何人かがちょっとざわついてたけど、それも長くは続かなかった。後は、普通に授業時間が進むだけ…… これが長かった。

 くらくらする頭を何とか抑えて、私はその日の午後を乗り切った。

 絵里香と別れてから、動悸が収まらない。


 ――結局、絵里香は学校には戻らなかった。


 いつもは落ち着ける場所の図書館も、今日は味方にはなってくれない。カウンターの中で、じりじりした時間だけが過ぎる。空が暗くなって、気がつくと久しぶりの雨が窓を叩き始めていた。

 教室にいるのと、変わらなかった。当然だと思う。私の心がささくれ立ってて、ひとときも落ち着いてくれなかったから……。

 それでも、慣れっていうのはこういう時に役立つのかも知れない。貸し出し処理や返却処理、本を棚に戻す作業は、夕立雲の様に押し寄せてくる悪い予感や切羽詰まった感情から、一時的にでも私の心を解放してくれた。

 かたん、かたん。

 何冊かの本を棚に戻し終わって、カートを押しながらカウンターに戻ろうとしたその時、強い目まいが私を襲った。


 あ、危ない……

 考える間もなく、もつれた私の足はカートの脚を引っかけ、それから派手に転んでしまった。

 一瞬、目の前が真っ暗になる。私は床に手をついて、何とか呼吸を整えた。

 横倒しになったカートの車輪が、からからと乾いた音を立てている。その音で、意識と視界がゆっくり戻ってきた。


 ……けがは、してない。

 ……物も、壊してない。

 ……スカートも、めくれてない。

 ……派手に転んだから、うるさかったかも……


「ちょっと、柳原さん! 大丈夫なの……?」


 ばたばたと岡林先生が駆け寄ってきて、床にへたり込んでいる私の顔を心配そうにのぞき込んだ。図書館にいた何人かの生徒たちも、心配そうな顔で岡林先生の後ろからこっちを見ている。


「あ、岡林先生、ごめんなさい、うるさかったですよね……」

「ばかっ、うるさかったじゃ、ないでしょう! 具合はどう?立てそう?」

「あ、はい……大丈夫です……」


 反射的に大丈夫と言ってしまう、自分の性格がうらめしい。私は近くの本棚に手をつ かまりながら、ゆっくりと立ち上がった。


「怪我は、ないみたいね。取りあえず司書室で休みなさい」


 周りの生徒たちにカートの片付けを指示しながら、岡林先生は私の手を引いて司書室に向かった。

 ばたん、司書室のドアを閉めて、岡林先生が大きく息をつく。


「そこ、座って。気分はどう?」

「はい……すみませんでした。一応、大丈夫だと思います」


 司書室のソファに腰掛けながら、まだ少しくらくらする頭で私は答えた。


「すごい音がしたから、びっくりしたわよ。どこか痛い所はない?」


 岡林先生がすっと私のおでこに触れて、心配そうにそう言った。本気で心配している様子が伝わってきて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「カートは倒しちゃいましたけど、ぶつかってはないです。怪我もないと思います……。ごめんなさい」

「体調のことだから、謝らなくていいのよ。もう一度聞くけど、体の具合が悪いとか、そういう事ではないのね? もしそうならお家に連絡しないといけないから」


 ふるふる。私は力なく首を振る。今朝までは元気だったから、家に連絡が行ったら親は本当にびっくりするだろう。


「わかったわ。それじゃ、これ飲んで。気休めかもだけど、落ち着くらしいから」


 岡林先生がマグカップに入れてくれたのは、すっとする香りが立ち上る温かい飲み物だった。


「これ、何ですか……?」

「カモミールティーよ。カフェインは入っていないから、中学生でも大丈夫のはずだけど」

「いい匂い……。なんか大人の飲み物って感じ」


 大きなマグカップにたっぷりと注がれたそのお茶を、ゆっくりと口に含む。甘くもなく、苦くもないその不思議な味は、何故だか私の心をちょっとだけ落ち着けた。


 しばらくは、ぼーっとしてカモミールティーを味わっていた。先生は気休めって言ったけど、本当に落ち着く気がする。意外に時間が経っていたのか、部屋の時計は5時をとうに過ぎていた。


「……それで、柳原さんを悩ませてるのは、見藤さんのことかしら?」


 仕事机に腰掛けた岡林先生が、そう言って私の方に向き直った。


「そう……です」


 力なく頷く。岡林先生が目を細めた。


「見藤さんに、何か言われた? それとも見藤さんの周りにいる人から、何か嫌なことをされたりした?」


 驚いて、私は思わず立ち上がりそうになった。手の中のマグカップに気付いて、慌てて座り直す。


「そ、そんなこと、絵里香はしません! 先生たちにはどう思われてるか、わからないですけど、絵里香は……」


 絵里香は、むしろ何も言ってくれなくて、だから苦しかったのに……。続きの言葉を、私は口にすることができなかった。


「ごめんなさい、見藤さんのことを悪く言うつもりはないの。言いたかったのはね、私たち教師は、柳原さんが思ってるよりは生徒たちのことを知ってるし、必要なことをする覚悟も持ってるってこと」


 私たち教師は。いつもは優しい口調の岡林先生がちょっと厳しくて、大人と子供の境界線がそこにできたみたいだった。


「じゃあ、絵里香の顔のことは……」

「知ってるわよ、関係してる先生は全員。見藤さんがどの学校のどんな子たちと遊び回ってたのかも含めてね……。まあ細かい事は企業秘密だけど」

「そうだったんですね……。私、絵里香に何もしてあげられなくて」


 そもそも大事なことは何も知らなくて。絵里香には、関係ないって言われちゃって……


「見藤さんのことはね、見藤さんのお家のことと、見藤さんの周りにいるやっかいな子たちと、そういう微妙な問題があるの。だから、残念だけど今、中学生の柳原さんにできることはないわ」


 あなたにできることはない。はっきりそう言われて、私は思わず立ち上がっていた。


「そんな、ひどい!」


 岡林先生も、パソコンのキーボードから手を離して静かに立ち上がった。


「ひどいかも知れない。でもそれが正直なところなの。例えばね、柳原さんが正義感にかられて、見藤さんが出入りしているところに無防備なまま飛び込んで、それから嫌な目に遭う。そういうことを、私たちは避けたいの」


 無防備なまま飛び込む。その通りだ。私が出て行っても、何にもならない……。自分が子供であることを実感させられて、私は唇を噛んだ。


「悔しいわよね。大人からそんな風に言われたら。だったら」


 岡林先生が書架から、信じられないほど分厚い本を取り出してきた。厚い背表紙の、難しそうな本だ。


「本気で、社会のことを学びなさい。社会のことを学ぶ資格を手に入れるために、与えられた勉強を全力でやりなさい。見藤さんみたいな子を助けるために必要な力は、そういう力よ」


 社会……? 勉強……?

 その言葉は今、話している内容とかけ離れているように思えて、私は岡林先生の表情を伺った。


「その本は……? ろくほう、ぜんしょ…?」

「ろっぽう。六法全書。この国の法律がまとめられた、とても難しい本よ」

「その本を、読めるようになれってことですか?」

「ちょっと違う。あのね、ここに書かれてるのは法律で、この国のルールなの。何をするにしても、ルールの中でやらなくちゃいけない。これは、分かるわよね?」


 岡林先生は、何を伝えようとしてるんだろう……

 でも法律がルールだ、ということは分かったので、私は頷いた。


「未成年の……あなたたちを食い物にしようとする大人とか、女性に対する暴力とか、法律は確かにそういう悪い人や悪いことを罰することができるの。でも、被害に遭わないですむ方法とか、困っている人を助ける方法は、法律には書いてないの」


 そこまで言って、岡林先生はぱらぱらとその本をめくった。


「もちろん、色々な人たちが何とかそういう子供を助けたいと頑張ってるわ……。だけど、困っている人の全員を見つけ出して、救うことはできないの。人は、神様じゃないからね」


 前に読んだ本を、絵里香が荒れてしまって、どうしたらいいのか分からなかった時に読んだ難しい本のことを、私は思い出していた。

 シェルター。NPO。それから……。

 困っている人に手をさしのべるために、無償で頑張っている人たちのことが、そこには書かれていたっけ。


「だから、知る力を身につけなさい」

「知る、力……?」

「そう。困った時に頼るべき相手を見つけ出す力と、甘い言葉の裏にある悪意に気付く力。私たちは男の人よりも体力では弱いから、人と、社会を見抜く力が必要なの」

「私、そんな力は持ってないよ、先生……」

「そう。今のあなたにはね。まあ、普通の中学生は持ってなくて、これから身につける力ってことよ。今、毎日やらされてる勉強の先に、そういうものがあるの」


 岡林先生が、伝えようとしてくれていること。少しだけわかる気がした。

 この世の中では、自分の力で色々なものを見つけなきゃいけない。助けを待ってるだけじゃ、ダメなんだ……


「先生の言ってること、少しはわかるよ。わかるけど……。じゃあ、今の私にできることは何もないの?」

「多くはないけど、何もないってわけでもない。でもね、人のために何かをすることは、中途半端が許されないのよ? ただの憐れみなら、手は出さない方がいいわ」


 ただの、憐れみ……?

 信じられない。岡林先生のその言葉で、頭に血が上るのが自分でもよくわかった。


「憐れみ、なんかじゃない! 自分が何もできないことは、わかってる! だけど、ただ見てるなんてできない……!」


 悔しくて泣きそうになったけど、ここで泣くのは違う、そう思ってぐっとこらえた。岡林先生も真剣な目で私をじっと見て、それからため息をついた。


「……守ること、助けることはできなくても、手を握ることならできる。話しかけて、話を聞いて、そばにいて、待つことなら、特別な力はいらない。いい?」


 まるで私の決意を確かめるように、岡林先生が続ける。


「自分の無力さを理解して、それでも何かしたいと思うのなら、あなたから差しのべた手を離さないで。今はそれだけで十分よ」


*


 話しかけること。

 話を聞くこと。

 そばにいること。

 待つこと。


「麻衣には、関係ない」って言った絵里香の手を、どうやったら離さずにいられるだろう?自分にできるかどうかはわからない。けれど、あきらめたら終わりだってことはわかった。


「私、行きます。仕事、ごめんなさい」


 マグカップをテーブルの上に置いて、それから私は司書室を飛び出した。

 校内放送が、課外活動の終わりを告げている。どれくらい司書室にいたのか、図書館に生徒はもういなかった。

 強い雨音が、下校時刻を告げるグリーン・スリーブスのすべり出しに重なる。

 どこに行ったら絵里香に会えるかなんて、わからなかった。だけど、いても立ってもいられない思いが、私を突き動かしていた。

 図書館の扉を開けて、それから──


*


 一瞬、自分の目が信じられなかった。

 そんな都合のいい話、あるわけがない。さっき、あんな風に別れたばっかりなのに……


 雨に降られたのか、びしょ濡れになった絵里香が私の前に立っていた。走ってきたのかも知れない。少しだけ、息が上がっていた。


「――麻衣が、待ってるかもって、思って」


 絵里香の、私を気づかうような声。それで限界だった。涙が堰を切ってあふれ出す。私は絵里香の胸に、正面から飛び込んでいた。


「絵里香、絵里香……」

「ごめんね、麻衣」


 絵里香の手が、そっと私の背中に回される。


「関係ないなんて言わないで。さみしいよ、絵里香。絵里香がいないとダメだよ。どこにも行かないで、ここにいようよ。絵里香、一緒にいないとダメだよ。絵里香……」


 うわごとの様に、絵里香の名前をくり返す。私を抱きしめる絵里香の手に、ぎゅっと力が込められたのがわかった。


「これだけは、自分で片付けなくちゃいけなくて……。ゴメンね。麻衣にはずっと、心配かけてばっかりだね」


 雨に濡れた絵里香の体はひんやりとしていて、だけど芯からは温かさが伝わってくるようだった。涙は全然止まってくれなくて、ぐちゃぐちゃになった顔のまま、私は首を振った。


「絵里香がいてくれたら、それでいいよ。ゴメンねなんて、言わないで……」


*


 離ればなれになって、ずっと気になっていたこと。

 勇気を出して、話しかけたこと。

 放課後の図書館で、少しずつ話すようになったこと。

 絵里香が話してくれた、色々なこと。


 絵里香がクラスの子たちとも話せるようになって、ちょっと寂しかったこと。

 関係ないって言われて、落ち込んだこと。

 岡林先生の言葉。

 それから今、私を抱きしめている絵里香の体温。


 絵里香と私をつなぐ、細い糸。

 放課後の図書館と、グリーン・スリーブスの切ない旋律。


 ――ああ、これは。

 この図書館に幾百とある本たちが紡いできた、ありふれた物語。

 人を動かす、悲劇と喜劇の入り交じった感情。

 嫉妬と独占欲で織られた思い。誰かの特別でありたいという願い。


 ――これは、恋だ。

 私、絵里香のことが好きだったんだ……


 自分の中に見つけてしまった感情をもてあまして、私はしばらくぼうっとしていた。

 この手は、絶対に離したりしない。指先だけがそのことを覚えてるみたいに、絵里香の華奢な腕をつかむ。


「……麻衣。泣きすぎ。これで拭いて」


 絵里香がハンカチを取り出して、私に渡そうとする。私は首を振った。


「もう。甘えん坊。じゃあ拭いてあげるから、ちょっと放して」

「イヤ。放さない。岡林先生が絶対に放しちゃダメって言ってたもん」

「岡林? ちょっと意味がわかんないんだけど」


 突然出てきた岡林先生の名前に怪訝な顔をしながら、それでも絵里香は優しく私の涙を拭ってくれた。


「……見藤さん、せめて学校にいるときくらいは、先生って付けてちょうだい」


 後ろから不意にかけられたその言葉に、私は驚いてふり返る。


「先生……!」

「柳原さんも。すごい顔で何してるの。盛り上がってるところで申し訳ないんだけど、私、そろそろ帰りたいの」

「盛り上がってるって……。麻衣、岡林と何か話してたの?」

「あ、あの……」


 恥ずかしいのと安心したのとびっくりしたので、私は言葉を失っていた。岡林先生が察してくれたのか、黄色いタグにぶら下がった鍵を振ってみせる。


「これ、預けとくわ。積もる話もあるでしょうから、続きは司書室でやってちょうだい」


 私はうなずいて、岡林先生から図書館の鍵を受け取った。階段を降りていく岡林先生の顔は、心なしか少し嬉しそうに見えた。


 グリーン・スリーブスの最後のフレーズ。放課後の時間が終わる。

 私は絵里香からいったん離れて、それから手をつなぎ直した。

 指に力を込める。絵里香も私の手を握りかえす。

 扉を開けて、誰もいない図書館に入る。司書室には、2人分のカモミールティーが湯気を立てていた。


「絵里香の話、聞かせて。私が思ってたコトも聞いてほしい。私、絵里香のことがもっと知りたいの」


 絵里香が私の言葉に、ちょっと驚いた表情を見せた。どんな傷を付けられようと、やっぱり絵里香はキレイだ。


「いいよ。えっと、どこから話したらいいかな……」


 新しく見つけてしまった感情に戸惑い、胸のドキドキを抑えながら、私は絵里香の言葉を待つ。

 放課後は終わってしまったけれど、今日は、もうちょっとだけ――。

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