とまどい、その行き先 (1)

 ――見藤さん、最近ちょっと雰囲気かわった?

 ――この間まで、やばい感じだったよね。

 ――何かあったのかなあ


 無責任だけど、人のことになると意外に鋭いクラスの女の子たちの”うわさ話”は、最近の絵里香をそんな風に話題にしている。

 私もそう思う。……私だけが、知ってると思ってたけど。

 女の子たちの話す「何か」の中に、柳原麻衣、私の名前はない。


 見藤絵里香と私は、いわゆる幼なじみの関係だ。

 家が近所で、母親どうしも仲が良く、小さい頃から一緒にいることが当たり前だった。

 ふつーの家庭で、ふつーに育ち、ふつーに友達で、それがずっと続くと思っていたっけ……。小さな子供の(今でも子供なんだろうけど)、無邪気な未来予測。


 自分たちを囲んでいる世界が、どれほど脆くて、簡単に壊れてしまうものなのか。それを知ったのは、小学校5年の頃。絵里香の両親が離婚した時のことだった。

 それから2年。見藤のお家は、「ご近所の人」が外から見てもはっきりわかるほど、荒れた。感受性の強い年頃。捨てられたという思い。自分には価値がないという自己否定。中学の図書館で読んだ難しい本には、判で押したようにそんな言葉が並んでいた。

 何冊も読んだ。だけどその中の誰も、じゃあ近所に住んでるだけの友達がどうしたらいいのかは教えてくれなかった。


 中学校。そこに通う中学生たち。どこからともなく忍び寄ってくる、大人たちの世界。

 ありきたりの出来事は、たくさんの人がそういう目にあうからありきたりになる。中学に入ってから絵里香が経験したことも、きっとそんな事なんだろう。「悪い友達」も、髪の色を抜くことも、派手なメイクも危ない遊びも…


 そんな絵里香だったけど。

 あの雨の放課後。私がふり絞ったなけなしの勇気は、絵里香と私の距離を少しだけ縮めてくれた。昔みたいに、無邪気に遊び回ることはもうしないけど、放課後の図書館では少しずつお互いのことを話せるようになってきた。

 クラスの中で、誰とも話さず、孤立していた絵里香を見ることもなくなってきて……


*


「見藤さん、いつも爪きれいにしてるよね。あとなんかいい匂いする。何使ってるの?」


 お昼休み。最近の絵里香は、「危ない人」の空気も薄れてきたらしい。話しかけてるのはクラスの中でもおしゃれ好きな木崎きざきさんだ。


「んー? 普通にヤスリで削って磨いてるだけだよ? ナントカナントカって、名前わかんないけど横から削るのとか上から磨くのとか色々あって」


 指をひらひらさせながら、絵里香が答えている。道具の名前がてきとーなのが絵里香らしい。


「へぇ~かっこいい。あとは? 匂いとか」

「よくわかったね。ネイルオイルだよ。あんまりキツイ匂いは好きじゃないんだけど、ちょっと塗っとくと手入れが長持ちするんだって」


 すごーい、見せて見せて。

 木崎さんと仲良しの女子が何人か、絵里香の周りに集まってきた。絵里香の母親はとにかくおしゃれで、絵里香にも色々と教えているらしい。

 わいわい。がやがや。木崎さんたちに囲まれた絵里香は、ちょっと楽しそうだ。

 楽しそうで――


「おーい見藤ー、ちょっとお邪魔しますよー。悪いな木崎」

「何よ森川、女子トークに入りたいの?」

「んなわけねーだろ。5時間目。理科実験の準備なんでヨロシク」


 森川翔真しょうまは、クラスは違ったけど絵里香や私と同じ小学校の出身だ。バスケが上手くて、人望もある……と思う。男子にも女子にも同じように接することができる森川は、面倒くさいばっかりの男子の中では割と話しやすいので、そこそこの人気者といったところだ。


「ああ、ごめん。忘れてた」


 絵里香がかばんの中から、理科の教科書やノートを取り出す。後でまた教えてね-。女子たちも席を離れかける。


「あ、そういえばさ。見藤、風俗の店でバイトしてるってホントか?」


 何気なく、森川が切り出して、周りの空気が凍り付いたのがわかった。散らばりかけてた木崎さんたちも、ぎょっとした表情で森川と絵里香を見ている。

 何で、森川、こんな時にそんなコトを……

 いたたまれない思いに、私は逃げ出したい衝動にかられた。


「してないよ。そんなヒマない」


 絵里香が、静かにそう答える。最初からわかってたみたいに、森川がうなずいた。


「だよなあ。見藤、意外と真面目だもんなあ。お前、変な噂立てられてんのに、何も言わねーから」


 ああ、これは優しいやつだ。森川、絵里香じゃなくて周りに言ってる。下らない噂がウソだって、みんなに言ってるんだ……


 図書館に行って、今日の仕事を片付けないと……

 絵里香、良かったじゃん。味方してくれる人がいて。

 私みたいにこそこそしないで、ちゃんと話せるしさ……。

 図書館に……


 胸の中からイヤな言葉がわき出して来そうで、私は何故か泣きたくなっていた。目立たないようにそっと席を立って、教室を抜け出す。廊下は走ってはいけません。だから早足で図書館に向かった。


 7月。梅雨の明けた空は抜けるように青く、初夏の日差しはどこまでも透明で逃げ場がない。今日の放課後も、絵里香は図書館に来ない。きっと――


*


 教室では何となく、絵里香に話しかけることができなくて、どこかで私も意固地になっていたのかも知れない。図書館なら話せるのに。そんな風に思ったりして。

 絵里香の髪は相変わらず目立つ茶色で、どこかの高校の怖い先輩たちとの付き合いも続いているみたいだったけれど、教室にいる間はぽつぽつと、色んな人と話すようになっていた。

 男子からも女子からも信用されてる森川の一言があったからか、少なくとも絵里香がいるところで、あからさまにイヤな話を聞かされることもなくなった。


 ――そう。絵里香はもう孤独じゃない。私がいなくても。


 自分でも、イヤな感情だと思う。

 自分だけが絵里香のことをわかってあげてた。

 自分だけに、絵里香は笑顔を見せてくれてたなんて……。


 そんなわけない。私にだって絵里香とつながりのない友達はいるし、絵里香だってきっとそうだ。頭ではわかってる。だけど……

 木崎さんや、おしゃれ好きの女子たちと話してる絵里香を見ると、なぜか苦しい。

 メイクの話をしながら、柔らかい表情を浮かべる絵里香を見ていると、やるせない思いでいっぱいになる。

 休み時間、私が図書館に入りびたってるのはみんなが知ってることだけど、ここ最近は入りびたるんじゃなくて逃げ込んでいること、たぶん誰も気付いてない。図書館好きの地味な女子。それが2年4組の中での、私なんだから……。


「最近、楽しくなさそうね。クラスで何かあった?」


 放課後、新刊図書のラベル貼りをしながら、司書の岡林先生が聞いてきた。


「別に何もないですけど。真面目に仕事してるだけですけど?」


 ちょっと感じ悪かったかな……。岡林先生、ホント鋭いな……


「最近、見藤さん来ないのね。それとは関係ないか」


 うう……やっぱり見透かされてるのかも……。私はそれでも精いっぱい、仕事に集中してますって顔して新しい本たちにラベルを貼り続けた。


「絵里香は、もともとキレイだし優しいし背も高くておしゃれも好きですもん。別に図書館に来なくても、楽しいトコはたくさんありますよ」


 まるで愚痴るみたいな私の言葉に、岡林先生がため息をついて言った。


「寂しいの? それ、見藤さんに言った? 人間、言わなきゃ伝わらないものよ」

「言うわけ、ないじゃないですか。いいんですよ別に」


 別に。別に。言い訳して、何かから逃げてるみたいだ。こんなコトを言いたかったんじゃないのに、自分を止められなかった。

 絵里香、もう図書館には来ないのかなあ……


*


 それから数日後。朝のホームルームに、絵里香はいなかった。前は時々さぼってたから、みんなもそんなに気にしていないようだった。

 少しずつ、クラスにとけ込み始めていた絵里香に、私もみんなも慣れてきていたんだと思う。

 2時間目が終わり、3時間目が始まる前。

 教室に現れた絵里香の姿に、私は息をのんだ。何人かが気付いて、教室がざわつき始める。

 ――絵里香の顔には、メイクでは隠しきれないくらいのアザがあった。

 何かがぶつかったくらいでは付かないような、ひどいアザ。左目の上から額にかけてと、右頬と。

 何があったか、誰がみても、それは間違いようがなかった。それは誰かに付けられた、暴力の痕だった……。


 午前中には、私も他の誰も、絵里香に声をかけられなかった。

 給食の時間、担任が興味なさそうに「見藤、顔どうした」って聞いて、絵里香が「転びました」って答えて、それで終わりだった。


「そうか、気をつけるんだぞ」これでこの話は終わり。何となく、クラスの空気も「この話はこれで終わり」になってしまった。

 信じられない。そんなわけ、ないじゃない……!

 砂を噛むように味のしない給食を詰めこみながら、私は一秒でも早くこの教室から逃げ出したいと思っていた。

 最近、逃げてばっかりだ。だけど、こんな空気の中で座っているのに、耐えられない。


 お昼休みの図書館はいつも通りに静かで、ようやく私はほっと息をついた。

 岡林先生は司書室にいなくて、数人の生徒が本を読んだり勉強したりしている、いつもの風景。

 カウンターに入って、本の返却処理をしようと思ったけど、全然手につかない。私は窓から見える昇降口と花壇を、ぼんやりと眺めていた。


 ――絵里香だ。まだ昼休みなのに、かばんを持って外に出ようとしてる。

 どうして、絵里香……


 窓から表情は見えなかったけど、アザを付けられ、暗く沈んだ絵里香の顔を思い出したら、勝手に足が動いていた。

 このまま、行かせちゃダメだ。絵里香、きっと戻って来なくなる……

 直感だった。図書館を飛び出すと、階段を駆け下りて昇降口へ。上履きのまま、校門から外に出ようとしていた絵里香に走り寄った。


「絵里香、ねえ絵里香」


 力なく、少しだるそうに絵里香が振り向いた。最近ようやく見せるようになった、柔らかい表情はどこにもなかった。


「何? 何か用?」

「なっ、何かって……。どうしたの? 今日は朝から来てないし、来たと思ったらそんな顔で……。ねえ絵里香、何があったの? 私……」


 勢い込んで、すがりつくように絵里香に迫る。絵里香はゆっくりと首を振って、私の手を引き離した。


「麻衣には、関係ないから」


 静かで確かな拒絶。一瞬、頭がフリーズしたのが自分でもわかった。

 どうして……?いろいろ、話してくれるようになってたじゃん……

 関係、ない……?

 よくわかんないんだけど、私とは、関係ないってこと……?


「絵里香……」

「もう、行くから。麻衣は教室に、戻って」


 一瞬、辛そうな表情を浮かべたのは、きっと気のせいだ。絵里香の顔はすぐに表情を失って、取り付く島もなくなってしまった。

 絵里香が学校から離れていく。

 臆病な私はもう、追いかけることができない。

 関係ない。そう言われてしまった私には、絵里香を追いかける理由がない――。


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