6月 雨の放課後

 ――地方が梅雨入りしたとみられています。今、晴れている地域でも、お昼過ぎからは大雨になるかも知れません。傘は忘れずに……


「おかあさーん、今日これから雨だって」

「やだ、今日は外回りなのに……。麻衣、あんたも傘、忘れないように行きなさいね。行ってきます」

「はーい、行ってらっしゃーい」

「……なあに、ニヤニヤしちゃって。まあいいや。戸締まりよろしくね」


お父さんもお母さんも勤めているわが家では、こんな風に私より先に二人が出かけることが多い。今日は私が、鍵の当番だ。それにしても、ニヤニヤはないじゃない。

 ……そんなに、顔に出てたかな?


 6月。浮ついた新学期の空気はゴールデンウィークと一緒にどこかへ行ってしまい、私の毎日は授業とか、委員会とか、ちょっとした行事とか、そういう中学生の日常で占められていた。

 新緑の季節が終わり、葉の緑が濃くなり始めた果樹園を抜けて、中学校への道を急ぐ。先週までさわやかだった朝の空気も、心なしか少し湿ってきたように思える。

 どうか、今日は図書館で会えますように……。


 朝のホームルームが終わり、がやがやとした授業前の教室。ロッカーに荷物を持っていきながら、窓際の方に目をやる。後ろから2番目の席。絵里香はいつものように、所在なげに窓の外を眺めていた。

 良かった。ちゃんといた。……髪、切ったのかな?

 相変わらず目立つ茶色のくせっ毛は少し短くなっていて、あごから首筋の線を前よりも細くキレイに見せている。無理矢理に派手な塗り方をしていたメイクも、ちょっと抑えたのか落ち着いて見える。

 やっぱりキレイだなあ、絵里香……


 いつもと同じように遠巻きにしている女子たちの何人かも、そんな絵里香の様子に気付いたみたいだった。男子たちの目つきも、前とは違ってるみたい。

 がらがら。ドアが開いて、数学の松崎先生が教室に入ってきた。


「授業はじめるぞ-。席に着いた着いた」


*


 4時間目までの授業も終わり、お昼ご飯を食べたら待望のお昼休み。短い時間だけど、図書館で仕事したり本を読んだりするのが、私のささやかな楽しみだった。

 ――だけど、図書館に向かおうとしていた私の耳に、それは不意に飛び込んできた。


「見藤、また高山とやってきたのかな」

「マジか」

「女ってアレすると肌がきれいになる的な?」

「センセイ、これで茶髪にしててもいいですか~」


教室の前の方にたむろってた男子数人が、どっと笑い声を上げた。

 今までも、何度も何度も何度もくり返されてきた、絵里香への心ない言葉。疑問形で逃げ場を作って、まるでそれを事実みたいにつないでいく悪意の連鎖。生徒指導の高山先生に身体を売って、色々見逃してもらってる……。うんざりする噂話。

 くだらない。なんてイヤな言葉。大声で話してるから、周りにも聞こえてるはず。窓際で静かに座っている、絵里香にもきっと……


 ヒソヒソ。ヒソヒソ。

 別のグループの女子たちが、今度は絵里香とその男子たちを見比べながら何かささやき合っている。絵里香はクラスで孤立してるから、誰も止める人はいない。目立ったりけんかになったりするのが嫌な私も、何もできなくて。

 せっかく絵里香が、ほんの少しだけ心のドアを開けてくれたのに……


 ばん!

 私は国語の教科書を取り出して、机の上に叩きつけていた。


「……バッカみたい」


教室の空気が凍り付く。次の瞬間には私はもう我に返っていて、足下から震えが上ってくるのがわかった。クラスの子たちがみんな、あっけに取られたような表情を浮かべている。

 どうしよう、どうしよう……。とにかく教室から出るしかない。私は逃げるように教室のドアを開けて、図書館に向かって駆け出していた。


 それからの時間は、本当に最悪だった。逃げ込んだ先の図書館では、仕事で何回もミスして司書の岡林先生に怒られるし、5時間目も6時間目もぼーっとしてしまって、当てられてもしどろもどろだった。

 いつもは仲の良い子たちも、さっきのアレにきっと引いてるし……。

 授業が全部終わって、今日の「2年4組」から解放された時には、もうへとへとになっていた。

 あー、図書館、行きづらいなあ……。

 ばらばらと部活の子たちが出ていく中、私はしばらく教室でいじいじ、うだうだしていた。いつの間にか絵里香はいなくなってるし、空からは天気予報どおり、雨まで落ちてきた。


 そうだ、今日は雨の予報だったっけ。絵里香が、図書館に来てくれてるかも知れないけど……


*


 幼なじみの絵里香に、中学に入ってから分かりやすい「不良」に見られるようになってしまった絵里香に、勇気を振り絞って話しかけたのが4月の終わり。急に仲良くなれたり、前みたいに笑い合えたり、そんなドラマみたいな出来事はさすがに起こっていない。

 絵里香には相変わらず良くない噂がついて回ってるし、友情にかられて堂々と絵里香に向き合うほど私の心は強くない。なぜか雨の日の放課後だけ図書館に来てくれるようになった絵里香と、ぽつぽつと話せるようになった…… それが今。私にできる精一杯。


 図書館での絵里香は、静かに勉強をしているか、難しい本を読んでいるかのどちらかだった。――そう。絵里香も昔から本が好きで、勉強だって嫌いじゃなかった。小学校の頃は、絵里香が読んだ本のあらすじを私に教えてくれて、面白そうだったら私も読む…… そんなことをよくしていたっけ。

 私に気をつかってるのかも知れない。人がいるときには絵里香から声をかけてくることはなかった。代わりに、私の方が口実を作っては、絵里香に話しかけていた。


――本を本棚に戻すの、手伝ってくれる?

――貸し出しの計算、一緒に確認してくれるかな?

――ラベル貼り、私は苦手でさ。絵里香、器用だったじゃん?


 静かな放課後の、短い時間。

 どこまで踏み込んでいいのかわからないから、まだ真面目な話はできないけど、それでも穏やかに絵里香と過ごせるようになった時間。だけど今日は、ちょっと無理かな……。

 ていうか、絵里香も引いてるかな……。

 重い足を引きずりながら、図書館の古びたドアを開ける。

 今日もあんまり人がいない。けれど、窓際のテーブルの端の席に、絵里香は静かに座っていた。ノートを広げて、宿題をやっているみたいだ。


 昼休みのささくれた気持ちを思い出す。今度こそ、ちゃんとしなくちゃ。

 コンコン。司書室に顔を出すと、岡林先生がパソコンに向かって何か文章を打ってるところだった。


「あら、柳原さん」

「岡林先生……。あの、さっきはすみませんでした」

「ええ? ああ、お昼休みのこと? あまり気にしないで、私も集中できない時はあるし。でも、何か心配事でもあったの? すごい顔してたわよ」


すごい顔……すごい顔……

どんなひどい顔をしてたんだろう?

怖くて聞けない……


「あー、まあ、ちょっと教室で……」

「教室? 見藤さんと何かあったの?」

「えっ、いや、えっ絵里香とは何にもないんですけど! その、ちょっとトラブルが……」

「まあいいわ。そしたら放課後は頑張って、いつも以上に真面目に仕事してちょうだい」

「はあーい。わかりました」


岡林先生は真面目だけど、こんな風に何かを察して放っておいてくれることが多くて、生徒たちにも人気がある。今日は、色々と聞かれないで助かった。とりあえずは、仕事仕事。


 カウンターに座って、積まれた返却本を確認して、黙々とカートに移していく。うちの図書館、お金がないみたいで、未だにカードに記入したり、ハンコを押したりしてるんだよね。

 作業の合間に、ちらちらと窓際のテーブルの方を見る。絵里香は静かな図書館の空気にとけ込んだみたいに、ひとり宿題に向かっていた。

 本の返却処理を一通り終えると、私はカートを押しながら本棚がひしめき合う一画に向かった。天井にまで届きそうな、大きな本棚がずらっと並んでいる。古い木の棚は黒光りして、図書館の中でもこの場所だけは空気が倍くらい重く感じる。電気代をケチって蛍光灯を抜いてるからか、奥の方は薄暗いし……。

 かたん、かたん。

 大きな物音を立てないように気をつけながら、本棚を順番に回っていく。

 梅雨どきの雨が、窓の外の景色を煙らせている。

 それから……


「麻衣、手伝おうか?」


――それから絵里香が、私のところに来てくれた。


*


「まず上の番号から見るんだっけ?」

「そうそう、この棚は200番台だから、2から始まる本、これと、これかな。お願い」


絵里香に何冊か手渡して、手分けして本を棚に戻していく。

 この何万冊もある本に、誰がいつ、ラベルを貼って並べたんだろう? 何十年も読まれない本が、中にはあったりして……。


「あっちゃー、これ、上の段だ」


155センチしかない私には(まだ成長期だと信じたい)、上の方の棚は手ごわい相手。しかもハードカバーで厚いとなると、指が、つま先立ちした足が、つりそう……


「貸して、麻衣」


後ろから手をのばして、絵里香が私から本を取り上げた。

 165センチもある(少しは背を分けてほしい)絵里香は手足も長くて、上の段にも簡単に手が届く。夏服の袖からのぞく絵里香の腕は細く、色白で、頬に触れそうな距離にちょっとドキドキする。


「麻衣、あのね」


耳元で、ふいに絵里香がささやいた。図書館は静かに。だから秘密の話みたいに、絵里香はささやく。


「高山とは、そういうの、無いから」

「え…?」

「高山、うちの母親の同級生なんだって。それで母親が何か頼んだみたいで、ときどき呼び出されて放課後に説教されてるの」

「そう、だったんだ……」


さっきのこと。これまでのこと。

 はっきりとは、言わなかったけど。中学生になって、初めて絵里香が自分のコトを話してくれた。そんな気がする。


「私も色々あってさ、説教されながら、ちょっと愚痴聞いたりしてもらってるのかも。悪いやつじゃないよ、あいつ」

「なんかわかる。頭ごなし、って感じじゃないよね」

「うん、だから……。麻衣、心配かけてごめんね」


体の力が、抜けていくのがわかった。

 絵里香と何気ないふりで話をしながら、いつもどこか気持ちが張り詰めていた。

 どんな話なら、してもいいのか。どういう態度で、接したらいいのか。

 絵里香に、どこまでなら近づいていいのかって……。


「『ごめんね』は、私の方だよ」


絵里香の顔を見ることができず、私はうつむいてそう言った。

 男子たちのイヤな話も、女子たちのヒソヒソ話も、どっちにも何も言えなかった私の方。

 教室から飛び出してくるのが精一杯だった、私の方なのに…


「じゃあ、おあいこだね」


絵里香の言葉で、ゆっくりと緊張が解けていく。

 とん。体の力を抜いた私は、絵里香に背中を預けていた。

 大きく息をつく。泣きそう。絵里香の柔らかな感触と体温が、夏服越しに伝わってきた。


「麻衣の、甘えんぼう」


そう言って、絵里香は棚にかけていた右手を私の肩に回した。それから少しだけ、その手に力を込める。


「甘えんぼうだもん。だって絵里香がずっとしゃべってくれなくて、こっそり見てるだけでさ……」


私は絵里香の右手に、自分の左手を重ねていた。

 ドキドキと安心が入り交じった、不思議な感覚が心に満ちる。


「でも、麻衣ってアレだよね」


何かを思い出したのか、絵里香はクスクスと静かに笑い出した。


「なによー、アレって。何がおかしいの」


絵里香の腕の中で、身をよじってちょっと抗議する。


「机に叩きつけたの、また国語の教科書だったよね。何か国語に恨みでもあるの?」

「知らないよ! そんなの……。もうっ」


自分の子供っぽさをからかわれたみたいで、私は口をとがらせた。


「でも、嬉しかったよ。あいつらに怒ってくれてたんでしょ? ……ありがとね」


*


 雨雲のかかった空と湿った空気、仄暗い書架と数え切れないほどの本たち。

 それから、絵里香の静かな息づかい。

 グリーン・スリーブスが流れ始めるまで、放課後の時間はあと少しだ。

 誰も図書館に来ませんように。絵里香ともうちょっと、こうしていられますように。

 色々ありすぎた今日を思い出しながら、私は背中で、絵里香の体温を感じていた――。

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