雨が降ったら ここへおいでよ

黒川亜季

雨が降ったら ここへおいでよ

 ――全校のみなさん、下校時刻となりました。活動を中止し、すみやかに下校するようにしましょう。

 くり返します、下校時刻となりました……


 夕方になって降り始めた雨は、いつもは夕陽に染まる西の空を鈍い灰色に塗りつぶしていた。グリーン・スリーブスのもの悲しいしらべが、静かにすべり出し、雨音と混じって校舎に響きわたる。

 時刻は午後5時半。

 まじめな中学生は帰って勉強しなさいって、そんな時間。


 部活を終えた子たちが、ばらばらっと昇降口に駆け込んでくる。

 入れ替わるように、着替えを終えた子たちが、色とりどりの傘を差しながら校舎から離れていく。

 図書館の窓からは、そんな様子がよく見える。

 私は貸し出しの集計の手をふと止めて、傘の群れがくっついたり、離れたりしながら学校から遠ざかっていくのをぼんやりと眺めていた。


「……原さん、柳原やなはら麻衣まいさん、おーい」

「わぁ、岡林おかばやし先生、すみません何でしたっけ?」

「もー、手が止まってるわよ。会議の呼び出しが入ったから、帰りは戸締まりをお願いねって言ったの」


 司書の岡林先生(家庭科の先生だけど、私にとっては図書館にいる先生だ)が、苦笑いしながら鍵を目の前に差し出した。集計の作業は、まだまだかかりそう。私は鍵を受け取った。


「はーい、わかりました。置き場所は……」

「返却ポストで。お願いね、助かるわ」


 ――部活にも入らず、図書委員の仕事をマジメにこなして、戸締まりを頼まれるくらいには司書の先生から信用されるようになった。それが今の私。

 カウンターから立ち上がって、岡林先生を見送る。


「行ってらっしゃ~い」


 先生がいなくなると、この図書館にいるのは私だけになる。受験のシーズンには3年生がぎりぎりまで残ってるけど、学期始めの今ではそこまでの人はいないから。

 窓の外の雨音が、少し強くなったみたい。雨雲が厚くかかっているのか、空が急に暗くなってきた。

 人のいなくなった図書館には、肌寒い空気がどこかからすっと入り込んでくる。


 あー、今日は傘忘れたんだっけ……。

 窓の外に目をやって、そんなことを思い出していた。このまま帰ったら風邪引いちゃいそうだなあ。


 グリーン・スリーブスの静かなしらべは続いている。


 ……かばん、持ってこようかな。

 仕事を終わらせてさっさと帰るのと、図書館で少し待つのとを秤にかけて、私はとりあえず教室に戻ることにした。


 校舎と校舎をつなぐ渡り廊下に、私の足音と雨音だけが響く。

 まだ5時半すぎだよ?うちの学校、こんなに人いなかったっけ…?

 2年生の教室が並ぶ3階にちょっとだけ急ぎ足で上って、それから4組の教室のドアを開けて……。

 誰もいない、はずの教室。

 所在なげにぽつんと座っている、彼女の姿だけがあった。


 この前と一緒だ。

 放課後、こんな雨の夕方。教室にひとりきりでいるエリカ――見藤みとう絵里香えりかの、後ろ姿を見たのは。


*


 たてつけの良くない教室のドアは、がらがらと音を立てて開いたはずだけど、絵里香は振り向きもしなかった。

 窓際の、後ろから2番目の席。クラスの誰も近寄らないその席。いじめられているわけじゃない。怖くて、そんなコト誰もできない。

 近所の荒れた高校からガラの悪い先輩たちが迎えに来てるとか、ケバい化粧で夜の町を歩いているのを見たとか、親が離婚して貧乏だから風俗でバイトしてるとか、生徒指導の先生に身体を売っていろいろ見逃してもらってるとか……。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。クラスで飛び交ういやな噂話が、私と絵里香しかいない教室の中、心の中にわっと押し寄せる。

 いくらでやらせてくれんのかな。バカな男子たちの言葉を思い出して、ぎりっと胸が痛む。


 かたん、かたん。私は黙って、廊下側から2列目の自分の席に向かう。

 絵里香は頬杖をついて、窓の外をぼんやりと見ている……何も見ていないって表情で。

 キツく脱色した絵里香の髪はくせっ毛で、確か雨の日は全然まとまらないって言ってたっけ。学校指定の黒や茶色のゴムを使う気になれないのか、髪型もどこか投げやりだ。

 ゆっくりと自分のかばんを机の上に置いて、のろのろと教科書やノートをその中にしまっていく。

 絵里香はこっちを見ない。私の視線にも気づかない。


 グリーン・スリーブスは転調して、ゆるやかな旋律が教室を満たす。


 絵里香は不良じゃない。

 ものを盗んだこともないし、人に暴力を振るったこともない。ただ、私から見ても良くない人たちといつも一緒にいて、その人たちが何をしても止めないし離れることもしない。

 背伸びしたメイクと、私たちの年には不釣り合いなアクセサリー。

 誰に求められたのか、それとも自分で選んだのか、わかりやすく「普通」から外れていく絵里香に、ふつーの子たちは話しかけなくなっていた。

 それから、私も。

 絵里香の名前を呼べなくなって、友達との会話でも何となくミトウさんでお茶を濁すようになって……。

 エリカちゃん、昔はいい子だったのにねえ。お母さんがいつか、ため息まじりにお父さんに言ってたのを不意に思い出す。


 エリカちゃんとマイちゃん。

 お母さんの中の「エリカちゃん」は、小学校低学年くらいまでの絵里香のことだろう。「近所の見藤さん」のトコの、「かわいいエリカちゃん」は。

 娘のマイと、仲良く遊んでたエリカちゃん。マイちゃんをおよめさんにするって言ってた、エリカちゃんは……。


 今日で、何回目になるだろう?

 雨の日の夕方、下校時刻。閉館まで図書館にいて、それから教室に戻る私。

 誰もいない教室にいて、どこにも行かない絵里香。ふたりの間に落ちる沈黙。

 臆病な私。

 ふつーの子から一歩もはみ出したくないくせに、幼なじみの絵里香の悪口を聞き逃すことも、反発することもできない私。

 怖い人たちに目を付けられたくなくて、お母さんに心配かけたくなくて、絵里香に話しかけるコトすらもできなくなった私。


 他には誰もいない、この教室でも……?


 私の知ってる絵里香は、ホントは私よりも勉強ができてちょっと天然で優柔不断なトコがあって水泳も得意で、だから、髪も最初は脱色したんじゃなくてスイミングスクールに行ってた頃にちょっとずつ色が抜けただけで、でも、それに目を付けられて色んな人に絡まれるようになって……。


 いつまで、黙ってるつもり? 知らないふりを、続けるつもりなの?


 どさっ。

 私は国語の教科書を、思わずかばんから落としていた。手が滑ったのか、自分にむかついてなのか、もうどうでもいい。

 大きな物音がして、さすがに絵里香も私の方を見た。久しぶりに、本当に久しぶりに目が合った気がした。


「あ……あのさ」


 ふつーに話しかけようとしただけなのに、やっぱりつっかえた。

 絵里香が首をかしげる。無表情だけど、物憂げな瞳にさざ波が立ったように思う。


「エリ…見藤さん、放課後ずっとここにいたの?」

「そうだよ」


 そっけない返事。だけど絵里香は、私を無視しなかった。どうしよう。そもそも何で話しかけたんだっけ!? ええと、ええと……


「前も、いたでしょう?雨が降ってたときに」

「傘……」

「え?」

「傘、忘れたから」

「うそ」


 がたっ、ばさばさっ。

 教科書だけじゃなくて、かばんを落とした。今度は手がすべったせいだ。


「忘れたの? 傘を?」

「だから、そう言ったでしょ」

「だって…… じゃあ雨がやまなかったらどうするの? えっ……見藤さんの家、遠いじゃん」

「歩いて帰るけど」

「そんなあ、風邪引いちゃうよ」


 絶対、違う。私は自分に突っ込む。言いたかったことは、傘や風邪のコトじゃないはず。

 絵里香に話しかけられなかったこと。絵里香に確かめたかったこと。離ればなれになって寂しかったこと。

 そう、絵里香に伝えたいのはもっと大切なコトで、こんなしょうもないコトじゃなかったはず……

 だけど、そんな他愛もない話が、私の心をちょっとだけ弾ませていた。


「へんなの」


 絵里香がふいっと目をそらした。けれど、その表情は柔らかくて、空気がゆるんだのがわかった。


「ね、ねえ」


 がたがたっ。拾い集めた教科書となけなしの勇気を何とかかばんに詰め込んで、私は絵里香の席に近づいた。


 グリーン・スリーブスがまた転調して、もうすぐこの曲が終わる。


「だったらさ、図書館においでよ」


 居場所がなくて、どこにも行く場所もなくて、誰とも会いたくなかったら。


「意味わかんないんだけど」

「私にもわかんないよ。だけど、おいでよ。宿題片付けてもいいし、本読んでもいいから」

「真面目? つーか、これ何かのお誘い?」


 絵里香が立ち上がって、私とまともに向き合った。

 キレイだなあ。メイクなんかしなくてもいいのに……。絵里香の、少し切れ長の目を見ながら、不意にそんなコトを思った。


 中学に入ってから、何があったの?

 いつもひとりでいるの?

 噂は、本当なの……?


 聞きたいことは色々あるのに、今でも誰か来ないかびくびくしてる自分がいる。それでも、あの場所なら。


「雨がやむまで、待っててもいいし。良かったら仕事を手伝ってよ」


 沈黙。それから絵里香の顔に、困惑と逡巡が浮かぶ。


「それで、いいの? 私、こんなだよ?」

「いいに決まってるじゃん。行こう」


 そこまで言って、かばんを握る手が汗びっしょりなことに気がついた。緊張、してたんだなあ。


「わかった。じゃあ一個だけいい?」


 絵里香がぺたんこのかばんを掴んで、ちょっと気まずそうに私から目をそらした。


「え、何? 私、何かまずいコト言った?」

「言ってないけど、中途半端に名前と名字呼ぶのやめてよ……。エリカでいいじゃん」


*


 ふたりで並んで、教室を出る。

 夕闇はいっそう濃くなって、雨音は変わらず続いている。

 ちょっとだけ、絵里香よりも前を歩く。だって、にやけてるもん。こんな顔、見せたくないし……。


「麻衣、仕事が終わったらどうするの?」


 麻衣だって! 久しぶりに呼ばれたその名前がくすぐったい。普通に話せてるかなあ?


「えー、普通に帰るけど」


 ふつーに抱きつきたいんだけど。どうしよう? まずいなあ。


「ちょうどいいや。じゃあ傘に入れてってよ」

「あームリムリ。私も傘忘れたし」


 ソノテガアッタ。岡林先生に傘、借りられるかなあ? いきなり相合い傘じゃん。


「意味わかんない。さっきの傘とか風邪とか、あれは何だったの?」

「やー、何だったかなあ!? 絵里香と話すきっかけが欲しかったみたいな? 自分でもよくわかんないや」


 左手が、ちょっと震えてる。絵里香の右手とつながりたいって、言ってるみたいだ。

 くすっ。気のせいじゃなければ、それは絵里香の小さな笑い声だった。


*


 ねえ、絵里香。

 いろいろあるけどさ、雨がやむまで一緒にいようよ。

 やまなかったら、一緒に濡れて帰ろうよ。

 これから絵里香と話したいこと、いっぱいあるんだ……。


 グリーン・スリーブスのメロディも消え去り、廊下には二人の足音と声だけが響いている。


 図書館までは、もう少し。絵里香に、このドキドキが伝わりませんように――。

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