第4話 タイムマシン

 そんな中で、特に優秀だったのが、久保の父親だった。

 父親は、結構早死にであったが、それは最終的には自殺だったのだ。

 遺書というものが存在したわけではなく、

「なぜ死んだのか?」

 ということは、闇に紛れてしまっていた。

 ただ、時代的には、自殺者も少なくない時代だった。

「栄養失調で死んでいく人と、自殺をする人とが、当時の死亡者の多さを引き出す人たちであった。

 この二つは、

「この時代の特徴」

 といってもいいだろう。

 栄養失調は、復興が進み、食料供給がよくなってくると、次第に少なくなってきたことであるし、自殺というのも、結構、遺書のない、つまりは、

「動機がハッキリとしない」

 と言われるものが多かったのだ。

 だから、

「今の時代に特化した自殺原因というのが、きっとあるに違いない」

 と言われていたが、結局、その理由が何なのか分からない。

 確かに、自殺する人で、理由が分からないという人が多いのは間違いないが、その共通性が分からないということは、

「本当に、皆同じ理由だといえないのではないか?」

 とも考えられたのである。

 だから、

「皆死んでいく」

 という事実は、まるで、

「栄養失調」

 のように、

「理由はハッキリしているのだが、自殺の場合は、理由を聞かされても、すぐに納得できるものではない」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「変に詮索しない方がいいのではないだろうか?」

 ということであった。

 ただ、一つ彼らに共通している部分があったのだが、これは、捜査員の中でも、

「すぐに分かる人と、ずっと分からないという人がいる」

 ということであった。

 それら二種類の極端な考え方があるが、一つの共通点としていえることが、

「自殺をする人間」

 というのは、まわりから、

「天才だ」

 と言われているか、

「何を考えているか分からないところがある変わり者だ」

 と言われている人たちばかりだったということである。

 実際に、どこかの大学の研究所で研究を続けている人であったり、実際にそこの長である教授だったりが、自殺のほとんどだった。

 今の時代であれば、

「実に当たり前の普通の人」

 という人も、当時は、

「異端児あつかい」

 をされていた人だった。

 彼らは、

「生まれるのは早すぎたかも知れない」

 と思っていたが、確かに、生まれるのが早すぎたのであり、

「自殺をするのは、生まれ変わった時代で、自分を今度こそ、活性化させたい」

 と思っているからではないだろうか?

 遺書を書かないのは、

「どうせ、遺書を書いても、分かってもらえるわけはないし、書きたい相手もいない」

 ということで、

「この世では、結局孤独でしかなかったな」

 ということだったのだ。

 本来であれば、

「研究に没頭できる」

 という環境であり、ただ、食糧難であったり、

「なかなか認めてもらえる時代背景ではない」

 ということでもあったが、

「俺は、これ以上、この世にいても意味がない」

 ということで、

「死ぬこと自体は、怖くはないし、この世に未練もない」

 と思うのだった。

 本来であれば、

「あの世が存在して、今と同じ環境があるのであれば、今度こそ、研究に没頭できればいいな」

 と思っていたのかも知れない。

 しかし、死を選んでから、死んでいく気分になっていくと、

「俺は何を研究していたのだろうか?」

 と、次第に、

「この世での記憶が、どんどん消えていく」

 ということを感じるようになっていった。

 もし、死を後悔する時が存在したとすれば、意識が薄れていくこの瞬間だったのであろう。

「死ぬ」

 ということ自体に怖さはないのだが、却ってそれが怖かったのだ。

「本来死ぬということは、恐怖を伴うものだ」

 と思っていたのに、死を目の前にしても、恐怖はなかった。

 むしろ、恐怖というよりも、どこから来るのか分からないが、恐怖に類似したものがあり、

「れっきとした恐怖とは違うものだ」

 と感じるのが、気持ち悪かったのであった。

 そう思うと、

「本当に生まれ変わることができるのだろうか?」

 と考えるようになった。

 そもそも、生まれ変わるという発想は、

「自分に生まれ変わることができるのか?」

 ということを度返しした張痩であった。

 考えてみれば、生まれ変わるということは、

「もう一度赤ん坊から生まれてくる」

 ということであり、知能としては、

「ゼロからの積み重ね」

 というものでしかないということになるだろう。

 実際に、

「死というものを怖い」

 とは思っていなかったのは事実であり、目の前に死が迫っている時でも、怖いとは思わなかった。

 その発想は、

「感覚がマヒしている」

 といってもいいもので、

「こんなに楽なものだったら、もっとたくさん自殺者がいてもいいのに」

 と思うくらいであった。

 それだけ、

「死」

 というものに対して。感覚がマヒしているのであり、もっと言えば、

「この世に未練というのも、本当にない」

 ということなのかも知れない。

 この世で生きてきて、人間というのは、基本的に、

「何かを達成させたい」

 という気持ちがなければ、生きていくのは難しいだろう。

 実際に、

「平和ボケ」

 した今の時代であれば、

「生きている時の感覚はマヒしているかも知れないが、死というものを目の前にした時は、本当に、怖気ずくということになるのではないか?」

 と言われる。

「楽しいことをしたい」

 というのが、生きる目的だとすれば、

「あまりにも、目の前のことだけではないか?」

 と思うのだった。

 確かに、目の前のことが楽しければ、

「無駄な時間を使ったとは思わないので、その時間に充実感があった」

 ということで、

「また明日も味わいたい」

 と思うことだろう。

 それが、

「一日一日のルーティン」

 ということになり、それが生きがいだといってもいいだろう。

 しかし、そこに、達成感というものはない。

 実際に、

「達成感」

 というものがなくても、人間は、楽しければ生きていけるというものではないだろうか。

 逆に、

「達成感があれば、満足感がなくとも生きていけるのであろうか?」

 と考えると、

「そうもいかない」

 といえるのではないかと思うのだった。

 というのは、

「達成感の延長に満足感がある」

 ということで、その間に存在しているものこそ、

「生きがい」

 であり、

「皆が、手に入れたい」

 と思っているものだということで、

「満足感」

 というものがあり。そこから、

「達成感」

 が得られなければ、生きがいは手に入らないと思うのだった。

 つまりは、

「達成感」

 というものから、

「満足感」

 というものを得ようとするのが、人間の本能であり、理屈としては、

「満足感」

 というものから、

「達成感」

 にたどり着こうとする。

 どちらが正しい道のりか?

 ということは、正直ハッキリと分からない。

 それが分かるのであれば、

「世の中というのは、もう少し楽しみというものがあってしかるべきなんだろうな」

 と感じるのであった。

 芸術家などには、結構自殺者が多かったりする。

 彼らは、ここでいう、

「満足感」

 と

「達成感」

 というものの狭間に存在している意識を強く持っていて。余計にその虚しさなるものを絶えず感じているのかも知れない。

 それを思うと、

「自殺者が多い」

 ということも分からなくもないのだろう。

 この世において、

「未練」

 というものを考えた時、

「この思い、前にも感じたことがあるような気がする」

 という、一種の、

「デジャブ」

 というものに陥るのであった。

 それが、どれくらい昔のことだったのかが分からないからだ。

 思い出した時は、

「まるで、昨日のことのようだ」

 と思うのであって、

「死を前にしたから、思い出しただけだ」

 ということで、それが、

「死後の世界」

 で感じていたことではないか?

 と思うと、

「なるほど、輪廻転生というものを信じている感覚は、まさに、その死後の世界というものだけに自分が特化して考えるからではないだろうか?」

 と感じたようだった。

 この世において、

「未練というものを、どこかに置いてきた気がする」

 というのは、デジャブを考えたのは、今の世ではなく、前世なのか、それとも死後の世界のことだったのか分からないが、少なくとも、

「今のこの世ではない」

 ということだからなのかも知れない。

 実際に、輪廻転生というものを感じたのは、あの世の記憶が自分にはあったと思っているからであった。

「あの世というのを覚えているのは、決して死というものを怖がっていなかった証拠なのではないか?」

 と感じたからであった。

 輪廻転生というと、

「死後の世界で、生まれ変わる準備をして、また新たな命をもらって、生き返る」

 ということを単純に考えるが、よくよく考えてみると、

「一体誰に生まれ変わるのか?」

 ということである。

 時代も違えば、世界情勢も違う」

 ということで、

「生まれ変わったとしても、同じ人間であるはずがない」

 と考えられるとすれば、

「だから、生まれ変わったということが、来世では分からないような仕掛けになっているのか?」

 と考えられるのである。

 確かに、生まれ変わった時、

「生まれ変わりだ」

 ということを意識させないという理由が存在するとすれば、それは、

「まったく違う人間としてしか生まれ変わることができない」

 ということだからであろう。

 そして、何といっても、

「死んでしまわないと、生まれ変わることはできない」

 というのは当たり前のことである。

 生まれ変わるということは、

「別人になっている」

 ということが大前提ということであろうか。

 一人でも、同じ人間が存在するのであれば、

「社会全体が、その人が存在していた時代とまったく同じ世界でなければいけない」

 ということになるのではないか?

 と思うのだった。

 だから、

「生まれ変わりを信じるとすれば、そこには、記憶は一切存在しない」

 ということになるだろう。

 そうでなければ、皆記憶を持って生まれ変わっているということであれば、それは、自分だけの問題ではなく、誰もが、

「生まれ変わりだ」

 という意識を持つことで、

「今の時代への生まれ変わりというものは、輪廻転生ではない」

 と考えるからだ。

 生まれ変わりをあくまでも意識させるのは、

「宗教的観点から考えることであり、輪廻転生を宗教の教えとするのであれば、それは、実際に、輪廻転生というものは存在しないということの裏付けというものではないか?」

 という考え方からなのかも知れない。

 それが、

「一種の裏付け」

 ということであり、

「輪廻転生」

 というのは、他の人に、その考えを植え付けるための、

「宗教的な手法」

 だといってもいいのではないだろうか?

 久保氏は。そのことを、自分の中でかみ砕いて考えることができているようであった。

 それらのすべてが分かるわけではなかった。

 ある程度までは、発想がうまくつながっていくのだが、最後になって難しいところで途切れてしまうのだった。

「ジグソーパズルの組み立て」

 であったり、

「損益計算をしている時、少ない数字で差が出た時」

 という感覚に似ている。

 最後の一手で残ったものが小さければ、下手をすれば、

「最初から計算をし直さなければいけない」

 ということになるのであろう。

 数字の組み合わせというものになるので、そこは、

「プラスマイナスの組み合わせ」

 となると、最後の最後で、数字が小さいと、

「プラスマイナスの組み合わせが狂っている」

 ということになる。

 もちろん、ぴったりの数字が存在すれば分かりやすいのだが、

「プラスマイナスの組み合わせ」

 ということになると、どこが間違っているのかということを見つけるのは難しい。

 自分がそこまで計算して組み立ててきていることに、それなりの自信というものが存在していることで、それは、

「双六などをやっていて、最後のさいころの目がピタリとゴールに達しなければ、多い数だけ、後戻りしないといけない」

 という理屈と似ているところがあるというものであろう。

 そんなことを考えていると、

「輪廻転生」

 というものは、本当にあるのだろうか?

 と考えてしまうのだ。

 あくまでも、宗教団体における、

「相手を信じ込ませて、入信させる」

 ということを目的とした一つの考え方を、

「いかにも」

 ということで信じ込ませるということになるのではないだろうか?

 そのような考えを、

「バーナム効果」

 と呼んでいる。

 いかにもその人に当てはまるようなことを、まるで、当たったことが天才的であるというように、相手に思い込ませるテクニックといってもいいだろう。

 それは、

「誰にでも当てはまる」

 ということが、一番の理由だからである。

 そんな時代の中で、久保氏が開発しようとしているものの中に、

「タイムマシン」

 というものがあった。

 その頃の久保氏は、

「タイムマシンの不可能」

 ということもちゃんと把握していた。

 時代的に、

「タイムパラドックス」

 ということが分かっていたのかどうなのか?

 難しいところであった。

 一口に、

「タイムマシン」

 であったり、

「タイムトラベル」

 といっても、いろいろな概念がある。

 基本的によく言われるものは、

「タイムスリップ」

 という概念であろう。

「タイムマシン」

 であったり、

「ワームホール」

 というような媒体を使い、

「時空を旅する」

 というものが、

「タイムスリップ」

 というものだ。

「タイムスリップ」

 とは違い、

「自分の意識だけが、過去の自分に乗り移る」

 という概念として言われているのが、

「タイムリープ」

 と言われるものである。

 これは、

「時空を旅する」

 というわけではなく、

「人生のやり直し」

 という概念である。

 つまりは、

「自分の人生は、どこかの瞬間で狂ってしまったんだ」

 という考えに至った時、普通の人は、

「ああ、あの瞬間から、人生をやり直したい」

 と考えることであろう。

 そんな時に出た発想として。

「その瞬間に、自分だけが元に戻って、どういう失敗をしたのかが分かっているだけに、やり直しができる」

 という、かなり落胆的な発想であった。

 そもそも、

「どこで間違えた」

 ということが分かっているとしても、

「だったら、どうすればよかったのか?」

 ということが分かるというのだろうか?

 可能性というのは無限にある」

 ということではないか?

 確かに、

「その瞬間から、最悪になったのだ」

 ということであれば、それよりも、少しはましになるであろうという選択肢くらいは分かるかも知れない。

 しかし、

「上を見ればきりがないように、下を見てもキリがない」

 というのが、

「無限」

 というものだ。

 自分の中で、

「これだったら、だいぶマシだろう」

 と感じたとしても、それはあくまでも、その間違えたという、

「点としての瞬間」

 というだけで、その瞬間だけを見て、

「これならマシだ」

 と思ったとしても、

「少し広い目で見ると、全体的に狂ってしまうのではないか?」

 と考えるのであった。

 だから、自分の中で、

「これが正しい」

 という答えが確立されていない限り、中途半端な状態で過去に戻ったとしても、結果は同じにしかならないということではないだろうか?

 だから、結局、

「紆余曲折するかも知れないが、結果として、同じところに戻ってくる」

 ということを考えると、

「タイムパラドックスに逆らうことはできない」

 とも考えられる。

 しかし、

「タイムリープ」

 というのは、

「自分の身体に乗り移る」

 というものだから、あくまでも、

「自分の人生における過去や未来に限定される」

 といってもいいだろう。

 だから、実際のタイムリープというものは、

「同一次元の同一時間に、同一の人間が存在する」

 という、

「矛盾」

 は発生しないということになるのだ。

 だから、タイムリープには、タイムマシンや、ワームホールなどという概念は存在しない。

「タイムマシン」

 というのは、

「現在と過去を自由自在に行き来することができるという、人間が考えて開発するであろう、タイムトラベルを可能とするアイテム」

 のことである・。

 逆に、「ワームホール」

 というのは、

「時空を超える」

 という力を持ったものであり、一種のタイムトンネルという発想である。

 トンネルが、

「時空」

 というものであれば、

「タイムトンネル」

 であり、これが、

「距離」

 という概念であれば、

「ワープ航法」

 ということになるのであろう。

 どちらにしても、

「SF小説」

 などに書かれているもので、本当にタイムトラベルが可能かどうかは、問題は、

「タイムパラドックスに掛かっている」

 といってもいいだろう。

「タイムパラドックス」

 というものは、

「タイムトラベルにおける矛盾」

 ということである。

 たとえば、自分が過去に行って、自分の親が知り合うということを邪魔したり、自分が過去に行ってしまったことで、

「親が事故にでもあって、死んでしまった」

 ということになると、

「自分は生まれてこない」

 ということになる。

 しかし、そうなると、自分がタイムマシンを開発し、過去に行くこともないのだから、自分が生まれてくることになるのだ。

 だとすると、

「タイムマシンを開発し、過去に行って、親が事故に遭って……」

 という矛盾をずっと繰り返すということになるのだ。

 これが、タイムパラドックスになるのだが、別の考え方も出てくる。

「もし、親が死んでしまったとして、どうして自分が生まれてこないという発想になるのか?」

 ということである。

「別に自分が生まれてくるのは、今の両親からである必要はないのではないか?」

 という発想。

 さらに、もう一つは、

「何も、過去に戻るタイムマシンを開発するのが、他の人間になってしまう」

 というだけなのかも知れない。

 つまりは、

「自分が最初に開発したから、自分だけのものだ」

 ということになっただけで、自分がいなくても、自分が開発したとされる時期のちょっど後に誰かがタイムマシンを開発すれば、自然とその人が自分の代わりをするだけで、時代として、そして、空間的にも、別に何ら問題がないのではないかということになるのであろう。

 それを考えると、

「タイムパラドックスというものを、そんなに深刻に考える必要などないのではないだろうか?」

 ということになるであろう。

 この発想が、いわゆる、

「パラレルワールド」

 という発想を生み出すことになる。

 というのは、

「時間の流れというものは、次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 と言われている。

 だから、今生きている世界は、その可能性の一つでしかなく、そう考えると、

「無限に広がっている可能性」

 というものを、一つの世界と考えれば、それ以外の世界というものが、

「まったく別の世界を形成していて。それぞれに、すべてが存在しているとは考えられないだろうか?」

 というのが、

「パラレルワールド」

 という考え方である。

 だからこそ、

「タイムリープ」

 というものを行って、過去に行ったとしても、そこから先、

「今の方向に向かえば、ろくなことはなかった」

 ということで、その時が

「人生の分岐点だった」

 ということで、やり直したいと思ったとしても、結局、無限に広がる中で、何が、正解だったのか?

 などということが分かるわけはないではないか。

 それこそ、

「無限に可能性は広がっているのである」

 上を見ればきりがないように、下を向いてもキリがない。そのキリがないうえの中から、選んでいるつもりでも、結果としては、下の方の無限から選んでいることだろう。

 しかも、その分岐点で、選んだ道が、

「正しかったのか、間違いだったのか?」

 ということを、誰がどのように証明してくれるというのだろうか?

「ひょっとすると、人生の最後まで行って、すべてを覆すようなことがあるかも知れない。その時に、

「ああ、あのタイムリープが間違いだったんだ」

 と分かったとしても、それこそ、後の祭りだったわけである。

 となると、

「答えが分かるとすれば、死んでからしか分からない」

 ということであり、そうなると、

「死ぬまで分からない」

 ということであり、結局、

「気が付けば死んでいた」

 というような、

「洒落にならない笑い話」

 という結論になるのではないだろうか?

 もし、

「人生をやり直すとすれば、どこからやり直したい」

 という質問に対して、

「いつからやり直したい」

 ということを考えられる人もいるだろうが、実際には、それが分かったとしても、

「どのようにやり直せばいいのか?」

 ということが分かる人はいないということになるだろう。

 それが分かるには、

「死ぬまでの人生という時間」

 を、

「すべての無限に広がる可能性すべてを知ったうえで、その中のどれが一番自分の幸せなのか?」

 ということを考えない限り、

「人生のやり直し」

 などできるわけもないのだ。

「だったら、今よりもマシな人生」

 というものを選べばいいではないか?

 ということになるのだろうが、

 実際には、そうもいかない。

 というのは、

「それぞれのパターンを比較することになるわけで、それが、今よりも、少しでもマシだったということだって、結局は、その全体を知らなければ選択することはできないということになるのだ」

 一つのことをすべてにおいて、

「間違っているのか、どうなのか?」

 ということは、

「すべてにおいての、可能性を表に出して、比較するしかない」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

 それが、

「タイムトラベル」

 という発想からの、

「タイムパラドックス」

 という観点で、こちらは、

「タイムリープというものに対しての、矛盾を考える」

 ということで、結果としては、

「タイムパラドックス」

 というのは健在で、

「タイムスリップ」

 であっても、

「タイムリープ」

 であっても、結局、

「タイムパラドックスというものを超えることができない」

 ということになるのである。

 この考え方は、ロボット工学における、

「フレーム問題」

 と同じで、キーワードは、

「無限」

 ということになるのであろう。

 そんなタイムマシンを開発したのが、久保氏だった。

 ただ、開発したといっても、考え方のヒントを与えただけであった。実際には、大学の研究所での開発ということになり、久保氏には、わずかな金しか入ってこないはずだったのだ。

 しかし、実際に、

「自分が開発者である」

 ということで発表した教授は、そんな久保氏を、

「手厚く保護」

 したのだった。

 久保氏も最初から覚悟はしていた。

「確かに開発のヒントも与え、それによって研究、開発、実験と、スムーズに進んだのは、確かに、俺のおかげなんだろうが、あくまでも、大学の研究室があったから研究ができただけだからな」

 ということで、ある程度のまとまった金くらいはもらえるだろうが、期待しているくらいまでもらえるはずもないのは分かっていたのだ。

 しかし、それでも、博士は久保氏をかなり擁護した。もらえる金も、かなり優遇してもらえるように、大学側に話をしたのだった。

 それを聞いて、久保氏は、

「博士の気遣いにいたく感動した」

 といってもいいだろう。

「ありがとうございます。こんなに優遇してもらってもよろしいので?」

 と博士に聞くと、

「当たり前でしょう、研究したのはあなたなんだから、ここで泣き寝入りをすれば、後進の人たちが、皆ひどい目に遭うことになりますからね」

 という、

「まるで、教科書通りのような答えをする」

 のであった。

 さすがに、

「あまりにも回答が素晴らしいので、少しびっくりさせられた」

 といってもいいだろう。

 だが、そのことを考えていると、

「本当に、額面通りに受け取ってもいいのだろうか?」

 とちょっとした疑いの気持ちになるのであった。

 それを思うと、

「絶えず、博士の様子を垣間見るようになってきた」

 といってもいい。

 すると、そのうちに、

「博士と目が合うことが多くなった」

 と感じるようになった。

 その瞬間、満面の笑みを浮かべるのだが、それは、まるで、

「してやったり」

 という表情ではあるが、それ以上に、

「笑顔というだけでいいのだろうか?」

 と感じたのだ。

 その顔は、微妙に歪んでいるように見えた。

「こっちが考えているのとは違う考えを秘めている」

 と感じたのだが、

「それが何であるか?」

 ということは、決して分かるわけではなかったのだ。

 そんな回答の中で、一つ考えられるのは、

「少なくとも、今回の発明に関してというよりも、博士が欲しいのは、この俺なのではないだろうか?」

 ということであった。

 自分でいうのは、あまりにも、自信過剰なのかも知れないが、確かに、今度のタイムマシンの発想は、

「俺でなければ思いつけなかっただろうな」

 という自負はあったのだ。

 博士は、そんな状況を分かっているというわけではない。

「今回の発明は、久保君でなければできなかっただろう」

 と何度も口にしている。

 もちろん、

「本当の開発者は、博士である」

 ということにしておかなければいけない。

 それは、今までの学術界の常識であったり、慣習からも、それ以外は考えられないのであった。

 もちろん、部下が研究した」

 ということになれば、マスゴミの食いつきも変わってくるし、そもそもの研究がどこに変われることで、

「一番金になるか?」

 という、そういうリアルな話も大きなことである。

 ただ、

「開発者が、有名な博士であり、誰が見ても、その信憑性を疑う人はいない」

 といってもいいだろう。

 しかし、それが、

「一研究者」

 ということであれば、

「そんなもの、本当に信頼していいのか?」

 ということで、世間は、相手にしないのがオチだ。

 ということになり、

「本当は、ここで舞台に上がらないと、誰も。認めてくれることはなく、せっかくのタイムマシン研究が、まったくの水泡に帰すということになる」

 というのが、関の山である。

 それを考えると、

「どうすればいいのか?」

 ということは、一目瞭然だ。

 一人の研究者の、

「ヒューマニズム」

 だけで、どうなるというものでもないということなのだ。

 実際に、タイムマシンの研究というものは、今までに百年近くされてきたといってもいいだろう。

 もちろん、19世紀から、20世紀前半にかけては、

「戦争の世紀」

 と言われるくらいだったので、それを思うと、

「世の中、戦争以外の開発は、してはいけない」

 と言われていた時代でもあった。

 博士が、今回、久保氏を擁護したのは、

「久保氏がかわいそうだ」

 というようなわけではないことはさすがに久保氏にも分かっている。

 そんな、

「お涙頂戴」

 というのが、研究開発界にあるわけはない。

 そう思うと、

「久保氏の何かに注目をしたのだろうが、それが、研究内容そのものではなく、久保氏という人間に関してのことだ」

 ということになるのである。

 今回の研究は、

「無限」

 という考えから、タイムマシンの第一歩に繋がる研究ができた。

 しかし、まだまだ同じレベルの開発ということで、同じく、

「無限」

 というものをテーマにしたものが、できていないということで、

「ロボット開発の研究」

 というものに、久保氏がどうしても必要で、

「他に引き抜かれるようなことがあっては一大事」

 ということを、博士が誰よりも分かっていたのだろう。

 逆にいえば、

「博士がいなければ、誰も、久保氏に注目することもなく、他に盗まれることはないかも知れないが、開発ができるとも思えない」

 ということだったのだ。


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