第14話 十日月

 這う這うほうほうの体で朔見屋敷を飛び出した江頭行橋は、夜道を急いだ。付き従う従者はいない。朔見屋敷の使用人がお情けで帰り際に松明を渡してくれなければ、寂しい道を十日月の明かりのみでいくはめになっただろう。

──ああ、恐ろしや。

 白刃がつきたてられた喉は傷一つついていないのに、ひりひりとする。ぎらりと光った泰時の目には、明確な殺意があった。

 何より突然現れた、元皇女、杏珠の白く整った顔だ。美しい唇がにいっと笑むと、背筋が凍り付いた。

──この世のものとは思えぬ。

 非の打ち所がない美しさだった。

 睨み蔑むような瞳に見つめられた時、魂を取られるのではないかという恐怖にとらわれた。まるでその存在そのものが、死であるかのようだ。

 江頭の脳裏に、杏珠の美しくも恐ろしい姿がこびりついて離れない。自分が何を言ったのか、そもそも娘のことも泰時のことも金のことも吹き飛んでしまった。

 ただ、ただ、恐ろしい。

 どこまでも追ってくるような、すぐ後ろに立っているようにも思え、江頭は何度も後ろを振り返る。そこにあるのは、深い闇だ。

 江頭に少しでも冷静に考えることができれば、自分に殺意を抱いていたのは泰時であって、杏珠はほんのちょっとの嫌味と脅しをかけただけだと気づいただろう。七星剣の切っ先を向けられた状態で聞いた脅し文句は、思考を停止させた。

 どれだけ歩いただろうか。

──ここはどこだ?

 ぽしゃん、という水音で、江頭は我に返った。

 松明の明りに照らし出されたのは、暗い水面。鬱蒼と茂る木々。

 花山から、都の中心へ戻る帰路にこのような場所はあっただろうか?

 道はほぼ一本道だ。いくら平静を失っていたところで迷うような道ではない。

 水面に流れはなく、木々の影の間に、十日月が映っている。どこかで獣が鳴く声がした。

 やがて、月が雲に隠れたせいか、辺りが暗くなる。

 しゃりしゃり

 どこかで、何かを洗うような音がしていた。

「誰だ?」

 江頭は松明を掲げ、音のする方をみる。

 暗闇の中、一人の男が屈んでなにかをしていた。

「何をしている?」

 歩み寄ろうとして、江頭は気づいた。

 なぜ、男の姿は暗闇の中ではっきりと見えるのだろうか?

 足を止め、ずりずりと後退を始めた時、男が立ち上がり、江頭の方を見て、にいっと笑った。

「ひぃぃ」

 江頭は松明を放り投げ、しりもちをつく。

 大きな水音とともに、断末魔の叫びが夜の闇の中に響いた。



 開け放った部屋から見える池に、十日月の明かりが落ちてゆらめいている。

「さすがにこの時間だと冷えませんか?」

「いえ。もう少しだけ月を見て食事をしたいわ」

 遅くなった夕食は、月見をしながら優雅に楽しむことになった。

「じきに、遠征が行われます」

 ぽつり、と、泰時が口を開く。

「二十日後に出立することがついに決定いたしました」

 東域への遠征は、年二回。実際には現地に三か月近く滞在するため、年の半分は遠征していることになる。

「つきましては、その……」

 泰時は言い淀む。

「婚姻のこと?」

「それも……もちろんそうなのですが」

 泰時の頬が朱に染まる。

「私とともに東域へ来てはくださいませんか?」

「いいわよ」

「もちろん危険がないように……って、いいのですか?」

 即答で返した杏珠に泰時は驚いたようだった。

 杏珠としては、正治からすすめられただけでなく、もとよりそのつもりだったから、むしろ置いていかれると言われたときどうするべきか悩んでいたほどだ。

「正治兄さまもそうしろと言っていたの。都に残っていると、泰時どのの弱点になりかねないって」

 現在、泰時は政治的には大きな力は持っていない。皇女である杏珠を娶ったことで、皇族との結びつきは大きくなった。その武力を欲する貴族や厭う貴族の思惑が泰時の意志と関係なく都には渦巻いている。

「陰陽師は東の結界ではあまり役に立たないと言いますので、むしろそのように言っていただけて、ほっとしております」

 泰時はムッとしたように口をゆがめた。

「杏珠さまをお連れするのはもちろん御身の安全のためではありますけれど、何より私があなたと離れがたいと思っているからです。そもそも杏珠さまを望んだのは、役に立つ立たないではなく、私があなたに焦がれていたからなのですから」

「あの……それがどうにもわからなくて」

 泰時の言葉に杏珠は戸惑いを隠せず、首を振った。

 杏珠の記憶では、泰時と杏珠はせいぜい『顔見知り』程度だ。いや、杏珠はたいてい御簾の中にいるのだから、顔を知っているとも言い切れない。

「東域の遠征に加わる前、私は陛下から密命を受け、杏珠さまの警護をしておりました」

「え?」

 初めて聞く言葉に、杏珠は目を瞬かせる。

「杏珠さまが山科の屋敷に修行に行かれていた際、陰ながらお守りするという任務を務めさせていただいておりました。ですから、一方的ではございますが、私は杏珠さまを昔からよく存じ上げているのです」

 懐かしむように泰時は月を見上げた。

 杏珠は泰時の話が消化できないままだ。

「そんなに不思議ですか? 杏珠さま。陛下には口止めされておりましたので黙っておりましたが、いくら乳母が協力的だとはいえ、皇女である杏珠さまがそんなに簡単に宮殿を抜け出せるわけがありません。当然、陛下の黙認があってこそ可能なことです。またあなたのような美しい方が、たとえ男の姿であれ、街を一人で歩いて山科まで何事もなく行けるほど、都の治安はよいものではないのですよ」

「待って。陛下が……なぜ?」

 杏珠としてはそれが一番理解できない。遠雷とは、会話などかわした記憶はほぼなく、公式行事でしか会ったことがない。

「陛下は、娘だからという理由で、そのようなことをする人ではないはず」

「陛下が何ををお考えなのかはわかりません。ですが、杏珠さまの才能を伸ばすには必要なことだとお聞きしたことがございます」

 泰時に言われ、杏珠は少し納得できた。遠雷が母を側室に迎え入れた理由は、陰陽師を多く輩出する山科の家を高く評価していたからだ。遠雷は杏珠自身に興味はなかっただろうが、杏珠の才能には興味があった。

「陛下は……父は、人を愛することはあまりできないけれど、人の才能は愛せる人だということを思い出しました」

 だからこそ、泰時も重用する。

「……そうですか。私は守られていたのですね」

 虐げられた記憶はないが、母がいないことで疎外感はあった。宮廷での存在感は薄く、誰に望まれることもないと思っていた。

 遠雷に降嫁を命じられた時、厄介払いでもされたような気分だったが、杏珠の才に期待していたというなら、この結婚の意味が変わってくる。

「今度は泰時どのを私が守れということなのかも」

 杏珠は小さく呟く。

「そうではなく、単純に私が杏珠さまを守りたいと申し上げ、必ず守れと言われただけなのですが」

 自分の考えに沈んでしまった杏珠の横で、泰時は念を押すように言ったが、杏珠はその言葉を聞いてはいなかった。

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