第13話寛容
泰時は不機嫌だった。
その日は、東への遠征が二十日後に決まり、事務仕事がかなり溜まっていたせいで、帰りが思いのほか遅くなり、ようやくに帰ってきたところに、招かざる来客を告げられたのだ。
「先ぶれくらいよこしてもいいのに」
泰時は大きくため息をつく。
「娘に会いに来たのであって、泰時さまに会いに来たわけではない、といいたいのでしょう」
取次に来たミズチが苦笑した。ミズチは、イズナと同じく、泰時個人が雇っている私兵兼、使用人だ。
突然に現れたのは、泰時の母方の叔父、
事件がまだ陰陽寮、検非違使庁それぞれで調査中のため、事件の概要は伏せられている状態だから、肉親にも
「事情が事情ゆえ、会わぬわけにはまいらぬだろう。奥へ案内せよ。杏珠さまには、先にお食事をなさるようにお伝えしてくれ」
「承知いたしました」
江頭の家は、正八位。もともと、辰野の家よりも身分が下だ。いくら娘に会いに来ただけにしろ、何の知らせもない訪問は無礼である。追い返すことも可能だが、いずれはわかることだ。
泰時は気乗りしないまま、会うことにした。
「あれ? 泰時さまは?」
杏珠は首を傾げた。いつもなら帰ってきて着替えが済むと、必ず杏珠の部屋に顔を出し、そのあと二人で食事をとっている。
それなのに帰ってきた気配があったのに、部屋にやってきたのは、ミズチだけだった。
「それが、客人がいらっしゃいまして、お会いすることになりました。杏珠さまには先にお食事をとの伝言を承りました」
「そう? 少しくらいなら待っているけれど」
ここまで待っていたのだ。
この屋敷に来て、十日以上たつが、杏珠はまだ正式には『結婚』していない。泰時が『暦』にこだわっているためだ。そのため、忙しい泰時と話をするのは、食事をする時くらいしかない。
「しかし……おそらく長くなることは間違いないかと」
ミズチの顔は険しい。あまり歓迎されている客人ではなさそうだと、杏珠は思った。
「差し支えなければ、どなたがおいでになったか聞いてもいいかしら?」
「江頭行橋さまにございます。
ミズチは感情を消すように、淡々と答える。
「ひょっとして、この前の事件の件で?」
「わかりませんが、おそらくは別件かと思われます」
ミズチは首を振った。
正治の話でも、まだ事件の詳細は
「よくおみえになるの?」
「ええと。まあ。江頭家は、家計が苦しいようですので」
「なるほど」
つまり金をせびりに来ているということだろうか。
泰時は先日褒賞をもらっただけでなく、杏珠の嫁入りに際して、かなりの支度金が皇室で用意されたことは周知の事実だ。おこぼれにあずかろうと思う輩がいてもおかしくはない。
「ひょっとしたら、
杏珠つきの女房として、泰時は
ひょっとしたら、娘の恋心を利用したのかもしれない。
「……私も会うわ」
杏珠は立ち上がると、袿の裾を整えた。
「しかし、杏珠さま」
ミズチは慌てた。彼にとって、泰時の命令は絶対だ。だが、杏珠は皇族の生まれで、逆らうことはためらわれるのだろう。
「私を呪った女性の父親の顔を見たいと言っているのよ? あなたは私のわがままに逆らえず命令に従っただけだと、泰時どのもわかるはず」
杏珠は口の端をわずかに上げて、にかっと笑う。
「かないませんな。どうぞこちらです」
ミズチは苦笑を浮かべ、客間の方へと杏珠を先導した。
濡れ縁をゆっくりと歩いていくと話し声が聞こえてきた。
どうやら、泰時と、江頭行橋が話しているようだった。
「……ですから、少しでいいのです」
「先日、既にまとまった金を渡したばかりではないですか」
泰時の呆れた声にため息が混じる。
「それは、娘の支度金です。こちらにご奉公に上がるために必要経費ではありませんか」
酒やけしているような声だなと、杏珠は思った。さすがに、河静の解析の途中で聞こえた『声』とは違う。娘に呪詛をさせた訳ではなさそうだ。
「ところで、娘はどうしておりますか? 気に入っていただけましたでしょうか? 我が娘でありながら、なかなかの器量よし。気位だけ高い、変わり者で醜い皇女殿下よりよほどお気に召していただけるかと」
「なっ」
杏珠の前を歩いていたミズチが思わず振り返って杏珠の顔を見る。
「貴様、言うに事欠いてなんてことを!」
激高した泰時の声が聞こえたところで、杏珠は二人のいる部屋にたどり着いた。
高灯台の光がゆらめくなか、泰時は抜刀した剣先を太った男の喉元につきつけていた。殺気がみなぎる。泰時は本気だ。
「……泰時さま、杏珠さまにございます」
静かにミズチがひれ伏して告げる中、杏珠は扇子で顔を隠しながらゆっくりと部屋に入った。空気がピリピリしているのには、あえて気づかないふりをする。
「さて。我が夫の親類と聞き、顔を出した。泰時どの、七星剣をそのように使われては汚れる。剣を収めなさい」
杏珠は着物の裾を引きずりながら必要以上に高慢に聞こえるように話す。男は、あんぐりと口を開け、杏珠をみている。
「杏珠さま、どうして」
泰時は杏珠に気をとられ、怒りを忘れたらしく、剣先をおろした。
「私もいろいろ言われておるのは知っておるが、会ったこともない人間に醜いと言われるとは思ってはいなかった」
扇子を音を立てて閉じると、杏珠は冷たい顔でふふふと微笑む。薄暗い灯の中で、杏珠の整った顔は、幽鬼のように見えたらしく男はひぃぃと声を立てた。
「そなた、自分の娘に、我が夫の妻になるように強いたのではあるまいな?」
杏珠は扇の先を男に向ける。
「……それは」
男、江頭はおびえたように杏珠から視線をそらす。
「なるほど。親からそのように言われて、奉公勤めとなれば追い詰められもする」
杏珠は大きくため息をついた。
もちろん恋心もあっただろう。呪詛の知識は親から与えられたものではなかったかもしれない。だが、
「言っておくが、そなたの娘は私に呪いをかけようとしたゆえ、私が陰陽寮に突き出した」
「な──」
「杏珠さま」
江頭と泰時が驚きの声を上げる。
「異議申し立てがあるなら、陰陽寮に申し立てよ。ただし、えん罪である可能性はひとかけらもない。私の見立てを過ちとするのであれば、それなりの覚悟はするべきだ。今日のところは大目に見てやるが、次はきっと父上にそなたの名を報告してやろう。寛容な父上がどうするか私にはわからぬが」
杏珠が冷たく言い放つと、江頭は、悲鳴を上げて逃げ出した。
「……杏珠さまが盾にならずとも良かったですのに」
泰時が呟く。
「盾になったのは私でなく陛下です。私は虎の威を借りただけよ」
杏珠は苦笑する。実際に皇帝が杏珠の為にどの程度動いてくれるのか謎だ。だが、その事実を確かめるすべはない。
「あの男、命拾いしましたね。杏珠さまに感謝すべきです」
「杏珠さまを愚弄した男が親類とは情けない。本当に斬ってしまいたかった」
泰時は悔しそうに目を伏せ、唇を噛んだ。
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