第11話 正治
「ああぁ、暇」
杏珠は大きく伸びをした。広げた書物は、もうすでに何度も読んだもので、さすがに飽きてきた。
御簾を巻き上げているため、太陽の光は部屋の中ほどまで差し込んでいる。
風は涼やかで、空は青い。中庭に作られた池も青く、のびやかに伸びた木々は濃い緑色の葉を茂らせている。
泰時は役目があって出仕しており、杏珠はすることがない。
朔見屋敷の『屋敷』に問題はないかということで、数日は屋敷の間取りを調べ、結界を張るのに忙しかったが、それが終わってしまうと本当にすることが無くなってしまった。
「杏珠さま。お客さまにございます」
「え?」
イズナに声をかけられて、杏珠は目を瞬かせる。
客が来るような心当たりは全くなかった。
「はい。第四皇子であられる正治さまが宮参りの途中でお寄りになられたようです」
「まあ、お兄さまが?」
基本、皇族は宮廷から出ないものだが、宮参りは別だ。
それに、皇女より、皇子のほうが多少、自由が利く。
「お会いするわ。一応、几帳を用意して。こちらへご案内をお願いしますね」
「はい」
イズナは黙したまま礼をして、退いていく。杏珠は、手で髪を軽く梳いて、袿の裾を直す。
──今日は男装をしていなくてよかったわ。
こちらの屋敷に来てからずっと、狩衣で過ごすことが多かった杏珠である。今日は特にやりたいことがなかったので、袿を着ておとなしくしていたのは幸いだった。嫁いだ妹が男装で走りまわっているのを見たら、さすがの正治もいい顔はしないだろう。
几帳が用意されるのを待って、正治が部屋へと入ってきて、上座に座る。
杏珠は座したまま、頭を深くさげた。
「久しいな、杏珠。顔を上げよ」
「お久しぶりでございます。正治兄さま」
杏珠はゆっくりと頭を上げた。几帳越しではあるが、変わりがないのは見て取れた。正治は相変わらず華やかな異国の衣をまとっている。
「手紙を読んだぞ。ここに来る早々、いろいろあったようだな」
正治は胸元から、書類の束を取り出した。
「参議の森野、藍川という家について、わかる範囲だが調べてきた。もっとも検非違使の資料なら泰時のほうがもっと詳細を手に入れられるかもしれないが」
「まあ。ありがとうございます」
杏珠は正治から書類を受け取ると頭を下げた。
「直接届けていただけるとは思ってもみませんでした」
事件のすぐあと、杏珠は榊に頼んで、正治に手紙を送ってはみたものの、どこまで兄が調べてくれるかは半信半疑だった。
「
嘘か本心かはわからないが、正治は几帳をめくって、にこりと笑う。
「なんにしても、元気そうで何よりだ。泰時の嫁は杏珠で正解であった」
「それは……そうかもしれません」
杏珠でない皇女であったなら、死なないまでも呪詛を受けたのは間違いない。そうなれば、泰時自身の責任も当然問われるはずだ。
「現在まだ、事件のあらましについては陰陽寮扱いのため公開されていないのだが、かなり噂になっておってな。森野は事故物件を英雄に押し付けたとかなり非難を浴びているらしい。現在、病で臥せっているということで、屋敷に閉じこもっているようだ」
「まあ。耳ざとい者がいるようですね。森野どのもお気の毒に」
杏珠は苦笑する。いくら陰陽寮が口をつむっていても、人の噂に戸は立てられないらしい。
「どこまで意図的なのかはわからないが、完全に白でもないだろう。この朔見屋敷の噂は少し調べればわかること。そんな屋敷を紹介するあたり、悪意しかないと思うね」
たとえ呪物に気づいていなかったとしても、嫌がらせの意志はあったのは間違いないだろう。
「それにしても、なぜ、森野は泰時どのをそこまで厭うのでしょうか?」
泰時は今まで軍にいて、都を離れていることが多かった。
面識があって、嫌っているということはなさそうだ。
出世したとはいえ、泰時自身に野心はあまりない。そこまで嫌いになる要素は少ないはずだ。
「別に泰時に限らない。森野という男は、常に誰かに嫉妬し、自分が優位に立たないと落ち着かない病の持ち主だから」
「見た目通り、嫌な奴ですね」
杏珠は大きく息を吐く。
「ただ、だからといって、杏珠に呪詛をかける女を用意したりするほど悪党かと問われると疑問が残る。あの男はせいぜい、『幽霊』が出るというこの屋敷で泰時が怯え、自分を頼ってくればいいと思ったくらいではないかという気がしてならないのだ。ましてあの男は、陛下をとても恐れている」
つまり、元皇族である杏珠に害を与えることで、遠雷の機嫌を損ねるような危険を冒すとは思えないと、正治は話す。
「ああ見えて、陛下は、自分の子供が何かに利用されたり、積極的に不幸にされることを嫌っておられる」
「まあ、そうかもしれません」
それは愛情からというよりは、自分の所有物が傷つけられることが嫌という程度の感情のように杏珠には思えるが、それでも嫁いで早々、杏珠に何かあれば、烈火のごとく怒ったであろう。
「もし、この件に黒幕がいるとすれば、森野のような小悪党ではないだろう。何しろ、降嫁したとはいえ、皇族だった杏珠に害を与えることで目的を達成しようとする輩だ。泰時は当然気を付けているだろうが、杏珠、お前もくれぐれも軽はずみな行動は控えよ」
「……わかっていますよ」
杏珠は頬を膨らます。兄弟子である河静、夫である泰時だけでなく、実の兄である正治にまで釘を刺され、さすがに杏珠は自分への信用のなさが情けなくなってくる。
「ひょっとすると事態はかなり深刻かもしれない。近いうちに、泰時は東に遠征に出る。お前も一緒に行け。何か起こるとしたらそこだ」
「また呪詛が?」
「いや。何か起こるのは都かもしれない。なんにせよ、お前は泰時の弱点であり、武器だ。その方が安全だろう」
正治の目は驚くほど真剣な光をたたえていて、杏珠は思わず黙り込む。
太陽が雲に隠れたのか、部屋が急に暗くなった。
「さて、せっかくだから茶菓子の一つでももらおうかな」
重くなった空気を振り払うように、正治はにっかりと口角をあげる。
「はい。今すぐにでも」
いつもと同じ正治にほっとしながらも、杏珠は胸騒ぎがするのを感じていた。
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