第6話 朔見屋敷 4
意識を失った女を拘束すると、ようやく集まっていた使用人たちは解放された。すっかり夜が更けたものの、自由を奪った女の横で、河静を中心に調査は続けられることになった。
女の頭に生えかけた角は消え、のぞいていた牙もなくなっていたが、肌色は未だ一部が黒く、手の爪は伸びたままだ。
「私では浄化しきれませんでしたね」
杏珠はそっとため息をつく。
「杏珠さまの霊力に問題はないです。どちらかといえば、このお屋敷の陰気の濃さ、本人の業の深さのせいです」
「……そうですね」
発動していないとはいえ、この屋敷にはまだ呪物が残っている。呪物は陰気を引き寄せ、陰気は魔を引き寄せてしまう。そして魔を引き寄せるのは、結局のところ人の心にある闇だ。
「こうなった以上、ここで話を聞くのは無理ですね」
「ああ。
鬼になりかけた人間は、ほんの少しの感情の揺れで、再び鬼になってしまう。本物の鬼になってしまえば、二度と人間に戻れない。今ならまだ人でいられる。ただ、あくまで治療が適切に行われた場合だ。
「それで、この人は、辰野さまにとってどのような方なのでしょうか?」
「どのようなも何も、ただの従妹でしかない。私としては好きも嫌いもない相手だ。殿下と河静のように、兄、妹と呼ぶほど仲の良い従兄妹でもなかった」
河静の問いに泰時は困惑しながら答える。
彼女の名前はさと。泰時の母方の従妹だ。
年は杏珠と同じ二十歳で未婚。今回は行儀見習いを兼ねた奉公という名目だった。
「そもそも会ったことも数えるほどしかない。それも幼子の時にだ。今回、殿下をお迎えするにあたり使用人を捜していたところに、叔父がぜひにと言うので久々に会って話をしたが、それだけだ。やましいことなど何もない。それも七日前のことだ」
泰時は長い間、東に遠征をしていたのだから、少なくともここ数年会ったことはないというのは本当だろう。男女の関係があったかどうかは日数だけではなんともいえない。とはいえ、ここで嘘をつく意味はなく、少なくとも泰時は何も彼女に感じることはなかったと考えていい。
もしそうだとするなら、彼女の想いは随分と独りよがりで一方的だ。
「仮に愛をかわした相手であったとしても、かなり過激な方なのは間違いないでしょう」
泰時の話を聞いていた杏珠は口を開いた。
「普通の女性は嫉妬をしても呪詛はしません。呪詛をしてまでも愛を取り戻したいと願うのは、自分への愛が薄れたと感じる時だと思うのです」
杏珠は言葉を継ぐ。
「褒賞で与えられる妻なんて、陛下の押し付けではありませんか。つまり愛は消えないと信じたくなるのが人情。よほど正妻の座にこだわりがなければ、腹立たしくてもしばらく静観する人間の方が多い気がします」
もちろん自分一人だけ愛されたいという気持ちもあって然るべきだ。ただ、その気持ちだけで呪詛に走るのは極端すぎる気がしてならない。もっとも杏珠は皇帝と妃たちの関係を間近に見てきたせいか、権力とは無縁の恋愛の機微がわかっていないだけということもある。
「私は今まで誰とも愛をかわしたりしておりませんし、殿下のことは私が陛下に直々に望んだものです。押し付けられたわけではありません」
泰時はムッとしたように口をへの字に曲げる。
仮の話ですら、嫌だということらしい。どうやら泰時が杏珠を望んだというのは本当の話のようだ。理由に心当たりは全くないのだが。
「辰野さま、杏珠さまがおっしゃりたいのは、呪詛をかけたのがあまりに早いということです」
河静が呆れたように口をはさむ。論点がずれたと言いたいのだろう。
「常に気に入らないことがあると呪詛で解決していた人間なら別ですが、普通の人間は追い詰められなければ呪詛という手段に思い至らないものです」
「それに普通の人間は霊玉など持っていないですしね」
杏珠は肩をすくめた。さとが袖からこぼした数珠のような玉は、真っ黒に染まった霊玉だった。通常は無色透明の『力』の塊で、陰気に染まれば黒くなり、陽気に染まれば光り輝く。
あの時、追い詰められた
霊玉は、泰時のように魔と戦う人間か、陰陽師くらいしか使用しない希少なものだ。高位の貴族とて、手に入れるのは簡単ではない。
「
ふーっと河静はため息をついた。
「降嫁したばかりの杏珠さまに何かあればもちろんのこと、失敗したとしても
「……これだから都の貴族は好かぬ」
泰時は頭を振った。
「それほど気に入らぬのであれば、刺客でも何でも送ってくればいい。寝首を搔く根性もないくせに」
「辰野さまの出世が気に入らなくても、辰野さまがこの国からいなくなることの方がもっと怖いのでしょう。できればほどよく孤立していて欲しいと思っているのかもしれません」
河静は苦笑した。
「まさか陛下が?」
「少なくとも陛下ではないでしょう」
杏珠の問いに、にこりと微笑む。
「辰野さまに杏珠さまを与えた時点で、陛下は辰野さまを必要となさっていることがわかります」
「え?」
杏珠は首を傾げた。
「わかりませんか? 杏珠さまは普通の姫ではない。そして後ろ盾となる我が山科の家には金も地位もありませんが、見えざる『力』を持っている」
「つまり、陰陽師として、将軍をお支えしろと陛下は考えているということですね?」
杏珠はポンと手を打った。
「別に私は殿下が陰陽師だからというわけでは」
「あくまで、
不満げな泰時を横に、河静が言い切る。
「参議の森野はどうですか?」
杏珠の問いに、河静と泰時は驚いたようだった。
「この屋敷を将軍に紹介したのは、森野光明だそうです。もちろん、古い呪いがあることを知らなければ、場所も広さも申し分ないですので、一概に悪意があったと決めつけることはできませんが」
杏珠は森野の狡猾な顔を思い浮かべた。
あの男なら、
「しかし、仮に森野さまなら、殿下の後ろに山科の家がついていることはご存じのはずだが……」
「山科の家がついていることはご存じでも、杏珠さまの陰陽師としての素質がどの程度のものかは知らないでしょう」
河静が首を振る。
「杏珠さまが陰陽師の修行をなさっていることは多くの者が知っております。ただ、それは貴人の戯れ程度のものと思われている」
「それは……」
その通りではないかと、杏珠は思う。杏珠はまだひよっこであり、正式な陰陽師を名乗れる立場にない。
「杏珠さま。いくら稚拙な術だったとはいえ、書物を多少読んだだけの人間は呪いは返せません。それこそ山科の血を引く杏珠さまをなめくさっておりますが、杏珠さまが山科の家で修業したことを知るものはほぼいないのです」
「ああ。なるほど」
杏珠は宮廷を勝手に抜け出して山科の家に通っていた。もちろんそこには、乳母の協力があってこそできたことで、本当に『勝手に』抜けだしていたわけではない。だが、公式に出かけたわけではなかった。だから、山科の家で正式に修行したことを知っている者はわずかしかいない。
「この屋敷の呪具は、破魔の剣を持っている辰野さまですら気づかなかった。森野さまが知らなかったとしても不自然ではありませんので……とりあえず、古い呪具の確認をすべきかと」
「……そうだな」
「そうですね」
泰時と杏珠は河静の意見に同意した。
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