傷心(四)

「どうして……ここに」

 滝のように汗が流れる。紅玉領を守るために、死ねばいいと呪った男が、今、私を見下ろしている。そこは、東宮様がいるべき場所ではないのか。なぜ、希彦がここにいるのか、意味がわからなかった。しかも鈍色の狩衣ではなく、黄丹おうにほうを着てる。その色は、東宮様だけに許された色ではなかっただろうか。

「死んだと思ったか? まさか、この私に呪詛をかけようとは……」

「な、何をおっしゃっているのです? 私は、呪詛なんて————」

 希彦はいやいや、と、わざとらしく首を横に振った。

「狗丸から聞かなかったか? 私には、普通の人間には視えぬものが視えると……」

「それは……」

「視えるということは、それをどう対処するかも心得ているとは思はなかったか?」

 確かに、よく考えれば希彦は人形を何か経のような文字がびっしり書かれた布に包んで持っていた。母は、対象となる人物の近くに人形があればあるだけ、早く効果が出ると言っていた。力を使い切ったら、紅玉は元に戻る。紅玉は元に戻っていた。だからこそ、力を使い切り、希彦を殺してくれたのだと、そう思っていたのに————

「……結界……?」

「まぁ、そんなところだな。私の母はそういう不思議な力に精通していてね、その才能を私も引き継いでいるのだよ。だからこそ、呪詛の調査に主上おかみは私を選んだ。しかし驚いたよ。包みから出した瞬間、私を殺そうと、撫子殿と瓜二つの悪鬼が見えた時は」

 希彦は私の目の前に腰を下ろすと、あの包みを開いて見せた。中に入っていたあの人形はそのままの形でそこにあったが、目の部分だけは違う。紅玉が跡形もなく消えている。力を使い切ったら、紅玉は元に戻るはずだ。叔父の家で見た紅玉は、どこもかけることなく綺麗な形をしていた。やはり力を使い切ったということでは、なかったのか……?

「追い返してやったが、反射的に行った呪詛返しだったせいでね、誤って瑠璃領に飛ばしてしまった。だがまぁ、瑠璃領にはそういう力が及ばないように結界が張ってある。どこか他領に飛んでいったようで、行方を探していたのだが……」

 にやにやと笑いながら、希彦は続ける。

「何度も跳ね返されたせいか、行き場をなくした悪鬼は姿形を変えて、どうやら翡翠領に入ってしまったらしい。翡翠領の姫が一時、行方不明になった騒動は聞いているだろう? そのせいだ」

「は……?」

「要するに、撫子殿がかけた呪詛が、回り回って他領の姫に害を及ぼしたのだよ。実に面白い現象だった。こういう不思議なことが起こるから、呪術はやめられない。面白いと思わないか?」

 希彦は同意を求めているようだが、私は全く理解できなかった。翡翠領の姫が行方不明になった原因が、私? 意味がわからないし、本当にそんな出来事があったなら、気味が悪い。それを面白いとか、そんな風に思えない。


「……おっと、こんな話をしたかったのではないんだ。実は、撫子殿に頼みたいことがあってね」

「頼みたい……? 私に?」

「ああ、聞いてくれるだろう? 撫子殿が呪詛でこの私を殺そうとした事実を隠してあげているんだから。私は撫子殿に裏切られて、とても傷ついたけど、報復をせずに生かしてあげているんだから。私が何もしていないからこそ、五体満足でどこも欠けることなくこうして、無事に妃選びに参加できている。そんな私の頼みを聞くくらい、簡単なことだろう?」

 脅されているのだと悟った時には、もう手遅れだった。ここはもう紅玉領ではない。味方となってくれる父も、梓も、大伯母様もいない。宮中では至る所で、誰かが必ず妃候補である私の一挙一動を見ている。自分でこの奇妙な男の口を塞ぐことも、誰かに代わりにそれをしてもらうこともできない。妃選びが始まってしまった今、私の周りには呪詛のことなんて何も知らない女房が二人しかいない。何も、できない。

「……」

 私は何も言えず、希彦を睨みつけることしかできなかった。

「やっぱり、撫子殿はまともだね。まぁ、紅玉領の女の中では、だが」

 希彦は怯みもせず、相変わらず猫のような目を細めてにやにやと人を馬鹿にするように笑っている。今すぐに殴ってたりたいが、そんなことはできない。状況から考えて、希彦は東宮様と近しい人物ということになる。東宮様にしか許されていない黄丹の袍を着ていて、咎められる様子が全くないのだから……

 帝にはたくさんの側室がいると聞いているし、まさか、その誰かとの間に生まれた皇子様? でも、そんな話、聞いたことがない。私は妃候補として皇室のことは学んできている。今の帝には、東宮様と年の近い皇子はいないはず……

「大丈夫。何も難しいことではないよ。晴彦はるひこの妃選びを面白くしたい。それだけなんだよ」

「面白く……?」

「妃候補の中に、物の怪を混ぜておいたんだ。君は賢そうだから、もしその物の怪が誰だか気づいても、口にしないで欲しい。ただ、それだけだよ」

 そう言って、希彦は実に楽しそうに、けらけらと笑った。




【紅玉の祭壇 了】

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